S.M.L.の音楽科教育(V)

実技教育研究指導センター 音楽科教育分野 教授 鈴木 寛 1997年3月 
実技教育研究 第11号より


INDEX


●音から音楽へ


 既に述べたようにS(Sound)のレヴェルの教育は主として知覚に関する能力をどう高めるかということになるが、この知覚に「スキーマ」がどう関連するかについては既に述べたとおりである。しかし、「音」そのものはどのくらい「音楽」的なのかについては詳しく述べていなかったので、本章で述べる。
 お寺の鐘や獅子脅しの音は単音でもある種のメッセージを持っていると考えられる。しかもそのメッセージは音楽的なものであることが多い。この場合「情景」や「環境」を連想させるスキーマが関連しているものと考えられる。「ゴーン〜」というお寺の鐘は遠くで鳴っていることが必要である。その離れた位置から聴く者に到る距離の中には大自然が有り、民家や喧噪を離れた畑や山里を連想させる。そこには音楽では表現できにくい情緒や雰囲気が存在する。途中に妨げる物がない静けさや空間が「ゴーン〜」という音から連想される。これは、日本的な情緒かも知れないが、外国においてもミレーの晩鐘のような情景が連想される。
 単音はしばしば「合図」に用いられる。お寺の鐘も時を告げる合図である。しかし、同じ合図でも開演を告げるベルやブザーの音とは異なるものがある。まして目覚まし時計のベルに到っては決して心地よいものでは無い。このように「音」にも本質的に心地よいものとそうでないものがある。「楽音」と「騒音」という分類があるが、銅鑼やシンバルのような本来騒音に分類される音がオーケストラでは他の音では置き換えのきかない音として音楽的に用いられているし、固有のピッチを持たない打楽器類は殆どの場合騒音を発するが楽器として何物にも代え難い存在を主張する。「ポン」という鼓の一発がある持続した状況を打ち切り、次の状況への転換の合図として効果的に用いられているケースは能などではしばしば体験する。
 近年マリー・シェーファーらの提唱する「サウンドスケープ」の概念ではあらゆる森羅万象の発する音は既に音楽であるとする概念から成り立っている。確かに真夏の昼間に聴く風鈴の音はさわやかで音楽的でもある、ましてその時遠くから金魚売りの声が聞こえようものならできすぎた場面となる。しかし、台風の中で鳴り続ける風鈴はもはや不快感や不安感を伴う。現代音楽においては、あえて美しい音ばかりでなく不快な音や不安な心理を伴う音による表現が狙いのものもある。
 このように「快」か「不快」かは、「受容」「拒絶」と密接な関係があり、前編で示したのごとく、「情動」と密接な関係が存在する。マリー・シェーファーらの提唱する「サウンドスケープ」の概念ではあらかじめプラグラムされた音は何もない。全ては偶然にしかも自然に発せられる音に依存している。ジョン・ケージにいたっては「無音」に終始する沈黙すら音楽であるとする。
 ここに無音も含める「音」をすべて「音楽」と認めるか、プログラムされた「音の秩序」を「音楽」と呼ぶのかという20世紀末の大きな対立が存在する。
 音楽の機能つまり、人間にとって音楽とは何かという形而上的な命題をここで論ずるつもりは無い。しかし、子供たちの学習のアイテムとして「音楽」が存在する以上何を音楽とするかの意識は必要であろう。
 時代による音楽的価値の変遷は音楽史的にも人類文化史的にも把握することは可能である。中世ヨーロッパの音楽には上向導音(いわゆるシの音)が欠如したままであった。それでも当時の人たちはそれを不自然とは思わなかった。ペンタトニックのまま現在まで進化していない民族音楽もある。日本の演歌や歌謡曲のように旋法やペンタトニックから巧みに機能和声に適応した進化を遂げた国もある。いつの時代もどの民族も「伝承」と「進化」を同時並行に行ってきたわけであり、どれが正しくてどれが間違っているとか、どれが、美しくてどれがそうでないという類の短絡的な判断は禁物である。
 多くの音楽家はそれぞれ専門の分野をもち、その専門分野に誇りや価値を見いだす。そのことが前に述べた対立の一つの原因であろうが、それ以外に筆者の学生や当学の教官には例の「絶対音感」や「相対音感の欠如」に起因する「音」そのもののピッチや音色、音量などのメッセージを「音楽」であると考える人たちが早期音楽教育の結果増えていることも一因であると考察される。つまり「今何の音が鳴った」「次に何がどう鳴った」ということが面白いというレヴェルの人と、「今何の音が鳴った」「次に何がどう鳴るか」とか「前の音からどういう関係が生じた」という意識の変化が面白い人とでは同じ音楽を聴いたり弾いたりしても対象に対する意識は全然異なるのである。固有の音のイメージのみを即物的に捉えるのと、自分の意識の中で音楽として再構築するのでは大きな違いがあるということである。
 書の大家が毫いた1枚の書に、バラバラで意味の通らないただ視覚的に(デザインとして)面白い文字が書かれているとする。漢字や日本語の分からない外国人がそれを見て美しいとか面白いと言うことはあり得る事である。ただ、彼(女)等はデザインとしての書を評価しているのであり、その書かれた文字や文のメッセージをイメージしたり深めたりすることはできない。「喝」と一文字書かれただけでも書は無限のメッセージを見るものに送る。文字数が増えるほど読むものの自らのイマジネーションは減少し、代わって書いた人のメッセージが強くなる。平易に言えば押しつけがましくなる。このことは20世紀の音楽や文学が多弁になりすぎて聴衆の創造性を奪った結果、現代の散文的で非韻律的な音楽や文学を生んだとの意見の根拠である。
 五七五等の俳句や短歌の方が説明的な長文よりはるかに多くの情報や意味を持っていることは誰もが知るところである。ぎっしり音の詰まった20世紀までの音楽では伝えきれないものを目指して「音」だけによる表現が試みられたのが現代音楽の本来のスタンツであろう。そのためには「調性」や「機能和声」が邪魔になったわけである。
 結果として美しい和音や旋律から遠ざかり「変な音楽」として親しみにくい存在の音楽になってしまた訳であるが、美術の世界でもピカソの真似をしてただ己のデッサン力の無さの言い訳として抽象画を描く者が居るように、音楽性の欠如に起因する似非(えせ)現代音楽があたかも優れた作品や演奏のように評価される風潮が事態を混乱させているのである。その混乱の中で「新しい」ことは良いことであるとする現代の風潮が追い風となり「努力」をしない手抜きの音楽があたかも芸術のような捉え方で評価されているのも事実である。そのあたりの哲学がわからない人にとっては「音」が鳴れば音楽であるという立場に自分を置かざるを得ないのである。音楽を単なるサウンド・デザインであるとする立場がこれである。
 ここで重要なことは、ある形式や様式の音楽を支持するあまり他の種類の音楽に対して排他的になってはならないということである。現実に民族音楽を強調するあまりに伝統的な西洋音楽を「否定」するような教師や、無調や12音にこだわりすぎて調性や旋律、機能和声などを決して教えない教師などがそれである。もちろんその逆もあり、バロックやクラシック以外は決して教えないとか、日本の伝統音楽は決して教えない等の教師もある。
 コンサートという言葉は永らくクラシックの世界で用いられてきたが、今の若者の間では寧ろロックやポップスの演奏会を指すようになってきた。このように音楽の環境や内容は刻々と時代と共に変化しているのであり、それでこそ「芸術」の存在意義があるものと思われる。
 ここに人類の文化や文明に関する進化論が考えられる。チャールズ・ダーウインで有名な進化論では「個体発生は系統発生を繰り返す」という大きな原理がある。このことを音楽の進化に当てはめてみれば、「個人の音楽的発達(成長)は、音楽の歴史的変遷(発展)と相似である」と言えることになる。つまり、それが石器時代の大昔であれ、未来であれオギャーとこの世に生まれる赤ん坊はすべて音楽的にゼロの状態にリセットされて生まれてくる。その赤ん坊が人間として成長、発達を遂げる過程で音楽の歴史が辿ってきた道を繰り返すという仮説である。
 初期の音楽は特定の音律や音階を持たない原始的な音組織や構造から成り立っていたと推察される。やがてそれは、音階的な法則に基づく旋律や非整数的音価によるリズムを持つようになり、言語の進化に伴って歌詞を表現する「歌」や歌詞を伴わない「器楽」へと進化してゆくのである。集団生活を原則とする人間は共同作業の概念を音楽の世界にも持ち込んだ。その結果「協和音」や「秩序」が確立されてゆくのである。やがては音楽理論で説明される「和声学」や「対位法」等のルールや楽式やその他の理論を形成してきた。
 これら一連のシリーズが誕生から幼児期、少年期、青年期、成年期という成長の過程の中に組み込まれているという事実は検証を待つまでもない事実である。この一連のシリーズの延長線は無限に直線的に進化するものであろうか。もしそうであるなら25世紀の音楽は超音波も含めた音素材や直接脳波を生成するようなバーチャルなものになるのであろうか。このような素朴な疑問に音楽学者や文化学者は答えていない。有限の寿命を持つ人生においてゼロからの出発を原則とすれば学習の過程や内容にそれほど過激な膨張は期待できない。そこで筆者は図で示すような音楽の輪廻のようなサークルを仮説として提案する。
この図ではサークルの下に示す自然音つまり神の創られた環境を出発点とする。時計回りに人工的つまり芸術という方向に発達のシリーズは進行する(西洋的音楽の場合)やがてそこで確立完成した秩序は再構築という形で自然の方向に回帰し帰着する。そしてそこを新たな出発点として再びより大きな円を描きながら新たなシリーズが開始されるのではないかというのが概略である。


 これはあくまでも一つの仮説にすぎないが、乳幼児から成人にいたるまでの発達をある程度説明できる。この仮説の根拠は人間の音楽的発達(成長)を螺旋状のスパイラルなものとした場合を想定している。言語の発達や運動能力の発達などもこれと同様であると推察される。このスパイラル構造は一周する過程で自然音から人工音の秩序を経て分化し新たなる自然音の発見にいたるのである。そして再び新たなる秩序の発見に旅立つのである。
 こう考えれば、様々なカテゴリーの音楽の個人に対する位置づけが説明できるし、発達の姿を明らかにすることもできる。原始時代の音楽はこのサークルが小さかったのである。時代の進行に伴いこのサークルは大きくなり個々の人間の中ではキャパシティの関係もあり、かなりいびつな円となってきたのである。
 実際に音楽をこれに当てはめると次のようなサークルが考えられる。
 これは20世紀末現在の最大のサークルである。普通の個人はこの円の中に包含され、創造的な芸術家はこの円からはみ出たり一部を強調する。しかし共通する概念は客観から主観への方向に進むということであり、あるがままの自然や過去の文化的遺産の模倣から新たな価値による自己実現や自己発見を目指して主観的あるいは主体的文化としての芸術的変容を目標としていることである。忌むべき行為はマンネリズムであり、形骸化である。
作品や演奏が異なっていてもどの時代の芸術家も基本は「模倣」であるが、その「模倣」を自分の文化として再構築し、再編し、「創造」的な行為へと高めていったのである。自然の模倣が純化された形で回帰するこのサークルこそが音楽教育の混迷を解くカギになる。

M(Music)のレヴェルの教育

●右回り教育と左回り教育

 このサークルが右回りなのが西洋音楽の例であるが、日本の音楽では左回りのように見受けられる場合もあり、まだ検証の必要がある。しかし、左回りの場合主観から客観化への流れをとるわけで十分にあり得る。
 音楽教育では長年この右回りのコースをカリキュラムとして採用してきた。しかし、近年文部省の指導要領では日本の伝統的音楽の指導や、世界の民族音楽の学習を含め、武満らの現代作品を取り上げるように指導方針を示している。このことはこのサークル上のあらゆる音楽文化に触れるというバランスの点では一歩前進と評価される。しかし、それぞれの音楽を「点」として押さえても「線」や「面」として捉えるための指針や方策は無い。
 系統的つまり進化論的全体像の把握こそがあらゆる音楽文化を認め自己の文化とする基盤となる。然るに、最近「創造的音楽学習」なる言葉が提案され、ワールド・ミュージックなる概念による左回りの音楽教育が提唱されている。提唱者のジョン・ペインターが言わんとすることは、従来の右回りの音楽教育のように理論や法則を学ぶことから始まってその後で音楽の構造や内容を表現するやり方では、できない子どもは能力的に淘汰され、真に音楽教育の目標である創造的活動に到達できる子どもはごくわずかになってしまうと言うことである。
 そこでジョン・ペインターは、まず思いついたことを表現することを勧め、その行為の蓄積から音楽の構造や法則に気づかせることを提案しているわけである。この即興から始まる音楽表現があたかも現代音楽のように聴こえることから、ジョン・ペインターは現代音楽的手法を音楽の第1価値としているかの誤解が日本にはある。不幸なことに坪能由紀子がジョン・ペインターの著作の多くをかなりの主観を交えて翻訳したため、ジョン・ペインター=現代音楽という生理的拒絶も含めた右回り教育との対立を学校現場に深刻に与えている。また京都ゼミナールなる坪能を囲む研究グループでは当初から「現代音楽的手法から音楽教育を始める」という誤解に基づく有志が集まっていて、それぞれの出身地に先進的研究として少なからず影響を与えている。
 ジョン・ペインターは「音」を通して自己表現することの大切さを学ぶことが音楽教育の始点にあることを提唱しているわけで、伝統的西洋音楽的技法の押しつけに対する反省から「創造的音楽学習」を提案しているのである。従って彼は伝統的西洋音楽的技法を否定しているのでもなく排除をもくろんでいるものでもない。翻訳の拙さと訳者の主観の混入がこの混乱の元凶である。
 この左回り教育は誰も思いつかなかった斬新なアイデアであると筆者は評価するが、理想と現実のギャップは思いのほか大きい。現場の音楽教育は依然として指導要領に拘束され、その指導要領は右回りにカリキュラムを構成しているからである。ジョン・ペインターの住むイギリスでは、最近やっと義務教育のカリキュラムに「音楽科」が設定されたばかりで、社会教育制度のなかで根付いていた伝統的(アカデミックな)音楽教育の手法によらないすべての児童に対する公の教育を模索する中で誕生したいわばゼロからの出発だからこそ提案できたといういきさつを考慮しなければならない。
 ジョン・ペインターは「音」を通して自己表現することの大切さを学ぶことが音楽教育の始点にあることを提唱しているわけであるが、「音」を通して自己表現することの大切さは「終点」でもあることを知らなければならない。筆者の提唱するサークルは円の大きさに関わらず、最終目標として主体的表現を目指している。それに対してジョン・ペインターは最終目標として普遍的音楽スキーマの形成を目指している。
 あらゆる学習はスキーマから出発し、新たなスキーマを再生産、再構築するという原理に基づいており、その意味ではジョン・ペインターの説といえどもスキーマからの出発であり、新たなスキーマの再生産、再構築である。決して「無」からの出発でもなければ、過去の音楽との決別を意味していないことをペインターの熱烈なる信奉者たちは知るべきであろう。
 結論的にいえることは、右回りか左回りかというのは「円が完結する限りにおいて何ら大した違いは無い」ということになり、右回り教育を未完のまま行っている現場の注意を喚起する良い材料になったと評価する。音楽は「手段」であると同時に「目的」でもあるわけで、「プロセス」が大切であるのと同時に「結果」も大切であることを学ばせたい。

●音楽教育の「基礎」「基本」

 「基礎」とは「学ぶべき事柄」のことである。「基本」とは「人類文化における共通の普遍性」のことである。
音楽教育において「基礎」「基本」は永らく楽典やソルフェージュ、エチュードのことと誤解されてきた。もちろんそれらの中には「基礎」「基本」が多く含まれている。しかし、それ自体が音楽に不可欠なものでないことは音楽の歴史的変遷を辿ってみても自明のことであろう。

基礎1
 何故音楽を学ぶのかを知ること。音楽を学ぶのとそうでない自分を意識することが基礎の1である。およそ、主体性のない受け身の教育では学習者の意識を高めることはできない。本来の目的意識のない学習は単に試験のためとか成績のためという誤った目的意識を育ててしまう。これを学習すると自分に何ができるようになるのかを知らしむるべきである。よく「本時のめあて」という板書やフラッシュカードを授業のはじめに提示する授業があるが、これなどは学習の目的を喚起するするために用いられている。ただ、問題は「言語」による提示が有効か否かと言うことであろう。むしろ行動を通した新たな課題の習得による新たな能力の獲得や、新たな展望の展開からくる「達成感」や「満足感」こそが「〜してよかった」という次の課題への自立的挑戦への足がかりとなるであろう。
 リコーダーの指使いで「変ロ」の音を新しく習うとき、そのおかげで「ヘ長調」に移調できたり、「ヘ長調」の曲が演奏したり、読譜できたりするという「なるほど」とか「ああ、そうか」のような納得があれば、新たな派生音の学習への意欲なり意義が見出せるのである。同時にその経験やスキーマは移動ドの概念や移調・転調の概念、調号の学習などのベースとして働く。

基礎2
 音楽の意味を知るべきである。単に何の音が鳴った、次に何が鳴った、同時に何が鳴った、などの聞き方はコンピュータにもできる。それらの音が連続したり、重なり合うことで何を表現したいかを洞察できなければならないし、そのコンピュータには理解できない音楽的メッセージを感じとる能力が必要である。
 音楽は音による情報の一種である。当然その中にメッセージを包含する。音楽とそうでないものを区別できなければならないし、その音楽が何を訴えたいのかを知る能力が必要である。また、理屈抜きに音楽を聴いたり表現する態度や行動が望ましい。 

基礎3
 音楽のT.P.O.を心得るべきである。どんな時にどこで何のためにその音楽が必要かを洞察できなければならない。場違いでタイミングのずれた目的にかなわない音楽とそうでない音楽を区別できるセンスが必要である。音楽の無い生活でも平気という生き方は望ましくないし、逆にいつも垂れ流し状態の音楽中毒も困る。

基礎4
 しなやかで繊細な感受性が必要である。音楽は情動を喚起しなければならない。喜怒哀楽だけが情動ではない。単なる聴覚刺激ではなく、「心」に働きかけるものが音楽であると知るべきである。官能のための音楽は麻薬である。知的遊戯としての音楽は「脳細胞」のスポーツではあるが心の糧の一部を担うに過ぎない。

基礎5
 PlayとPerformの違いを知るべきである。Playの辞書的意味は4つあり、(遊ぶ)(演奏する)(演ずる)(する)である。I play Beethoven.の本来的意味は「私はベートーヴェンを演奏する」ではなく、「私はベートーヴェンしちゃう」つまりベートーヴェンを演ずることなのである。自分がベートーヴェンと向き合って、やがて同化する行為のことなのである。つまり、極めて主観的な行為である。
 それに対してPerformは、他者の前で演奏することであり、当然客観的評価を伴うのである。自分のためではなく、聞き手のために演奏することがPerformなのである。
 現場の音楽教育では、しばしばPerformすることが重視されるあまり、Playされることのない授業が続く。受け身の教育の欠点である。音楽的である前に人間的であることを学ばなければならない。

基礎6
 音楽に憧れなくてはならない。コンピュータは何にも憧れない。人間だけが「ロマン」を持つことができる。このロマンが音楽の源流である。「思う」「想う」「感じる」「願う」という「心」の働きこそが、今日生きている意味であり、「しあわせ」の追求につながる。ひいては、生き甲斐にもつながる。
 音楽を自分の文化(生き甲斐)としなければならない。また、音楽を自分の文化として他者に伝えなければならない。教育とは生き甲斐の伝承であり、教師に伝えるべき生き甲斐(文化)がなければ伝えようもない。ロマンこそが生きる勇気を与え、真善美を追求する根拠となるのである。

基礎7
 音楽を通して成長しようとしなければならない。音楽を日常化し、能力化すれば、そうでない生活より豊かで人間的な自分を発見する。技術を高めるための忍耐力や、しなやかな感性による優しさや、人の演奏を認めようとする協調性など、成長の原動力となる能力を音楽体験を通して身につけることができる。名誉や賞賛を得るためではなく、自己改革や自分の豊かさのために成長して欲しいものである。幸いにも受験教科からはずされた音楽科は心の成長を担う教科であって欲しい。そして、音楽活動や経験を通して心の成長に有効なスキーマを形成しなければならない。
 このように「基礎」とは「人間性」の問題である。それに対して「基本」は「音楽性」の問題である。

基本1
 音楽には「もっと聴きたい続けたい」というのと、「何も感じない」というのと、「二度と聴きたくない、続けたくない」の3種類しかないことを知るべきである。「何も感じない」とか「二度と聴きたくない」音楽のために時間を無駄にしてはならない。このことを鋭敏に感じとれる能力が必要である。

基本2
 「良い」と「好い」は「巧い」や「面白い」とは違う概念であることを知るべきである。好奇心を満たすだけの音楽は心の糧とは成りがたい。「良い」と「好い」は「しあわせ」と同義語である。「しあわせ」が感じられない音楽体験はむなしい。

基本3
 音楽の価値は変動することを知るべきである。ロックが好きだといっても朝の起き抜けから聴くにはややスタミナが不足する。ワグナーの音楽はテンションを高めたりするのには向いているが、心を静めるには向かない。このように、音楽には固有のカロリーなりエントロピーが存在するが、価値は演奏者や聞き手が変わると変動する。つまり、音楽そのものに固有の価値は存在せず、演奏者や聞き手がそれを決定する。「これは名曲ですよ」の類の価値の押しつけの授業は慎まねばならない。Aにとって楽しい音楽がBにとっても楽しいとは限らない。

基本4
 音楽を聴く権利と聴かない権利では聴かない権利が優先する。聴きたくない者に対しても音楽は容赦なく聞こえてくる。聴かない権利を行使するには、その場を立ち去るか耳に栓をするしかない。あたかもそれがサービスであるかの如き過剰なBGMの氾濫は繊細な音楽環境を破壊する。聴きたい者同士が音楽を聴くように心がけるべきである。音楽教室における練習では肩が触れ合うほどの距離で互いに違う音楽を練習しているわけであるから当然本来聴こえるはずのない音の洪水のなかで、「他の音を聴かないように」練習するわけで、本来の「他の音を聴きながら」という音楽の本質に反する。

基本5
 「模倣」こそが「創造」の入り口である。名のある芸術家が必ず口にする「創造とは模倣から始まる」と言う言葉をかみしめる必要がある。模倣とは「真似ぶ」つまり「まなぶ」の語源であるとする説がある。ブルーナーの学習理論でも模倣は重要な過程であるとされている。既存の何かを模倣することで、学習は始まるのである。従って、学習者である子どもの創造性を引き出す鍵はまず「模倣」にあり、客観化から主観化へと進められるべきであり、いきなり場当たり的な行動から創造性がひらめくことは無い。

基本6
 共通の音楽言語を理解しなければならない。自分だけにわかって他人にはわからない音楽は共通の文化とはなり得ない。首を横に振れば「ノー」の意味であることは「ブルガリア」以外の国では万国共通である。同様にフォルテは強調や昂揚を意味し、ピアニッシモは沈静や落ちつきを表すと言うような万国共通の表現様式を持つ必要がある。音楽のエントロピーは一定の方向に向いており、誰に対しても一定の情動の方向と一致するべきである。
 また、あらゆる音楽には共通するイデオムすなわち慣用句的なスキーマが存在する。この慣用句を模倣し身につけることが極めて重要である。

●調や音階の学習

 いかなる時代の音楽も主となる音(主音と言ったり核音と言ったりする)とそれ以外の音で構成されてきた。「調子を合わせる」という言葉があるように、複数の人間が同じ音楽を表現するとき「基準」となる音を定めたのである。弦楽器ではそれが開放弦であったり、管楽器ではそれが全閉穴であったりする。これらの基準音をもとにペンタトニックやヘクサトニック、旋法などの音階の構成音が形成されてきた。
 音階には「自然音階」「旋律的音階」「和声的音階」の3種の他、現在では「半音階的音階」「全音音階」「微分音階」などが使われるが、原始時代に動物の鳴き声の模倣や自然音の模倣をしていたころは特定の構成音は持たなかったと言われている。その後管楽器の自然倍音から完全5度、長3度などの協和音を含めた構成音が誕生し、東洋や一部の国では第7倍音から上の音を取り入れて2度、4度、短7度などの音も用いたことも知られている。
 いずれにせよ進化論的には「旋律的音階」あるいは「旋法」が最初に誕生したことは検証するまでもない。子どものわらべうたの発達に見られるように2音構成から5音構成まで旋法的に発達してきたことは明白である。この旋律的音階は必ずしも厳密な倍音との一致は見られず、むしろクオータートーンやそれ以下の音を取り入れて構成していることはインドのシタールの音階や三味線の「はずす」という概念からも推察できる。
 個体発生的進化はあいまいな音程変化を伴う旋法的手法から始まるが、音階スキーマが完成するにつれ主音(核音)のはっきりした旋律へと変わってゆく。ここで言えることは音階の構成音は何であれ、主音(核音)のスキーマがまず確立されなければならないということである。歌っている旋律のどの音が始まり(最後)の音なのか、どの音を中心に離れたり帰ったりしているのかを認知する「メタ認知」が必要になってくる。
 調や音階の学習ではまずこの主音(核音)の認知が必要である。それを「ド」と呼ぶのが現行の指導要領の原則である。「移動ド」の学問的根拠はまずここにあることを知らなければならない。この中心となる音の認知をあいまいにしたまま音楽学習を進めることは不可能ではない。しかし、やがてハ調以外の調に遭遇したり、転調や移調の概念が必要になったときに完全に混乱することは目に見えている。その場合、唯一の逃れ場は「無調」か「12音」しかない。現在の器楽演奏家の多くは極めて早期に音楽教育を受けている場合が多い。従って、絶対音感で「固定ド」を自分の音感とする者も通常の人よりも高い率で存在すると考えらえれる。年輩の作曲家や声楽家では寧ろその逆で、晩学の人も多く絶対音感とは無縁の「移動ド」の人の方が多い。この両者の間の音感には埋めがたい溝 が存在するようである。また、初等教育で音楽を教える教師の殆どが「ハ調読み」の教育しか受けておらず、それ以外の音感は持ち合わせていない。これらのそれぞれ異なったスキーマで音楽にあるいは音楽教育に携わる人たちの混在が現場の音楽教育の混乱を招いているのであろうか。ハ長調において主音を「ド」と呼ぶところまではこの3者は完全に同じであり問題はない。
 しかし、旋律のどの音が「ド」なのかを意識しているのは、「移動ド」の相対音感保持者のみであり、あとのグループはわからないか、考えればわかるという「感じていない」グループなのであろうか。「感じない」人に感じるようにさせるにはどうすればよいのだろう。ただ「主音」という音を理屈や概念でなく、感覚としてスキーマを形成しない限り不可能なのであろうか。
 ここに奇妙な現実がある。前奏なしで誰かが歌いだし、それにみんなが合わせて歌うという場面である。その中には絶対音感保持者もいるし、ハ調読みや、相対音感保持者もいる。にもかかわらず、全員が、「調子を合わせて」同じ音を主音とする旋律を歌うのである。つまり、全員が同じピッチを主音とし同じ主音を持つ音階を使った相対音感で歌うのである。言い換えれば、誰でも相対音感を持っているのである。
 このことは、基本的音感あるいは標準的音感または普遍的音感は相対音感であることを示している。これを受けて文部省が「移動ドを原則とする」としたところに短絡的なミスが生じたように思われる。主音をドと呼ぶ習慣は11世紀までの西洋や明治までの日本には無かった習慣である。にもかかわらずどの時代でも旋法や音階は存在していたし「主音」の概念はあったのである。この概念に名前を与えたのが「ド」であり「移動ド」なのである。従って、「ド」の命名以前に名前は無かったが「ド」は存在していたのである。
 異なる3種の音感者は「主音」の認知には差違がないと仮定すれば、ラヴェリングすなわち命名のしかたに差違があるということになる。絶対音感者は絶対音的にラヴェリングし、相対音感者は機能的にラヴェリングし、ハ調読みのものは便宜的にラヴェリングしたのに過ぎないのではないだろうか。
 問題は、ある旋律を聴きながら次の音を予想すると言うような場合、相対音感者が音階構成音の機能的スキーマを利用して予想ができるのに対して、機能的スキーマに頼らない人ではその予想が出来にくいと言うことである。つまり今聴こえる音に主音とか導音などのラヴェリングが無い場合、その音の機能は認知し難いと考えられ、結果的に機能的進行が把握し難いのではないかということである。
 「情動」の原理に、「期待値よりの逸脱」というのがある。つまり、予想しないことが起こると情動が喚起されるという原理であるが、音楽を聴くときに常に次を予想し期待するという行為が困難になることが考えられる。
その結果として情動が喚起されにくいのか、機能的スキーマに頼らない別のスキーマによる期待値があり、そこからの逸脱という別の情動があるのかは現時点では検証されていない。
 しかし、相対音感と移動ドに関しては歴史的にも、実践的にもその効用は明確であり、一歩ゆずって移動ドを使わないとしても調性や音階の学習にもっとも有効なのは相対音感であると断言できる。移動ドを使わないということは、固定ドもハ調読みも使わないと言うことである。代わりに数字譜やアイツ唱法を用いても結果は同じである。とにかく使わないのである。では、そのときにTの和音をドミソと言わずに何というのか考えてみる必要がある。 C−durのTをC、F−durのTをFと呼ぶような鍵盤和声的な表現では、あらゆる調のTをどのように理解し認知するのであろう。結局ギドーが考えたような階名が再び復活するのではなかろうか。
 移動ドで近代や現代あるいは民族的な音楽を階名唱するのはイレギュラーな音が多いのでかえって困難であるという意見もある。このイレギュラーな音は経過音であったり転調のための派生音であったり、もとの音階の構成音がその音を含んでいたり色々なケースがあろうが、900年前にギドーが考案したような知恵と英断があればファの♯をフィと呼ぶなど改善の方策はあるはずである。すでにDi,Ri,Ma,Fiというシャープ系、De,Re,Mo,Feなどフラット系の唱法は存在しているが「固定ド」のためにしか用いられていない。これを積極的に「移動ド」にも導入すべきであるというのが筆者の提案である。少なくともそれによりハ調読みは消滅する。
 現場では次のような段階で改善することができる。

第1段階(固定概念の破壊)
@視唱による階名唱の前に、聴唱による階名唱を移動ドで指導する。器楽の場合は音名唱を基本としC−dur以外では階名を用いない。すでにハ調読みのくせがついている子どもに対しては楽譜と実際の演奏の調が異なるように心がけ、極力聴唱による階名唱を使う。
Aコンピュータや移調機能のある楽器を使って移調しても旋律や和声が変わらないことを感覚的にわからせる。
例えば「ドレミのうた」を移調しても歌えることをわからせる。
B鍵盤上の任意の音から音階を探らせる。結果を五線譜に書かせてみる。

第2段階(新しい概念の導入)
@初めて聴く新曲を移動ドによる階名唱で歌わせる。この場合ド以外の間違いにはあまり拘らない方がよい。全曲を通してやらせる必要はないが、あまり細切れでは効果が薄れる。
A頭に浮かんだ音程や旋律をハ調(ハ短調)で楽器演奏させる。
B頭に浮かんだ音程や旋律をハ調(ハ短調)の楽譜にドを主音として記譜させる。

第3段階(新しい概念の定着と適応)
@既知の曲をハ調に移調して演奏させる。
Aハ調の曲を任意の調で演奏させる
B転調を含む曲を転調したところからドを読み変えて歌わせる。

これらの段階的指導は先を急いではいけない。第1段階が徹底してから次の第2段階に入るようにしないとかえって混乱を生ずるからである。

●機能和声の学習

 小学校の教科書では和音と言う言葉の前に「重なり合う音のひびき」という表現が用いられている。これは和音のひびきをさしているもので、TWXなど機能にまで言及していないし、終始感や休止感、緊張感などの機能には触れていない。すでに音階の機能をスキーマとして持っているならば、音階上のTWXと機能和声としてのTWXを重ね合わせて理解するのはさほど困難ではない。しかし、音階の機能をスキーマとして持っていないならば、つまり移動ドや相対音感のスキーマを持っていないならば、機能和声の概念は理解し難いであろう。単に「とけあうひびき」「にごったひびき」としか聴こえないであろう。どんな旋律にどんな和声がつくのかを試行錯誤で探らせる授業を観たことがあるが、一部の生徒にとっては宝くじのような世界であったのを記憶している。
「和音」の学習は「和声」の学習と同義的に考える必要がある。
 「和音」や「和声」を持たない日本の雅楽などの音楽には機能和声の概念が存在しない。代わりに非協和音による「音色的和声」が存在する。日本の音楽は合奏といえどもユニゾンが中心で、ユニゾンのひびきに飾りを付けるための笙のような複音楽器が存在する。箏曲では「核音」や「5度音」などによるオルガヌム的な和声化やアルペジオ風な「旋法的和声」が所見できるし、三味線や三曲合奏では「2上がり」「3下がり」などで「4度音」もオルガヌム的に用いられている。
 旋法やペンタトニックを和声化することはナンセンスであるという意見もあれば、片っ端からそれらを和声化しようとする者もいる。1970年の大阪万博の開会式で用いられた「君が代」は初めから終わりまでオーケストラによるユニゾン演奏であったことに気づいた人は少ない。何の違和感もなくユニゾンだけで演奏された「君が代」は受け入れられたのである。
 そのことは旋律自体が既に和声的な響きを持っているからであると考えられる。ディキシーランド・ジャズのあるスタイルではたった2本のトロンボーンとベースだけで複雑なコードやハーモニーを表現している。このように和声は完全な和音でなくとも、聴き手のイメージと旋律線に含まれる和声的イメージに助けられて成立するのである。勿論不適切な省略や組み合わせでは成立は困難である。
 機能和声を感じさせる音には「ベース音」「コード」「カウンターライン」「オブリガード」「経過音」「フィラー」などがあり、和声学的なモデルのまま楽曲に出現することはコラールなどをのぞけばまれなことである。
アンサンブル学習などでは小学校の低学年から和声感が必要となり、簡素化されたスタイルのハーモニーが用いられる。
 機能和声の学習には次のような段階が考えられる。

第1段階(旋律とベースによる和声)
@旋律が移動ドもしくは相対音感的に捉えられる。
A旋律の機能的変化を代表する拍や小節が捉えられる。
Bその機能的変化をTWXなどの感覚で感じとることができる。
CTWXをド、ファ、ソ、などのベース音(根音)に対応すことが出来る。
D旋律に合わせてド、ファ、ソ、などのベース音を演奏したり、歌うことができる。
Eハ調以外の調でもそれができる。

第2段階(コードの補足)
@TWXなどに対応する和音をすべて点検する。
A基本形の和音を付けてみる。
Bメロディーと同じ高さで重なる音を省略する。
Cベースと重なる音を省略する。
D残った音を転回して横のつながりを合理的(移動の距離を減らす)にする。
E伴奏型にフィットさせる。

第3段階(変化のつながりを補強する)
@ベースの変わり目に経過音を挿入してベースの動きを音楽的にする。
Aメロディーの方向と反行するような音をメロディーとベースに挟まれる音域で和音の構成音から選び、順次進行の動きに近い音をカウンター・ラインとする。この場合持続音に近い方が安定がよい。
B長く伸びて変化しない旋律やベース音がや空白があれば、次のハーモニーを導くきっかけとなるフィラーを工夫して挿入する。

第4段階(個性的にする)
@ドッペル・ドミナントをXやX7の前に使用することを考える。
AXの代用としてUやVが使える場所を工夫する。
B結果としてXTやXUがどこに必要かを考える。
CT→Wのつなぎとして増5度や減7度、属7度の和音を考慮する。
Dそれらの結果をカウンターラインやベースに反映する。
E倚音やテンション系のコードについても知っておれば使ってみる。
Fコード・ネームで書き表したり、読んだりする。

 作曲家や音楽理論の専門家には異論があろうが、これは理想の流れであり100%は期待してはいけない。特に第3段階以降はかなりの経験とアドヴァイスがないと難しい。既存の典型的なモデルを示して模倣させることが近道である。
 いわゆる主要3和音によるハーモニーは小学校低学年では徹底的にイデオム化する必要があり、いたずらに面白いからと言って主要3和音によるハーモニーを学習する前に副3和音や借用和音に変えた伴奏を与えすぎてはいけない。沖玲子(兵庫教育大学昭和62年度卒業論文「小学生の和声感覚についての考察」)によれば主要3和音の学習が成立してからその他の和音に発展することが実験的に証明されている。
 また、和声進行は旋律のフレーズと密接な関係がありフレーズに関するスキーマの有無が大変重要な鍵を握っていることも述べている。減7の和音を除く副3和音は「長調」「短調」の識別に混乱を招くことも報告されており、安易には使用できない。しかし、楽器経験者の多くが借用や副3和音を加えて演奏を好む傾向があり、スキーマの有無がこれらのハーモニーに対する感覚と密接な関係があることも指摘されている。
 借用和音や副3和音はTDSだけの小学校低学年の伴奏に多く見られ、音楽的に優れた教師にとってはそれが耐えられない単調さを感じさせる。その結果、つい子どもも退屈しているのではないかとか、学校音楽はこれだから好まれないのだなどと短絡的に思ってしまう現実がある。しかし、TDSの持つ極めて基本的で本質的な音楽的慣用句を徹底して低学年の間に指導し、定着させる必要がある。TDS以外の和音はあくまでも代用や借用と言う概念であり、音楽的ボキャブラリーの増加の一端として考慮しなければならない。こんな和声も使えますよと言う特殊ケースとしての扱いは別として、あたかもTDSが陳腐で面白くないと言わんばかりの指導は厳に戒めるべきである。
 旋律伴奏としての和声は補助的役割が強く、和声的器楽曲においては各パート間の互助的役割が重要であり、ポリフォニックな多声処理も必要となることから第3段階以降はそれを念頭に置いて指導にあたることが望ましい。
 また、ハーモニーの創作は「編曲」や「作曲」という学習と極めて密接な関係があり、音楽大学における「和声学」や「対位法」の授業のようにならないよう、総合的内容の一部として取り扱われるよう注意深い配慮が必要である。
 短調の指導は現在平行調として導入されている。その最たる理由は調号がハ長調と同じであるということらしい。 しかも主音を「ラ」と教える手の込みようである。現実に自然短音階は出現することは希で、旋律的あるいは和声的短音階が出現頻度が高い。必然的に第7音のシャープが旋律にも和声にも出現する。この音の説明は平行調ではなかなか難しい。既に述べたように短調の指導は同主調の方が合理的である。すなわちC−durとC−mollの関係で言えばそれぞれの音階の第3音と第6音のみが半音違うだけでC−mollでは半音低い。
TとWはC−durとC−mollで第3音と第6音が半音下がるが、Xは全く同じである。「ミ」と「ラ」を半音下げなさいという指示だけで同主調の学習は完了するのである。つまりTは「ド・ミ・ソ」と「ド・ミ♭・ソ」でWは「ド・ファ・ラ」と「ド・ファ・ラ♭」、Xは共通で「シ・レ・ソ」というスキーマを形成させるのである。
 このメソードの利点は、長調の曲を瞬時に短調に転調させることができ(あるいはその逆)、それに伴う和声も何の苦労もなく変更ができることである。しかも主音はただ一つ「ド」だけであると言うことである。このように和声感覚と調感覚は一致させなければ意味がない。しかもこの「ミ」と「ラ」を半音下げるという原理は「移動ド」でしか通用しない表現であることも重要で、改めて「移動ド」の教育の必要性を感じるのである。
 和声の学習は基本的には「機能和声」であり、「鍵盤和声」や「応用和声」等は「機能和声」の基本的スキーマを形成してから学習すべきである。
 また、「移動ド」の概念はハ長調のみに留まっていては形成されないことも改めて強調したい。
 本論ではMつまり音楽のレヴェルの教育を今後述べるに当たって根本的な問題について触れてきた。東川清一がその多くの著書の中で熱心に力説してきた「移動ド教育の重要性」を最近では他の著者の著書の中にも多く見られるようになり、ピアノなどの早期教育の流行に対して重大な警鐘と受け取って行きたい。
 最近ヨーロッパの著名な音楽教育の専門家と話し合う機会があり、その中でもドイツの音楽教育がコダーイやオルフからアングロサクソン系のメソードにかわりつつあることを聴くに及んで世界的に音楽教育が見直され始めたことを実感するものである。

(以下次号に続く)


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