そして昭和43年の改訂では「表現」「鑑賞」の2領域から「基礎」「鑑賞」「歌唱」「器楽」「創作」の5領域に細分化され、次のような4目標が設定された。
@すぐれた音楽に数多く親しませ、よい音楽を愛好する心情を育て、音楽の美しさを味わって聞く能力や態度を育てる。
A音楽的感覚の発達を図るとともに、聴取、読譜、記譜の能力を育て、楽譜についての理解を深める。
B歌唱、器楽、創作などの音楽表現に必要な技能の習熟を図り、音楽による創造的表現の能力を育てる。
C音楽経験を通して、生活を明るくうるおいのあるものにする態度や習慣を育てる。
過去のものに比べて、能力的目標が明確に打ち出されているのが特徴ですが、このころからコンクール熱が高まったのと無関係ではなさそうである。
第5次学習指導要領は昭和52年7月に公示され、音楽の授業時間の削減が「ゆとり」の名のもとに実施された。領域は再び「鑑賞」「表現」の2領域となった。
それまで箇条書きであった目標は一文になり、次のようになった。
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性を培うとともに、音楽を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。」(小学校)
「表現及び鑑賞の能力を伸ばし、音楽性を高めるとともに、音楽を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。」(中学校)
これはさらに平成元年三月の現行の指導要領では次のように書き改められた。
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性の基礎を培うとともに、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育て、豊かな情操を養う。」(小学校現行)
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性を伸ばすとともに、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育て、豊かな情操を養う。」(中学校現行)
「高める」「伸ばす」「培う」「養う」「育てる」「深める」などの文学的解釈を必要とする変更が目立つ。どうやら「高める」「伸ばす」は『能力』で「培う」「養う」「育てる」「深める」などは『態度』や『心情』に関する目標語のようでもあるが、必ずしも統一されていない。
しかし、こうして順番に並べてみてわかることは昭和43年の改訂を最も右端とすれば現行のものは最も左端にあるようで、昭和26年の指導要領の一部分ともよく似ている。特に昭和26年の『D音楽を理解したり感じとる力を、各個人の能力に応じて高める。』などは個別化、個性化をにらんだ現行のものと非常に良く似たコンセプトのようである。また『F音楽という世界共通語を通して、他の国々に対するいっそうよい理解を深める。』も国際化のテーマを掲げる現行のものとよく似ている。しかし、これらの目標の背景となっているもののひとつにISME(国際音楽科教育協会)の動向がある。第5回(1963)は東京を会場に行われ、日本の音楽科教育が国際的舞台に展開しはじめた訳であるが、翌年のコダーイを会長とするハンガリーの大会以降この会は隔年に定期的に行われるようになり現在にいたっている。1963年といえば昭和38年に当たる。つまり43年の改訂に向けて準備が始まっていた頃である。この東京大会までのISMEのスローガンは『読譜や記譜を通して音楽的能力を高める』ことであった。ところが翌年の1964年ハンガリー大会においてそんなものにこだわらない『コダーイ』のシステムが紹介されて一種のカルチュアショックがはじまったのである。このショックは43年の改訂には反映されず、結局53年に持ち越されたわけであるが、その方向は確実にISMEの影響を受けている。
ところで現在国連加盟国は184ヶ国(1994年12月現在)あるが、その中で音楽を義務教育の『必修正課』に位置づけている国は幾つあるだろうか? 正確には把握されていないが恐らく10数カ国であると言われている。勿論アメリカやフランスも正課ではないし、ヨーロッパではドイツやイギリス、スペインなどほんの数カ国しか正課の音楽科教育は実施して居ない。その意味で日本の音楽科教育は歴史的にみても内容を見ても世界の最先端であることを自負できる。しかし、現実に日本の子どもは『音楽好き』であろうか、『生活』に密着した音楽文化を持っているのだろうか?
そんな疑問を出発点に本論では『SMLの音楽科教育』を提案してみたいと思う。
┌@ 音高弁別または識別の能力。
| (1) 単音の名前が言える。
| (2) 単音の音高比較ができる。
| (3) 音程の識別ができる。
| (4) 和音の種類と違いが言える。
|A 音量の弁別または識別の能力。
| (1) 絶対音量が言える。
| (2) 音量の比較ができる。
| (3) 音量の変化が分かる。
音響と聴覚のレベル ┤B 音色の弁別または識別の能力。
| (1) 音色の特徴が言える。
| (2) 音色の比較ができる。
| (3) 音色の変化が分かる。
|C 音長の弁別または識別の能力。
| (1) 絶対音長の弁別。
| (2) 音長の比較ができる。
|D 音の記憶能力。
| (1) 単音の記憶と再生。
| (2) 音程の記憶と再生。
└ (3) 和音の記憶と再生。
┌@ テンポと拍子の弁別または識別、再生能力。
| (1) 絶対速度がわかる。
| (2) テンポの比較ができる。
| (3) 強拍部とそうでない拍が識別できる。
| (4) 何拍子であるかが分かる。
|A リズムの弁別と識別、再生能力。
| (1) 拍とその分割が統合できる。
| (2) アクセントとリズムの関係がわかる。
| (3) テンポとリズムの関係が把握できる。
|B 主音と音階(調)の弁別または識別能力。
| (1) 長調と短調の識別ができる。
| (2) 主音とそうでない音の区別ができる。
| (3) 音階の構成音がわかる。
| (4) 転調を指摘し、その内容が分かる。
|C ハーモニーの弁別および応用力。
| (1) 機能和声的にI、IV、V等の和音が弁別できる。
| (2) 和声の違いを指摘できる。
| (3) メロディに相応しい和声がわかる。
| (4) ハーモニーを記憶、再生できる。
|D メロディの弁別および再生能力。
| (1) メロディとそうでない音の弁別ができる。
| (2) 変奏されたメロディと原曲の同一性が指摘できる。
音楽性のレベル ┤ (3) メロディの比較ができる。
| (4) ポリフォニックな動きを聞き分けることができる。
| (5) メロディを記憶、再生することができる。
|E フレージングの弁別および価値判断力。
| (1) リズム・フレーズの認識。
| (2) 和声フレーズの弁別。
| (3) メロディの美的フレージングの意識。
|F バランスの弁別および判断力。
| (1) 各音要素のバランスの違いがわかる。
| (2) 美的なバランスの意識。
|G 様式・形式の弁別力。
| (1) 様式や形式が弁別できる。
| (2) 様式や形式の比較ができる。
|H 編曲・作曲・指揮の能力。
| (1) 編曲の基本的な知識・技術がある。
| (2) 作曲の基本的な知識・技術がある。
| (3) スコァ・リーディングの力がある。
| (4) アンサンブルの指揮ができる。
| (5) 作品、演奏などの比較ができる。
|I 技術的能力。
| (1) 記譜・読譜の技術。
| (2) 移調・変奏の技術。
| (3) 即興的演奏能力。
└ (4) 総合的演奏評価力。
┌@ 価値判断に関する能力。
| (1) 美的価値判断の能力。
| (2) 演奏表現に関する価値判断力。
| (3) 演奏解釈に対する価値判断力。
| (4) 作品に対する価値判断力。
| (5) 人物に対する価値判断力。
| (6) 時代・地域に対する価値判断力。
|A 態度的能力。
| (1) 好き嫌いに関する態度。
| (2) マナー・モラル。
| (3) 自発的態度。
人間性のレベル ┤ (4) 謙虚に受け入れる態度。
| (5) 自己との照合(自己発見)。
| (6) 自己実現(自己表現)。
| (7) 社会性・環境との調和。
| (8) 音楽的意識の有無。
| (9) 独創性・オリジナリティ。
| (10) 積極性・バイタリティ。
| (11) 計画性。
| (12) 最適性。
| (13) 柔軟性・フレキシビリティ。
| (14) 即興性。
└ (15) 統合性・再構築能力。
どのテストにもこれら全てが含まれているのではなく、いわば靴下に譬えるならどのテストにも「穴」が開いている。つまり、不得意とする分野や見落としている部分があるというわけである。しかし、もしそんな「穴あきの靴下」でも何枚か重ねて履けば穴が塞がってしまうように、これらのテストをいくつか組み合わせれば完全なものになるに違いないと思われる。
というわけで、このような分類を試みてみたわけである。まだ、これでも完全ではないであろうが、少なくとも音楽科教育の内容を大きく3つに分けて、音響と聴覚のレベル・音楽性のレベル・人間性のレベルに分けることには大きな意味がある。
この、<音響と聴覚のレベル>をSoundの頭文字
Sをとってそのラベルとする。<音楽性のレベル>はMusicalityの頭文字Mで、<人間性のレベル>は生き甲斐とか生活との関係でLifeの頭文字Lで表現することにした。
従って、S・M・Lと言うのはサイズのことではなく音楽科教育のレベルのことなのである。しかし、偶然ではあるが、このレベルの大きさは次の図のようにサイズ別になる。
(図1)
図2
図 2は音楽や美術のような教科と数学(算数)やその他の知識・技能型授業の違いを図示したもので、目標が単一で無い〔オープエンド〕と呼ばれる教科と〔クローズエンド〕のリニァ(直線型)授業の違いを表している。
オープンエンドの学習では、一人一人の児童生徒が異なる目標に向かって螺線状にグルグルと旋回しつつ上昇して行く様を表しているし、リニァ構造の教科では形成的評価を加えつつ一直線に目標に向かって進んで行くのが分かる。
ブルームの言うところのマスタリー・ラーニング(完全習得学習)の考え方がリニァ構造であるが、どうも音楽と言う教科では笛の練習とか読譜の練習といった知識・技能の練習以外にはこの方式は使えない。音楽の授業は小学校の1年生の時点で既に個人の能力差は随分大きなものがあり、STEPそのものが、既に画一的な設定に馴染まないということもあり、又同時にSTEPの内容や構成も児童生徒のレベルに応じたものにしなければならない。
音楽の教材は教科書に出ている曲そのものを中心にするが、その曲そのものが、色々な音楽的要素を持っているため、単一の目標のために利用することが困難なわけである。例えば、ある曲が〔三拍子〕と言う基本要素のために利用されたり、〔二部合唱〕の練習のために用いられたりすることがあるわけで、特にその曲が何年の何学期に相応しいという必然性に乏しいことは容易に理解できる。
かつて、中学校の教材であった曲が小学校の音楽の教科書に登場しているケースも多々あるし、その逆もあるのはこうした理由からなのである。どんな曲にもそれが〔音楽〕である以上、総合された音楽として拍子や和声、リズムや形式の課題を含んでいるので、ただ何に焦点を当てるかが違うだけなのである。と言うことは、一曲ごとに何かの能力が着実に形成されて行くのではなく幾つかの曲を学習した後で、それらに共通する要素を統合して能力化して行くのである。
そこで、それら共通するするものを〔S〕〔M〕〔L〕のレベルで構造化することにより合理的で、有効な音楽科教育ができるようになるのではないかというのが本論の主張である。
しかし、本論のねらいとするところは単なる〔How to〕ではなく、寧ろその前の段階である〔何故〕即ち〔Why〕と言う事を学習者にも授業者にも考えさせることにある。
児童生徒の立場に立って考える時、今自分が学習しようとしていることが、一体何の役に立つのかが分かっているかいないかでは随分学習の意味は変わってくる。つまり、自分の学習しようとしている事柄が、どこから来てどこへ行こうとしているのかを知っているのといないのでは大変な違いがあるということである。
〔詰め込み〕や〔丸暗記〕による機械的学習は避けなければならないとマーセルが言っているように、仮にそれが機械的学習であるにせよ学習者がそれを学習する意味なり意義を知っていなければならないことは言うまでもない。有機的な構造こそが能力として定着するのである。
機械には歯車やてこやベルトがあり、電子機器にはパーツや回路がある。それぞれある機能に必要なパーツであるが、それが威力を発揮するのは他のパーツと有機的に繋がっている時だけである。単にパーツを詰め込むだけでは何も機能しない。何故そこにそのパーツがあり、それがどんな機能を持つのかを学習者が知っていなければそのパーツは機能しないのである。
〔S〕のパーツはSoundに関する機能を持っている。人声や楽器、音符などで表現したり伝達することのできるパーツである。しかし、あくまでも素材や材料、データ等としての機能しかなくて、音楽の素材として刺激の質を形成するに過ぎないのである。
従って音そのものであるからそれ自体では音楽とは成り得ない。このレベルで学習されるのは、@音の高さ、A音の強さ、B音色、C音の長さの4つであり、実音または音符で表現することが能力として要求される。そのためには、確かな〔聴覚〕と〔運動神経〕と〔記号把握〕の能力が必要である。聴音のテストで分かるのはこのレベルの能力であり、音楽の能力の一部でしかない。音楽と言うのはこれらのパーツが時間軸の上に連続的に並べられた時に意味を持ち始める。従って、このレベルの学習は〔感覚〕の学習に重点が置かれ、それを磨くように教師や児童生徒は努めなければならない。
〔M〕はMusic又はMusicalityの略で、Sと言うパーツを時間軸の上に連続的に並べて音楽としての意味を持たせたもので、パーツを越えた、寧ろシステムとしての機能を持ったものである。システムには機能が有る。目的に応じてパーツを入れ換えることもできるし、不要なパーツを使わないこともできる。音階と言う調性機能を表現するには、ある順番に高さの異なる音を並べ、更にその中の特定の音には〔導音〕や〔主音〕の機能を持たせるための音程も約束として用いられる。学習者はMのレベルとしてその約束を学習するわけであるが、単なる約束として覚えるのではなく音楽として学習しなければならない。このレベルでは〔美しい〕とか〔好き〕とかの価値観を伴う判断は必要とせず、単純に〔こんなもの〕として受け止める学習が展開されなければならない。このレベルでの学習の代表的なものは、和声や旋律、リズム、形式等の基本的なパターンとそのバリエーションである。従って、このレベルの学習に必要なのは感覚ではなく〔感性〕と呼ばれる心理的な判断力である。感性は生まれつき備わっているのではなく、後天的に学習されるものであることが分かっている。その音の組み合わせがどんな心理と関係があるのかを学習することにより、一種の条件反射的な心理反応が形成されて行くのである。このMの学習に必要なことは、児童生徒が経験しようとしている音楽的現象を巧みに意味付けてやることと、その曲や類似の曲で繰り返し学習させて定着させることである。この時指導者のコメントに偏りがあると、その偏った感性が学習され、定着することも知られている。
このレベルの学習の時に価値観(特に指導者の主観による)に触れ過ぎると場合によってはアレルギーや拒否反応を子供たちに起こさせることもあるし、自分で価値判断のできない子供にしてしまう恐れもあり、注意が必要である。彼らはこのレベルの学習で、美的表現の手段として、調和やバランス、変化と統一をルールとして学習できれば充分なのである。
〔L〕はLifeまたはLife−longの略であるが、このレベルではパーツでもなければシステムでもない目的や結果のフィールドであり、音楽の母体でもあるし、「表現」「鑑賞」の2領域の出発点であると共に帰着点でもある。つまり、S→M→Lという向きに情報が伝達されることを鑑賞と呼び、S←M←Lという向きに情報が伝達されるのが表現なのである。
この〔L〕のフィールドこそが〔個性〕や〔個人差〕の母体であり、あらゆる音楽の〔芸術化〕と〔生活化〕が行われる場所なのである。
ですから〔S〕や〔M〕の世界には個性差や能力差は少ないことが望ましく、誰でもあたかも言語をあやつるように使いこなし、理解できることが必要なのである。
しかし、現実の音楽科教育の現場ではこの〔L〕のフィールドについてのいての配慮は「楽しませる」とか、「生き生きと活動させる」というような文学的表現で目標化されることはあっても、それを評価の場面とか指導の場面で具体化することが難しいため、絵に描いた餅に終わってしまうことが多いのである。しかし、音楽科教育、特に義務教育における音楽科教育のねらいはプロ・ミュージシャンの養成ではなく人間形成の一部として音楽鑑賞や音楽表現が能力化されることであるから、この〔L〕の教育こそが大切なのである。ここで、評価されるのは〔感受性〕に関わる〔感情〕や〔情動〕、〔無意識の意識化〕等である。
〔感覚〕→〔感性〕→〔感受性〕という〔S〕→〔M〕→〔L〕の流れは例えば次のように考えれば納得出来るであろう。
ここに一冊の本があるとする。その中に書かれている物語を理解するには文字が読めなければならない。つまり、〔S〕のレベルである。その物語が悲しいストーリーであることを理解するのは〔M〕と同じレベルで〔感性〕が必要である。そして、それを読みながら自然に涙が溢れ出るというのが〔L〕即ち〔感受性〕の世界である。この涙が出る理由は自分のことのようにそのストーリーを捉えることによるわけで、悲しい経験をしたことがなければそういうことにはならないであろう。
次に示すのはいささか分析的過ぎて味気ないが、子供の能力を細かく分類して何は有る、何は無いということを正確にチェックするためのチェックリストとして参考にしている。
図 3
この図の意図するところは学習内容を〔S〕〔M〕〔L〕のレベルに分けて、それぞれのレベルで学習されるべき内容とその関連を明確にすることである。