S.M.L.の音楽科教育(U)
実技教育研究指導センター 音楽科教育分野 教授 鈴木 寛 1996年3月
実技教育研究 第10号より
S即ちSoundの教育とは音に関する【知覚】又は【知覚認知】の教育である。Perception と呼ばれるこの能力は、近年音楽の分野でかなりクローズアップされるようになった。音に関するこの【知覚】は大きく分けて二つの現象として起こる。その一つは【現実の音知覚】であり、実際に聴こえる音に対する聴感覚の能力である。もう一つは【内的音知覚】と呼ばれるイメージとしての音の知覚認知である。
音知覚には、@音高知覚、A音程知覚、B音色知覚、C音長知覚、D音量知覚、E協和知覚、F音数知覚、G空間知覚、H音構造知覚などが知られているが、それらは個々の能力ではなくゲシュタルトとしての音に対するその時その時に有機的かつ総合的に生ずる能力である。
音高知覚とは音振動の周波数(振動数)の違いで、音楽の世界では【Pitch following、ピッチ感覚】と呼ばれる。ヴァイオリンなどの弦楽器奏者が4本の弦を正確にチューニングする時などに必要とされる能力である。この音高知覚には感覚的な知覚と認知的な知覚が有り、前者を【絶対音感】、後者を【相対音感】と呼ぶ。【絶対音感】と呼ぶ音高知覚能力を有する者は、特定の基準音に依存することなくその高さを言い当てたりイメージすることができる。ある時代においてはこの【絶対音感】こそが音楽の才能であるかのごとき認識で捉えられたこともあるが、現在では5歳までに音楽教育を受けた者の殆どにこの能力が存在することがわかっており特別な才能ではなく寧ろ直感的音感として能力化されたに過ぎず、いずれはより次元の高い音感にとって替わられるものであることがわかっている。終戦直前の音楽教育ではこの絶対音感を空襲の飛行機の機種や高度、速度などの識別に用いようと力を入れた時期があったらしいが、徒労に終わったことでも知られている。その原因の一つは絶対音感を付けるためには子どもたちの学齢が高すぎたことが今ならわかる。
この絶対音感は言葉で例えるなら【文字が読める】というのに過ぎない。文字が読めても文の意味や言葉はわからない。従って音楽の構成音が知覚できたに過ぎず、音楽がわかった訳ではない。それに対して、相対音感は基準となる音と他の音の関係からある音楽的意味を見い出そうとする認知的音感であり、【文の意味や言葉がわかる】と言うのと同じ能力である。何の音が鳴ったということよりどんな関係の音が鳴ったということが問題とされる聴き方であり、レヴェスの分類によれば音楽性のレヴェルであるとされる。コンピュータなどの機器で音高を識別することは極めて容易であるが、ピアノ演奏の中からメロディー・ラインだけを抽出するような聴き方は不可能である。それを人間はいとも簡単にやってのける。この人間の聴き方が認知的聴覚である。
従って音楽教育の観点から必要なSの教育は、相対音感的な音楽性に基づいた能力でなければならない。この絶対音感と相対音感の違いは【固定ド唱法】か【移動ド唱法】かという論争にも関連し、東川清一の著書の中でもしばしば述べられているが、【固定ド唱法】は知覚だけを使い、【移動ド唱法】が認知的であることからもどちらが教育的に利があるかは言うまでもない。
しかし、マリー・シェーファー等の新しい音楽家は【サウンド・スケープ】というコンセプトによる偶発的な音をも音楽であるとする考え方から、単音のイメージすら音楽であるとする。その引き合いによく出されるのが、京都の庭園などに見かける獅子脅しである。「カン!」と鳴るその一つの音が無限のイメージを引き出し詩的イマジネーションを与えると言うのに例える。
筆者は音楽を文字ではなく音による【詩】であるとの立場をとる。その意味で詩は厳密な文法や語法に頼らないように若干の例外的な使い方がむしろ新鮮であることも理解できる。音楽における文法や語法は調性や拍子のようなものから和声学、対位法、管弦楽法などの秩序や法則を指す。近代および現代の音楽の多くがそれらの秩序や法則からの逸脱を目指してきた。やがてそれらの音楽は作曲者や演奏家の手を離れ、偶然性や即興性による音操作へと変わっていったのである。それは、音楽の主体者が【人間】ではなく、【音】そのものになったことを意味する。セリーと呼ばれる作曲技法では数学的手法すらもとられ、ピッチの決定は人間ではなく数式になってしまった。さらに最近ではフラクタル理論を作曲に用いようとする動きもある。この場合も、ある音から次の音を決定するのは人間ではなく数学である。
絶対音高感覚保持者の多くがこれらの現代音楽を支持していることからも、絶対音高感覚保持者が相対音高感覚保持者(バッハ、ベートーヴェンをはじめとする多くの音楽家)の作品から得られる芸術的感動よりも主語が音そのものになる現代音楽に惹かれるのも理解できなくはない。この芸術的感動は人間が芸術的意図をもって創ったものに対する感動であり、その作者や演奏者の人間性に触れる行為でもある。
しかし、単なる【音】にも情動喚起の機能が存在することから、特定の音に対しても反応があることは否めない。このことが前述の現代音楽家たちの美意識や哲学のよりどころとなっていると考えられる。音そのものが音楽であるとする人たちの言う音楽にはある特徴が所見される。それは汽笛やブザーのような持続音ではなく、「ポン」とか「チン」の類の減衰音が多いと言うことである。減衰音の特徴として、消えゆく音から持続的な音のイメージが生成されることが判っているが、その自己生産の過程に人間的な行為が含まれており、それを音楽と呼んでいるようである。
面白いことに絶対音感にはいくつかの種類があるようである。例えば、特定の楽器(例えばピアノ)などの音だけに働くもの、特定の音域(周波数帯)だけに働くもの、特定の音高(ピッチ)だけに働くものなどである。我々が会話に用いる音声はそれぞれの人によって異なる音色と基準音がある。それだけで誰が話しているのかは眼を閉じていてもわかる。この能力は殆どの人に存在し誰もそのことを意識しない。伴奏のないわらべうた等の出だしの音が奇妙に全国で一致するのも元来我々に備わっている絶対音感なのである。
ピッチの変化が決定的に言葉の意味を変えるので有名なのは中国語であるが、MAAという発音の語尾を上げ下げするだけで、馬や母などの異なる意味になる。この場合、中国にも音痴はいるかも知れないが、みんな正しくコミュニケートしていることを考えれば本来人間は音痴ではないともいえる。
それでは、音痴と呼ばれる現象は何かと言えば、一般的定義に従えば@正しく音高を認識できない状態、A正しく音高を表現できない状態の二つである。この正しい音高とは音楽に用いる場合全音や半音で構成される音階上の音高を指す。未発達な幼児はこの音階上の音高からの逸脱がしばしば起こることから、音階構造による音高認識は後天的学習によるものであるとほぼ断定できる。音楽的経験を通して我々は少しずつこの楽音認知の元になるスキーマを形成しているようである。例えば聞いたこともない音楽をイメージすることはできるが、聞いたこともない音をイメージすることができないのは何故か。それは、音や音高を識別するメタ認知に関するスキーマにない音はイメージできないからである。アフリカの原住民は半音の半分であるクオーター・トーンをよく用いる。筆者の実験では音楽専攻の学生ですらこのクオーター・トーンをとらえることができないし、発声することもできない。しかし、現実にはチェロなどのフレットの無い弦楽器などでは未熟な演奏者はしばしばこのクオーター・トーンを出している。にもかかわらず彼らはそれを上下どちらかの近接する音であるとイメージ調整を行い、結果的にはクオーター・トーンであることを無視しているのである。
従って、音高認識のメカニズムは聴覚刺激を自分の持つ音高テーブルと照合して何の音が鳴ったと認知しているのである。自分のメタ認知スキーマに無い音には反応しないか、自分のスキーマに整合させてしまうかのどちらかである。音痴の原因の一つはこのスキーマの混乱や不足であると推察される。
Diana Deutchはこの音高認識のメカニズムにある種のパラドックスが存在することを証明した。ピッチ・クラスとピッチ高度に違いが存在するとする説である。時計状の円周上に右回りの目盛りを半音刻みに展開しそれぞれの時計の数字の位置にC,C#,D,D#と言うように配置したものをピッチ・クラスの回状配置と呼ぶ。一回りすると1オクターブと呼ぶこの回状配置は原則的には右回りの時上昇するように聞こえるはずであるにも拘わらず、C-F#,C#-Gのような3全音(増四度又は減五度)で構成される音程を右回りに移調しながら聞かせると、ある音のあたりから本来上昇である音が下降音程に聞こえるのである。これは筆者もDiana Deutch自身からテストを受けたが長年音楽経験を積んできたにも拘わらず見事にこのパラドックスに引っかかってしまった経験からもわかる。パターンの始まりがB,C,C♯,D,D♯の場合下降音程に聞こえ、F♯,G,G♯の場合下降音程に聞こえる傾向にあるようである。かなり音楽経験を積んだ者でもピッチ高度の違い即ち例えばC3とC4を聞き分けられないことは多くの経験者によって告白されている。ソプラノ・リコーダーの記譜上の高さと実際の高さには1オクターブのピッチ高度誤差があることも意外と知られていない。このパラドックスを利用した無限音階(いつまでも無限に昇り続けるように聞こえる音階)はどんなに訓練された耳をも欺くことで知られている。
このDiana Deutchの実験による傾向は英語を母国語とする民族とスペイン語を母国語とする民族では異なることも報告されている。使用言語との因果関係はまだ明らかにされていないが、イントネーションに依存する度合いによって民族の音高認識のメタ認知スキーマが異なることによるらしい。単音で聞けばこのパラドックスは起こらないが、二つの音の間(音程)を認知する場合のみにこのパラドックスが存在するということは基本的に我々は基準となるピッチを持っていることになる。そしてその守備範囲は使用言語や音階テーブルの状況と関係があるということになる。
会話において明るく力強い印象を与えるために個々の単語のピッチ変化の幅は通常の会話より大きく、アクセントも強調される。つまり、F-Rangeと呼ぶ周波数変化の幅や、 D-Rangeと呼ぶダイナミック変化の幅はどちらも強調拡大されるが、葬儀の挨拶のような場合は逆に縮小される傾向がある。その表現が気持ちとして相手に伝わるのがニュアンスと呼ばれるものであり、悲しみを表すニュアンスの場合、音程幅は通常より縮められる。その結果、音階は長三度と短六度のド〜ミとド〜ラがそれぞれド〜ミ♭とド〜ラ♭に縮められ、その音程で構成される音階を短音階と呼ぶのである。
もともと音階というものは自然倍音による協和音程によって創られたことがわかっている。同時に複数のピッチが発生する場合協和する音程とそうでないものが分類され、結果的に完全四度や完全五度のような完全協和音程が抽出される。それの組み合わせだけでできる音階を純正調音階と呼ぶことは一般に知られている。この調律方法についてはピタゴラス音階や中国の三分損益法などが古典的に有名であるが、近年はあらゆる調で演奏できる平均律が普通である。協和感や響きの美しさでは他の調律法に劣るが、前に述べた聞こえるピッチと自分で整合させるピッチの置き換え機能により何らの支障もなく今日の一般的な調律法となっている。一部の学者の間に純正調以外を認めないかの発言もあったが、人間の微妙なメタ認知の作用の前には大したことではないとの一般的な見解に達している。事実オーケストラの演奏のような場面では厳密なピッチを出している楽器など殆どなく、それぞれが微妙にずれることから起こるコーラス効果の方がむしろ心地よく聞こえるのも皮肉なことである。勿論ピアノのような楽器では厳密な調律を要求されるが、コーラス効果や、アンサンブル効果の期待される音では厳密な調律は意味をなさない。
純正調にこだわる人たちの殆どが、複数の音が同時に鳴る【和音】の響きのことをそのメリットにあげる。
確かに純粋倍音による響きには透明感があり美しいが、欠点として和音が和音としてではなく音色の一種のように聞こえてしまうことである。三つの音が同時に鳴っている量感や豊かさは感じられず貧弱に聞こえることが、音楽の中ではむしろ欠点になってしまうのである。しかも、最悪の場合あまりに融け合いすぎて必要な音がマスキングされて聞こえなくなることも起こる。
さて、音程の組み合わせの最終段階は【音階】即ち【調性】の知覚認知である。主音や核音と呼ばれる基準音に帰属すべくそれぞれの音階構成音には機能がある。相対音感とはこの機能を認知する音感であり、文字や言葉を品詞分類し、主語や述語として認知するような能力である。
近代や現代の音楽は12音技法から無調へと進化し、現在に至っている。つまり、音の相対関係を極力均一化し、無機能化させることをねらっている。さらに、協和音程を避け不協和音や非楽音をも積極的に用いる。音楽療法の世界ではこの種の音楽は治療に全く効果が無いことを既に指摘しているし、面白いかもしれないが情動を喚起することがないことがわかっている。主語や述語を失った音楽は作曲者や演奏家のメッセージを情動に訴えることが出来ないのである。【情報】としての音楽ではなく【刺激】としての音楽である現代音楽は個々の音の発する刺激を内的イメージに置き換えてこそ機能するのである。音そのものが情動を喚起するとすればその情動をどう操作するかを企画するのが作曲家の仕事である。でなければ作曲家と名乗る資格はない。
ここで言う情動のベクトルを筆者は次のように考える。
この図の4つエリアに向かって原点から動く心の動きを情動と捉える。もしも単なる刺激としての音であっても、それが、連続したかたちになれば一定のベクトルを示すはずであるが、実際の現代音楽の多くは、緊張と弛緩のバランスは構造化されているが、音響的メッセージはあっても旋律による統一感がないため、その旋律を口ずさむことすら出来ない。言い換えれば、統一感があれば初めて聞く曲であっても次の音を予想したり期待したりすることができる。この期待を裏切られるつまり期待からの逸脱が情動喚起の原理であるとされる。従って、期待値が生じない現代音楽は情動喚起つまり感動とは極めて遠い存在であるとも言える。音楽療法に現代音楽が使われないのもこの理由による。
音楽に統一感を与えるのは【音階】即ち【調性】であり、頻繁に繰り返される転調による音楽といえども統一感は失われない。この【調性】を感じる能力は明らかに後天的であり、学習の結果に他ならない。幼少の頃からピアノなどの学習を開始した者は絶対音感と固定ドが連動し、ドレミが音階上のそれぞれの音の機能や音程の違いとしてよりも、今何の音が鳴ったとか次に何が鳴ったということで知覚される。このことは【調性】の学習にはならず、ソルフェージュにもならない。ソルフェージュの概念は旋律を主体とするあらゆる音楽の概念であり、この概念こそがメタ認知のスキーマである。
従って、結論的に言えることは、絶対音感による【音高】の知覚は単純な聴覚訓練によるものであり、相対音感による【音高】の知覚は【音程】認知による知的認知の領域であることがわかる。
Sの教育には音階、調、音程等の知的認知学習が組み込まれなければならない。現状の教育のいくつかの問題点を挙げるなら次のような点が指摘されるであろう。
(1)鍵盤学習や初期の読譜学習において、「ドレミ・・」を固定的な絶対音高として教えていないか。
この点についていわゆる階名と音名の厳密な区別が音楽大学や教員養成大学の教育課程の中でも検討されるべきである。 コンピュータは例えばMIDI信号のような信号を実際の音に変換して出力することができる。しかし、コンピュータには自分が何調のどの音を出しているかはわからない。それでも聞き手には音楽として聞こえ、しかもミスがない完璧性を示す。絶対音感者の頭の中は殆どこのコンピュータに近い。コンピュータによる作曲なども確率計算による統計処理的なもので、美的アイディアや芸術的哲学によるものではない。無意味な単音の羅列の学習になりやすい固定ドによる教育はやはり問題が大きい。フランスやイタリアでは「ドレミ・・」を移動ドとしてではなく音名として歌う唱法しかない。しかし、大多数のフランス人はその「ドレミ・・」が歌えない。彼らの殆どが「ラ・ラ・ラー・・」等の歌い方で旋律を提示する。このことは、彼らにとって「ドレミ・・」は音名であり、ソルフェージュする時は「ラ・ラ・ラー・・」等の単なる声(楽器でもよい)による音程シリーズを階名の代用としていることがわかる。この「ラ・ラ・ラー・・」等の歌い方をする人たちは階名の概念が無くてもそれに替わる「ラ・ラ・ラー」が十分に機能していると考えられ、むしろその方が自然であるように思われる。ドレミ唱法の歴史は11世紀Guido von Arezzo(†1050)まで遡ることができるがそれ以前は歌詞唱かスキャットであったに違いない。それはそれなりに不自由なくやってこれたとも言えるが11世紀以降はアカペラの合唱においてこのドレミ唱法が威力を発揮するに及んですっかり定着してしまった。
従って、その精神を尊重するなら階名の学習はその機能を教えることになる。「シ」は導音として主音の「ド」を意識させるという機能のことである。ひとたび「ドレミ・・」を固定音のラベルとして学習してしまうと、この機能は失われてしまうのである。
しかし、現実に我々が接する学生の多くは初等教育の時期にいわゆる「ハ調読み」又は「白鍵読み」の教育を受けた結果、一見絶対音感のように見えるが完全な絶対音感ではなく、単に音名と階名の区別が学習されていないだけの未熟な状態であることが観察できる。彼らにとって「ドレミ・・」は単なる歌詞に過ぎず、「ラララ・・」と歌っているのと大差ない。
また、完璧な絶対音感を持ちながらも自在に何調へでも移調したり、即興的な伴奏をつけられる理想的な者もいる。従って絶対音感が相対音感の成長を妨げるものでないことは明らかである。要するに絶対音感者の殆どがそれに依存しすぎてそれ以上の成長が止まってしまったと考えられる。
我々が知らない異国の言葉を聞くとき、何とかひらがなやカタカナに当てはめようとして聞く。このとき50音に無い音の場合無理矢理に近い音をあてはめる。Americanをメリケンというように少々の無理を承知でかなにしてしまうのである。これは我々が50音以外のスキーマを持たないからである。兵庫県のある地方では「ぜ」と「で」の発音が区別できない人たちがいる。この人たちは「全部」を「でんぶ」と発音するが、かなで書かせると「ぜんぶ」と書く。そしてこれを無理に矯正しようとすると大混乱に陥る。この場合も「ぜ」と「で」の発音上のスキーマが同じであることから起こるものである。
同様に、最初に形成される音高スキーマが「ドレミ」なのか「ハニホ」なのかで混乱が生じるのである。これは大変重要な問題であると提起したい。
(2)単なる条件反射的な適応能力として聴音やソルフェージュを行っていないか。
フラッシュ・カードと呼ばれるカードの五線上に音符が一つだけ書かれたものがある。このカードを一瞬子どもに見せて反射的に「ドレミ・・」を言わせるものである。読譜力を高める目的で考案されたものであるが、反射的な言葉は出るがその音高つまりピッチは出されないことが多い。このことは、絶対音感の有る無しにかかわらず子どもの早期教育にとって危険な学習であると言える。即ち絶対音高であれ相対音高であれ実音を伴わない反射的行為は非音楽的である。
音楽は連続する単音の相対関係であって、単音ごとに意味があるケースは極めて希である。瞬間ごとの音ではなく連続された音に初めて旋律としての機能があるのが普通である。その意味でフラッシュ・カードのように瞬間瞬間を条件反射的に「ドレミ・・」で言わせても意味がない。単音にも調や音階構成音としての機能があるわけで、単音といえどもそれを意識させる教育がなされなければならない。機械的な条件反射は適応力とは言えるが音楽的な能力の成長の妨げになることは明白である。
音階とその構成音の機能に裏付けられた「西洋音楽」の理論は日本の伝統音楽にも存在し、他国の民族音楽にも存在する。いかなる国の音楽にも音階とその構成音の機能は存在し、日本の音階でも「壱越・断金・平調・勝絶・下無・双調・鳧鐘・黄鐘・鸞鏡・磐渉・神仙・上無」、中国では「黄鐘・大呂・太簇・夾鐘・姑洗・仲呂・すい賓・林鐘・夷則・南呂・無射・応鐘」がそれぞれ西洋の「D,Dis,E,F,Fis,G,Gis,A,B,H,C,
Cis」 に該当する音名として使われてきた。
また中国では階名として機能する「宮・商・角・徴・羽」いわゆる五声が存在していたが、遣唐使たちの輸入時に「調」や機能和声の概念のない日本人には必要のないものとなり、以来1200年以上に渉り日本人は音名を階名として用いたり、唱歌(しょうが)と称するソルフェージュを利用してきた。 明治以降「ひ・ふ・み唱」なども試みられたが現在では誰も使えない。さらに機能和声に代わる鍵盤和声によるコードネームの普及は一層、音階の機能のスキーマ形成の妨げとなっている。アメリカの黒人たちがJazzの世界で活躍していることは良く知られていることであるが、彼らの殆どが楽譜を読めない。しかも彼らの殆どが絶対音感を持たない。にもかかわらず彼らは自在にどんな調でも即興演奏ができる。何十年クラシック音楽をやったピアニストでもできないのが普通であることが特別な教育を受けたわけでもない彼らにはできるのである。
あのバロックの時代、限られた調でしか演奏できなかった音楽が12平均律のおかげでどんな調でも演奏できるようになった頃の音楽家たちが好んで行ったセッションのようにである。移調の感覚(スキーマ)無しでは考えられないこの能力を復活させるために、今こそ絶対音の呪縛から解放しなければならないと考える。
(3)最初から12音で構成された楽器や曲を与えていないか。
ハ調の長音階は白鍵だけで演奏できる。このことには重要な意味が含まれている。「ドレミファ」と「ソラシド」の二つの相似形のテトラコルドを並べたものが基本的な長音階の構造である。この基本的構造をシンプルに理解するには黒鍵は不要である。あらゆる原始的な楽器は基本的な音階を演奏するのに最小限必要とされる孔や弦しか持ち合わせていない。移調や転調という後の概念はそこには用意されていないのである。
まさに子どもたちが初めて手にする楽器はそれに近い。自分のイメージをとにかく長調の音階の上で実現してみる試行が大切なのである。この行為は「移動ド」のトレーニングに他ならない。つまり、目の前にある音階を使ってイメージされた音楽の音程相対関係(機能)を維持しながら再現するという、いわば通訳をするような行為なのである。この行為を通して子どもは音階の絶対的なポジション(調)と相対的機能のスキーマの関係を学習するのである。半ば幼稚な玩具と思われがちなこのような楽器のコンセプトはオルフの音具によって有効性が立証された。主音以外のキーから音階を弾くとき生ずる矛盾の最初の解決方法が黒鍵の使用であって、12音的使用のために黒鍵を位置づけるのは尚早であろう。12音の音楽の殆どは調性則ち機能和声を否定する。旋律の構成音は導音や主音の機能を持たないランダムな系列に配置されるか、あえて新しい法則や規則に準じて配置される。絵画における非具象と同じ哲学に基づくこれらの音楽は、ピカソといえどもその抽象画の背景に確実なデッサン力があることを無視している。このデッサン力にあたる能力が調性の理解である。デタラメと本物はよく似ているが本質が違う。
ジョン・ペインターの提唱する創造的音楽学習における「音楽の構造」は消去法的に12音の中から必要な構造(音階)に到達させるのが目的であり12音による無調の音感を21世紀の子どもの音楽とすることを目的とはしていない。しかし、坪能由紀子を始めとする人たちは自らが持たない相対音感の世界を古い音楽教育と称して教育現場に受け入れようとはしない。「これも音楽」と「これが音楽」ではジョン・ペインターの思想は大きく変わる。
CDのような媒体ではOn/Offの二進法による信号だけであらゆる音の再現が可能である。勿論ディジタルと呼ばれるこのような信号を直接聴いても「ピー」とか「ガー」といういわゆるパルス・信号しか聞こえない。それが再生装置を経由すれば音楽になるのはこれらの信号が最終的に鼓膜をどのくらいの強さで何回振動させたかという情報に変換されるからである。長らく音の要素は「高さ・強さ・音色・長さ」の4つであると信じられてきたが、今日の科学は「強さ(Amplitude)・回数(Time)」だけがあらゆる音の基本要素であることを突き止めた。
例えば「音色」は、倍音の含まれ方即ちスペクトラムによって決まることはヘルムホルツによって発見されて久しい。この基音に対する倍音の含まれ方はすべてそれぞれの倍音の音量の問題である。トータルな倍音の合成結果としての音と実際に「ド・ソ・ミ」等の複数の音による複合音は本来聴覚は区別しない。しかし、スキーマが形成されるとこの一見同じように聞こえる合成音と複合音も明確に区別されるようになる。まして、同時にいくつもの音色やピッチが聞こえるCDやレコードの音楽の中から明確に1つの音だけに注目したり、抽出できるのはコンピュータや機械には不可能なことであるにもかかわらず、人間はそれをやってのける。単なる聴覚のシミュレーションならコンピュータにもできるが、このようなパターン認識を伴う聴覚は認知的であり、人間の能力でもある。大阪大学の片寄らの研究グループはそれを明らかにしようとしているがまだ人間の能力の一部しか模倣できない。
音色知覚のベースとなるのは音高知覚である。何故ならスペクトラムの違いが音色の違いであるからそのスペクトラムに含まれるあらゆる音高を知覚できなければならないからである。結果的にはトータルにそれらが合成された音として聴いているのだが、含まれるすべての倍音を無意識で聴いていることになる。シンセサイザーなどで音を創るときにターゲットとなる音のイメージが不完全であると似ても似つかぬ音になることがある。これは、スペクトラムの特徴やその時間軸変化のスキーマが形成されていないことを意味する。
例えば、オーボエとイングリッシュホルンでは発音原理は同じだが楽器のサイズがちがうと言うような純粋な知識もスキーマとなる。さらにその鼻にかかったような甘い音色もスキーマとなる。丁度言語の学習における誰の声かを識別する能力に似ている。高調波に属する倍音は特に音色を特徴づけるが、老化による難聴ではこの当たりの周波数帯が聴こえないため言語の識別が難しくなるのである。
また、殆どの音の特徴はその鳴り始め(アタック)の瞬間的な音色や音量変化によって区別される。その時間はわずか千分の一秒とも言われるが、その時間内に識別が完了しない場合もわからない音として処理される。これはスキーマの照合に要する時間と密接な関係がある。この音色スキーマは常時フルに働いている訳ではなく、いったんある種のスキーマの範疇であることがわかればその中の最小限度のスキーマで事足りる。その最小限のスキーマは常に次の音を予測し待ちかまえ照合しながら認知しているのである。このように音色の知覚は知覚と言うより認知の範疇に入る行為であると考えられる。つまり、学習してこそ能力となるものである。
シンセサイザーで何か音を創るとき、この千分の一秒の出来事をスロー・ヴィデオで再生するようにゆっくりと時系列に従って再構築できないとイメージ通りの音にはならない。この場合音色のスキーマは極めて細分化された音色によって構成され、それの組み合わせや連結によってイメージは再現される。と言うことは極めて一瞬の出来事をさらに細かく分析的に捉える聴覚知覚が必要とされるのである。「〜のような音」という言い方は音色に対してしばしば用いられるが、この「〜のような」という部分こそがその音色を認知するスキーマを代表したものであることは間違いない。
さて、音色に関してはこの「〜のような」という表現にみられるような【形容詞】による表現がよく用いられる。植村(兵庫教育大学修士論文平成2年)によれば次のような代表的な形容詞がある。
@重い―軽い、A澄んだ―濁った、B鋭い―鈍い、C硬い―柔らかい、D広い―狭い、E遠い―近い、F豊か―貧しい、G粗い―滑らか、H快い―不快な
例えばフルートのある音域の音を聴くと、@軽い A澄んだ C柔らかい G滑らか H快いなどと感じるのであるが、これは「フルートのような音」の一言で済んでしまう。フルートの音の持つ個々の分析的な性質は漠然とした印象の中に埋没してしまい表出してこないのである。この「〜のような音」と言う表現はその人がどれだけ多くの種類の楽器音を聴いたことがあるかに依存している。「UFOのような音」と言う場合、UFOの音を実際に聴いたことのある人間以外には再現しようのないことからもそれが分かる。しかし、これを「金属的な音で、8000ヘルツより高く、毎秒7回ほどの振幅のゆれのある持続音」と言えば個々の表現のスキーマさえあればどんな音かほぼ伝わる。勿論、この場合音色のパラメータは多いほど、そして精密なほど正確になる。それは、極めて分析的でかつわずらわしいことである。それなら「〜のような」という形容詞表現の方が実用的である。しかし、形容詞による、言い換えればアナログ表現によるイメージはあまりにも抽象的で合理性や普遍性に欠ける。
このように、音色に関する知覚は聴いたことのある音を元にした照合によるものであることが分かる。外国語の発音を無理矢理カタカナ等で表現する場合に起こる一方向性の再認性も同様に起こる。Americanを一度メリケンと表現してしまうと、Merikenとなることはあっても二度とAmericanと再現されないような場合のことである。ピアノの音を【ポン・ポン】と知覚する人には、木琴の音を【ポン・ポン】と表現する人とは異なる音色イメージがあるのだが、言葉を媒体とする以上木琴と同じになってしまう。
昔、目の不自由な三味線弾きが音だけで天気の変化を言い当てた話などはこの音色知覚が極めて鋭敏であった例であるが、この場合多分、微妙に違うスペクトラムから判断したのではないかと思われる。声楽のレッスン等でも「〜のような声」として教師が手本を示すのも、学習者に「〜のような声」として理屈抜きに教えようとしている気配がある。「もっと高調波の少ない声で」とか「アタックのカーブをゆるやかに」等の分析的な指導は聴いたことがない。せいぜい前述の@〜Hの抽象的な形容詞が用いられる程度であろう。
音色の知覚認知には音量知覚が大きく関わっていることはあまり知られていない。音色は主として@アタックのエンヴェロープとAスペクトラムの2要因で決定されることは既に述べたが、@アタックのエンヴェロープというのはアタックの各倍音の音量の時系列変化に他ならないし、Aスペクトラムというのも含まれるそれぞれの倍音の音量の違いに他ならない。この音量知覚には【絶対音量知覚】と【相対音量知覚】の二種類がある。
【絶対音量知覚】とはデシベル等の単位で表される絶対的な音量に関する知覚で、聴覚の感度の個体差にもよるがほぼ0デシベルから130デシベルまでの音量の中の任意の音量を特定できる能力である。かつてピアニストの安川加寿子氏が自分で決めた32段階のヴェロシティーの中から任意のものが演奏できたとされているが、そのような能力もこれに当たると考えられる。3デシベルごとに音のエネルギーは2倍になるので素人にも12デシベル刻み程度なら識別できるかも知れないが、安川加寿子氏は3〜4デシベル刻みと言う精密機器なみの信じがたい能力を持っていることになる。
【相対音量知覚】とは比較対象となる基準音量との差を認知する能力である。この差の識別精度がスペクトラムの識別能力と大きく関わっている。この場合わずかな差をも知覚できる人のことを音色に敏感な人と言えるであろう。さらにこの【相対音量知覚】は同時にいくつか聞こえる音同士の比較だけでなく、クレッシェンド等の時系列変化に対しても作用する。この場合もわずかな変化をも聴き分けることができる人とそうでない人が存在する。比較対象となる音の記憶保持能力も関係するが、大部分は音量のクラス分けが大まか、言い換えれば音量スキーマが少ないことに起因すると思われる。その意味でも音量知覚能力の中でも【相対音量知覚】は極めて認知的であると言える。丁度、音高知覚に絶対音高知覚と相対音高知覚があったのと同じことがここでも言える。
この点について現状の音楽教育の問題点を以下のように考察する。
(1)器楽や声楽の指導過程で音量に関する指導が後回しになっていないか。
例えばピアノ曲の学習において、まず最初の段階は音に間違いはないかとか、リズムに間違いはないか、ということに注意が向けられる。合理的な演奏のための指使いも指導される。しかし、アクセントや強拍、弱拍の関係については比較的に後回しにされる場合が多い。ppp,pp,p,mp.mf,f,ff,fff等の目に見える記号については相対的なヴェロシティーの違いとして指導されるか、絶対的なヴォリュームとして指導されるかの違いはあっても、あまり注意を払うケースは少ない。特に右手と左手のバランス等は殆ど見過ごされがちである。特にリズム感やフレーズ感と密接な関係のあるアクセントや強拍、弱拍の指導は最初の段階から重要である。
例えばチェロのような弦楽器の場合、左手はピッチに関するコントロールを受け持ち、右手が音量のコントロールを受け持つ。この場合、音を出そうとすると右手は否応なしに「どんな強さで」ということを意識しなければならない。ピアノも本来同じはずであるが、一本の指でピッチ(キーの位置)とヴェロシティーをコントロールするにはかなり訓練がいる。だからと言って後回しにすることはおかしい。鳴らそうと思った瞬間に「どんな強さで」と言うことを意識させるべきである。そのためには打楽器のようなものを並行して学習させるのも良い。
(2)ピアノを弱く、フォルテを強くと教えていないか。
合唱指導の場面等でよく目にするのは、指導者が演奏者に対して「もっと弱く」とか「もっと強く」と指示している姿である。この「もっと弱く」とか「もっと強く」という指示の根拠は殆どの場合楽譜に記されたPやfの強弱記号である。何時からこれを「弱く」や「強く」と言うようになったのかは定かではないが、この同じイタリア語を英語では"Soft"と"Loud"という風に訳している。このソフトと言う言葉のニュアンスと弱くと言う言葉のニュアンスではかなり違う。ソフトにと言う場合には音色的な意味あいも含まれて来るが、弱くと言えば単にエネルギーを少なくという意味が強い。赤ん坊の顔を大人の顔のサイズにしても赤ん坊の顔である。逆に大人の顔を赤ん坊の大きさにしても大人のままである。赤ん坊には赤ん坊の、大人には大人の顔としての個性がある。強いと弱いの表現は単にズーム比や拡大率を変えただけというニュアンスしかないが、ラウドとソフトと言う表現には個性の差としてのニュアンスが鮮明である。よく、ただエネルギーだけを増減したピアノ・フォルテを耳にするが、ピアニッシモではただ声や音が貧弱になるだけで決して本来のPにはなっていない。本来のPには音色的要素も多分に含まれていることから、Pやfを 「弱く」や「強く」と言う日本語で教えてはいけない。英語を母国語とする演奏家と日本語を母国語とする演奏家にはこのダイナミクスに関する表現が違うという批評もこれで説明が付く。
人間には体内時計がある。「ピー」と鳴る音を聴いた後、正確にその長さを模倣することができるのもこの体内時計のおかげである。その誤差は音楽の専門家の場合殆どない。10分の1秒程度の誤差では素人でも判断できる。これを仮に【絶対音長知覚】と名付けるなら、当然【相対音長知覚】と言うものも存在するはずである。音に限らず人間はどのくらいの時間触れられたかとか見ていたか等の音を伴わない感覚にも同様の反応ができる。現在一般的に使用されるシーケンサーの全音符に対する分解能は240であるが、その倍の480のものとの差は素人には分からない。
例えばが絶対的な長さを持った音符ならテンポの概念は不要になる。体内時計の発する一定のクロックが持続時間やインターバルを計測しているというこのメカニズムはまだ十分な研究が行われていない分野でもある。日本の伝統芸能でよく使われる【間(ま)】とは正しくこの人間のクロックを利用した感覚であろう。クラシック音楽にはしばしばフェルマータが登場するが演奏中このフェルマータが出現すると普通は拍を数えることはしない。それでいて拍とは違う別のクロックがフェルマータの長さを決定しているのである。これなどは【相対音長知覚】と【絶対音長知覚】を使い分けている例であろう。
リズム表現やリズム認知に必要なのは【相対音長知覚】である。複数の音符の長さを比較してそれぞれの音の音価を認知する能力である。この場合テンポ・クロックを自己生成することができる場合とできない場合があることが予想される。テンポ・クロックの自己生成とは一定の単位時間の中に自分の体内時計を合致させることによって成立する。この場合スキーマとなるのは自分の体内時計である。その調整能力もスキーマである。このスキーマは時間を伴う体験によって形成される。
音が連続していくつか鳴ったとき、その数を知覚認知するのが音数知覚である。打楽器の奏者などはこの能力に非常に優れている。♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪と鳴るような場合、音楽家は前から順に1.2.3.4.5.6.〜という風に数えることはしない。♪♪♪♪、♪♪♪♪、♪♪♪♪、♪とか♪♪♪、♪♪♪、♪♪♪、♪♪♪、♪のようにいくつかの音を一まとまりとして知覚する。このグルーピングの能力もスキーマである。これは拍すなわちビートの感覚が無ければできないことである。一般に「リズム音痴」と言われる人の多くがこの能力に障害がある。拍の分割や結合、省略などによる不規則性に順応できないのである。
このリズム感に関しては、日本の場合年配者ほど駄目である。若者の音楽は殆ど強烈なリズムの上に展開されているので否応なしにリズム感が身についてきたものと推察される。このビートを単位とするグルーピングの能力は今日極めて理想的に子供たちの身に付いているので問題は無い。これについては後で述べるが右脳の能力である。それに対して♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪を前から数えるのは左脳の能力である。
音が空間のどこで鳴っているかを知覚するには2つの耳つまりバイノーラルが条件となるが、【内的聴覚】も必要となる。よく知られている事実に、オーボエの音が常に実際に鳴っている位置より遠くに聴こえるということもあるし、高い音は低い音より約7センチ高い位置で鳴っているように聴こえる、と言うようなこともある。ベルリオーズの幻想交響曲では舞台裏でトランペットが演奏されるし、パイプオルガンの第5鍵盤(エコー)は聴衆から一番遠い屋根裏に設置される。これらの装置や設定は人間が音を空間上のものとして捉えるからである。これを定位と言うが、視力障害者がエコーだけでまるで見えるように周囲の状況を把握する時に用いる能力である。【方向】と【距離】の要素を含む空間を【音場】つまりアコウスティックと呼ぶ。このアコウスティックな音は反射音を含む空間の様々な情報を含んでいる。【内的聴覚】はこのアコウスティックな音のイメージを仮想の空間に再現できる。ピアノを弾く人は高音部を右と感じるし、オーケストラの演奏をよく聴く人はヴァイオリンを左として聴く。どの楽器がどこで鳴っているかを知覚することは音の構造を知る上でも大切なことである。
今日ステレオと言う言葉は日常語になってしまったが、モノラルの時代から「立体音楽」と言う言葉と同義語のステレオを経験した者とは異なり、現代の若者はステレオとかバイノーラルという言葉の本当の意味を知らない。スピーカーが左右に二つある意味も知らないしそのことに無神経ですらある。1974年には音の定位を動かすだけの音楽(レコード)も出現したほどであるから、音楽の重要な要素であるにも関わらずである。この定位についても前出のDiana Deutchは個人差があることを実験的に証明している。
Sのレヴェルの教育には単なる知覚(聴覚)の問題と、認知にかかわるスキーマを必要とするものがあることを述べてきた。また、多くのパラドクスも存在することが次第に明らかになってきた。
しかし、何よりも学習の成果によるものが多いことも事実である。
近年右脳と左脳の研究が盛んで、角田の理論によれば日本人と西洋人では同じ虫の声でも違う脳で聴いているなどの報告があったが、あまり科学的な検証を行った形跡はないし、確かめようもない。しかし、音の知覚と言う部分は明らかに左脳の働きであることがわかっている。数学では1から9までを左脳が数え、10以上の桁上がりは右脳が受け持っていることを解明しているし、言語学者は失語症の研究から文字とその発音は左脳、言葉の意味は右脳というように説明している。
絶対音感は左脳で、相対音感は右脳である。絶対音長は左脳で、相対音長は右脳である。このように、聴覚(知覚)に関するものは左脳で、認知に関するものは右脳である。音をコンピュータのように処理するのが左脳であり、音楽として処理するのが右脳であるとも言える。
しかし、正確な音程、音量などの基本的な音に関するコントロールは確かな左脳のスキーマが必要であり、おろそかにしてはならない。最近はどちらかと言えば右脳教育がはやりである。しかし、右脳といえども左脳の働きを利用しているわけであるから、両者のバランスが必要なのである。
マーセルによれば音楽的成長は、@音楽的識別力、A音楽的洞察力、B音楽的意識、C音楽的自発力、D音楽的知識・技術に現れるとされる。
@音楽的識別力は音の識別だけでなく、その音の音楽的位置づけも識別することで、当然左脳だけでなく右脳も必要になってくる。いま鳴っている音は主音なのか属音なのかと言うような判断もこの能力である。A音楽的洞察力は@と関連しながら予測や推論を行い、スキーマの総動員を必要とする認知能力である。何故フォルテなのかとかどんなテンポがふさわしいのかと言った判断を生み出す能力である。B音楽的意識はそれらの音を音楽や芸術として意識するコンピュータには存在しない能力である。脳では無く心の働きでもある。価値観や哲学を持つ心の働きであると同時に、美意識と言う崇高な人間の精神的所産の根源でもある。C音楽的自発力は創造性や美行動に関する働きで、脳では【前頭葉】の働きとして捉えられる。意欲や創造性はカオスの交通整理を行う前頭葉の活発な働きによって生ずる。D音楽的知識・技術は左脳や右脳の記憶に関する部分の問題と、小脳の司どる運動のスキルの問題としてとらえられ勝ちであるが、スキーマとしてすべての音楽的行動の資産となるべきものである。結局はこの能力が音楽的行動の最終出力となるからである。
望ましい音楽的成長を考える時どんな能力を子ども達につけてやればよいのかとか、どんな体験をさせてやれば良いのかを考える時、このマーセルの5つの能力を単体で強化するのではなく、まして音の教育としてのみ施すのではなく、音楽の中で指導されるべきである。そこで、代表的なな音楽のメソードを以下に示し筆者のコメントを加えたい。
- ダルクローズ(スイス)のリトミック
- @鋭敏な耳A鋭敏な神経Bリズムの感覚C情動を表現する能力を高めることを目標としたリトミック(律動的調和)による音楽のリズムを身体全体の動きによって体得させようとする。その指導体系は【リズム運動】【ソルフェージュ】【即興演奏】の3領域からなる。客観的には運動している姿が目立つが、彼の言う【Audition int屍ieure】つまり「内的聴覚」の概念は極めて今日的な音楽認知の概念ではあるが、リズム至上主義には無理がある。
- オルフ・シュールヴェルク(ドイツ)1950-1954
- ダルクローズの影響を受けており、音楽を@言語AリズムB運動の現れと見る「基礎的音楽」(Elementare Musik)に特色がある。独自のオルフ楽器を教育用に開発し、2〜3音のわらべうたから5音音階に至る体系とそれに続く長調、短調の学習が用意されている。楽譜を重視しないメソードが特徴であるが、実際の音楽とのギャップが大きく閉鎖的なシステムとなってしまった。
- コダーイ・システム(ハンガリー)
- @ハンガリー民謡を中心にした5音音階の教材による系統的指導、A早期教育の重視、Bアカペラによる対位法的な合唱を低学年から導入、Cソルフェージュ教育の重視などの特徴を持ち、歌うことを大切にしたメソードである。楽譜に依存することなくハンド・サインやトニック・ソルファなどの視覚的方法やサイレント・シンギングなどにも特色がある。多くの合唱団などで行われたが調教的印象が強く、あまり日本では普及しなかった。
- コンセプチュアル・アプローチ(アメリカ)1967 MENC
- 音楽教育を音楽芸術に対する子どもの感受力(sensitivity)を高める美的教育と位置づける。概念的指導と訳されるこの指導法は、音楽を体験した後子どもの心に成長する音楽的意味(Musical meaning)を概念化しようとする極めて認知学習に近いものである。一連の学習経験単位は「モジュール」と呼ばれ、これをスパイラルに積み重ねて展開する。このメソードは現在アメリカで流行中のMIE(Music In Education)のシステムにも受け継がれ、パッケージ化されている。
この指導法では音楽的概念を、リズム、メロディー、ハーモニー、形式、テンポ、音のエネルギー、音色の7分野に分類している。これらを統合する包括的音楽家らしさ(Comprehensive musicianship)を目標にしているが、ゲシュタルトとしての整合性に欠ける傾向が多く見られる。
- サウンド・アンド・サイレンス(イギリス) 1970
- 創造性教育の一環として音楽教育を位置づける。英国でもご多分に漏れずあまり教科として重要視されていなかった音楽科を創造的教科と位置づけたジョン・ペインターとピーター・アストンらによる指導理念。ルチアーノ・ベリオの言う「現実の認識を可能にする1つの方法は、現代の音楽とかかわることである」を根底に据えた理念に立ち、@全人教育の一環として音楽教育を捉える A音楽科と他教科との間に境界線を引かない B発見と感動を学習の中心におく C音楽を単なる娯楽ではなく自己表現の媒体と捉える D現実の直接体験から学習を導き出す Eその直接経験を他教科と同様に創造的作業とする F即興演奏による実験的探求で創造性を養う G音楽の本当の基礎は音(Sound)と沈黙(Silence)の価値を判断する耳である、等を目標とする。
この理念に基づき1つの学習経験単位をプロジェクトと呼び、A.素材・技法の原理的概要の把握 B.教師によって決定される探求的作業課題 C.同じ素材や技法を用いた他の生徒の作品鑑賞 D.同じ素材や技法を用いた作曲家の作品鑑賞 の4つに分類されている。
これらのプロジェクトは現在36本用意されているが、必ずしも完全ではない。
これに最近B.Nettlらの提唱する民族音楽的(エスニックではない)傾向を加えたワールド・ミュージックの概念も一緒にする動きもあり、「表現科」のアイディアのバックグラウンドともなっている。
- 鈴木メソード
- 筆者のことではない。幼児教育におけるモンテッソーリのように、幼児期の音楽教育を特別なものとしないで大人と同じ素材を与えるいわゆる「才能教育」のメソードで、論語の早期教育と良く似たシステムである。才能は早期に発見し早期に訓練すれば育つという単純明快な理論。
- ふしづくり一本道
- 岐阜県の古川小学校で開発された創作教育のメソードである。いわゆる系統性に重点を置き「単純」から「複雑」へと言うような一本道をさす。システムとしてはすばらしいが指導者の質と学校組織の系統的問題がネックとなり、特に教師の人事異動はシステムを根底から揺るがす。
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