S.M.L.の音楽科教育(T)〜(W)

実技教育研究指導センター 音楽科教育分野
教授 鈴木 寛  
実技教育研究 1995年3月第9号より1998年3月第12号まで


INDEX


1、戦前の音楽科教育

 我が国に音楽科教育が導入されたのは、「学制」発布(明治5年、1872)に遡る。この学制では、下等小学校に「唱歌」を、下等中学校に「奏楽」を位置付けたが、「当分コレヲ欠ク」として実際には実施されなかった。東京女子師範学校では明治10年から唱歌教育を「雅楽」という形で開始しているものの、子ども達のための教材も模索も微々たるものであった。文部省は当時米人スコットを招き教員養成にあたらせると共に、更に翌明治6年には同じく米人ミュレーをも招聘した。このように発足当時の日本の音楽科教育はアメリカを範としていたことが判る。明治8年、政府の任を受けてボストンに留学した伊沢修二は「師範学科取調員」としてメーソンのもとで勉強し、目賀田種太郎らと日本の音楽科教育の体系を模索していった。唱歌教育を主軸とするメーソンの考え方や実践を基盤にした「音楽取調掛(後に音楽取調所と改称、1886、2)」を設立したのがやっと明治12年のことであった。このような舶来の音楽に対して洋学者の神田孝平が既に明治7年に「国楽」の振興を提案していたが、「家元制」の発達した当時の状況ではとても学校教育として音楽科教育を国楽で行うようなコンセンサスを得ることは不可能であった。
 結局、伊沢は恩師メーソンを音楽取調掛に明治13年に招聘し、小学唱歌の編纂を開始したのであった。メーソンの考え方はペスタロッチ主義思考による今で言う「オーラルメソード」つまり楽譜に依存しない口伝えの方法であった。歴史上極めて残念なのは、このメーソンがわずか3年で解雇されてしまったことである。メーソン無き後は日本の音楽科教育の理念が単なる「練習のための練習」と言う方向をたどったのは、音楽が実技的実践を必要としているからとは言え大変残念なことである。
 「学制」は結局明治12年には廃止され、替わって「教育令」が公布された。社会の近代化に伴いほぼ明治20年頃までには全国津々浦々で「唱歌」は実施されるようになった。
 「大日本帝国憲法」が明治22年に、続いて「教育ニ関スル勅語」が23年に発布されるとともに「小学校祝日大祭日儀式規定」も定められ、祝祭日には全ての小学校で歌うべき唱歌8曲が制定された。「君が代」を始めとするこれらの曲は音楽科教育と言うよりむしろ富国強兵策による国民意識高揚のために終戦まで唱歌の必修曲として位置づけられてきた。
 明治40年になってやっと「小学校令」が改正され、尋常小学校6年間に「唱歌科」が必修教科として組み込まれることになったが、依然として「当分ノ内之ヲ闕クヲ得」の扱いであった。「尋常小学唱歌」は明治40年に改編されて以来昭和7年まで改正や変更を加えることなく使用されてゆくのである。
 大正から昭和にかけては、中学校以上の教育が考えられるようになったが、小学校における「尋常小学唱歌」のようなものも無く、軍国主義に傾倒して行く中で音楽は軟弱なものとして軍歌にその席を譲ることになっていった。一方、こども達はラジオの普及に伴い「童謡」を歌い始めるようになっていた。
 「尋常小学唱歌」は文部省により昭和7年にやっと改定増補されるが、国家主義的な色彩は益々濃くなっていった。1年から6年まで162曲ある中で古いものは105曲で、新たに57曲が追加された。この新しい曲は「新教育思想」を反映しており、愛国心を養うために「わらべ唄」や「民謡」も取り上げられるようになった。戦時体制に入るとドイツにならい「音楽週間」も取り入れられ、音楽科教育を国民精神高揚のために用いるようにもなった。それまでの「ドレミ唱法」をやめ固定ドやハニホヘトを用いるようにもなった。  国民学校が発足してからは、軍事色の濃い集団訓練の中に音楽科教育が組み込まれてしまったのである。
 このように、明治から昭和10年代にかけての音楽科教育は欧米諸外国に追いつけ、追い越せとばかりに「文明開化」の名のもとに、近代化のための教育が行われた時代であった。
 国威高揚のための西欧化教育は集団のための「唱歌教育」と、エリート養成のための「留学教育」に2分され、中でも指導者養成のためのシステムは師範学校を中心として急速に発展をとげた。東京音楽学校(現東京芸術大学)はコンセルバトワールとして多くの演奏者や教育者を育ててきた。大正から昭和初期にかけての雰囲気はいわゆるアカデミズムの蔓延であった。音楽は高度な専門性を有するインテリの世界であると同時に、一般大衆にとっては背伸びを要する教養でもあったのである。鑑賞教育の重要性を最初に唱えたのも昭和に入ってからのことである。器楽はピアノやヴァイオリンのような演奏家用の楽器を対象としており、「教育用楽器」の概念は殆どなかった。

2、戦後の音楽科教育

 歴史上初めての敗戦を経験した日本人は「大日本帝国憲法」をより処としたあらゆるライフスタイルを変えざるを得ない状況に追いやられた。新「日本国憲法」は主権在民の民主主義思想で貫かれ、義務教育を含む学校教育のシステムも大幅にアメリカをお手本とした制度に改められた。音楽科教育も一部の専門家の卵のみに成果を期待したものから、全ての児童の音楽的成長を狙ったものへと変っていった。
 戦後の教育は民主主義を基調としていたので、どんな教科もまんべんなく全ての児童生徒の教育の機会均等という精神で貫かれている。又、及川平治らの実践のような「分団学習」やグループ学習等も重視されるようになった。典型的なものとして「バズ」学習のようなものもあった。「這い回る経験主義」などと酷評されながらもデューイらの教育思想を受け継いだ「プラグマティズム」による1930年代以降の経験主義がアメリカから輸入されてきた。音楽科教育における経験主義はJ.L.マーセルによって音楽科教育の哲学として浸透し始めた。
 戦後の音楽科教育の改革は次の5点から始められた。
1、階名唱法に戻す。
 これは音感教育に名を借りた行き過ぎた「音名唱法」に対する反省から行われた。
2、教材の自由化。
 文部省唱歌一辺倒だったものから、文部省の検定や知事の認可を必要としない学校長の責任だけで自由に教材が選べるようになった。(但し若干の制限はあった。)
3、文部省著作の教科書の廃止。
 国定教科書から検定教科書への移行。
4、学習指導要領の公表
 戦前の「唱歌」以外に「器楽」「鑑賞」「創作」「理論」等の領域も含めた学習展開の指針として。
5、教育用音楽用語の統一
 教科書が検定制となるとともに用語の統一がはかられた。
 そして最初の学習指導要領が昭和22年に発表された訳である。その目標の項目は次の通りであった。
@音楽美の理解・感得を行い、これによって高い美的情操と豊かな人間性とを養う。
A音楽に関する知識及び技術を習得させる。
B音楽における創造力を養う(旋律や曲を作ること)。
C音楽における表現力を養う(歌うことと楽器を弾くこと)。
D楽譜を読む力及び書く力を養う。
E音楽における鑑賞力を養う。
 これが4年後の昭和26年の指導要領では、次の7つとなった。
@いろいろな音楽経験を積むことによって、いっそう音楽を愛好するように育てる。
Aよい音楽を鑑賞し、音楽の鑑賞力を高める。
B音楽の表現技能を養い、音楽経験を通しての創造的な自己表現を奨励する。
C音楽経験を豊かにするために必要な、音楽に関する知識を得させる。
D音楽を理解したり感じとる力を、各個人の能力に応じて高める。
E音楽経験の喜びや楽しさを、家庭や地域社会の生活にまで広げる。
F音楽という世界共通語を通して、他の国々に対するいっそうよい理解を深める。
 それが昭和33年の改訂ではまた次の5つとなった。
@音楽経験を豊かにし、音楽的感覚の発達を図るとともに、美的情操を養う。
Aすぐれた音楽に数多く親しませ、よい音楽の美しさを味わって聞く態度や能力を養う。
B歌を歌うこと、楽器を演奏すること、簡単な旋律を作ることなどの音楽表現に必要な技能の習熟を図り、音楽による創造的表現の能力を伸ばす。
C音楽経験を豊かにするために必要な音楽に関する知識を、鑑賞や表現の音楽活動を通して理解させる。
D音楽経験を通して、日常生活にうるおいや豊かさをもたらす態度や習慣を養う。

 そして昭和43年の改訂では「表現」「鑑賞」の2領域から「基礎」「鑑賞」「歌唱」「器楽」「創作」の5領域に細分化され、次のような4目標が設定された。
@すぐれた音楽に数多く親しませ、よい音楽を愛好する心情を育て、音楽の美しさを味わって聞く能力や態度を育てる。
A音楽的感覚の発達を図るとともに、聴取、読譜、記譜の能力を育て、楽譜についての理解を深める。
B歌唱、器楽、創作などの音楽表現に必要な技能の習熟を図り、音楽による創造的表現の能力を育てる。
C音楽経験を通して、生活を明るくうるおいのあるものにする態度や習慣を育てる。
 過去のものに比べて、能力的目標が明確に打ち出されているのが特徴ですが、このころからコンクール熱が高まったのと無関係ではなさそうである。
 第5次学習指導要領は昭和52年7月に公示され、音楽の授業時間の削減が「ゆとり」の名のもとに実施された。領域は再び「鑑賞」「表現」の2領域となった。
 それまで箇条書きであった目標は一文になり、次のようになった。
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性を培うとともに、音楽を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。」(小学校)
「表現及び鑑賞の能力を伸ばし、音楽性を高めるとともに、音楽を愛好する心情を育て、豊かな情操を養う。」(中学校)
 これはさらに平成元年三月の現行の指導要領では次のように書き改められた。
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性の基礎を培うとともに、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育て、豊かな情操を養う。」(小学校現行)
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽性を伸ばすとともに、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育て、豊かな情操を養う。」(中学校現行)
 「高める」「伸ばす」「培う」「養う」「育てる」「深める」などの文学的解釈を必要とする変更が目立つ。どうやら「高める」「伸ばす」は『能力』で「培う」「養う」「育てる」「深める」などは『態度』や『心情』に関する目標語のようでもあるが、必ずしも統一されていない。
 しかし、こうして順番に並べてみてわかることは昭和43年の改訂を最も右端とすれば現行のものは最も左端にあるようで、昭和26年の指導要領の一部分ともよく似ている。特に昭和26年の『D音楽を理解したり感じとる力を、各個人の能力に応じて高める。』などは個別化、個性化をにらんだ現行のものと非常に良く似たコンセプトのようである。また『F音楽という世界共通語を通して、他の国々に対するいっそうよい理解を深める。』も国際化のテーマを掲げる現行のものとよく似ている。しかし、これらの目標の背景となっているもののひとつにISME(国際音楽科教育協会)の動向がある。第5回(1963)は東京を会場に行われ、日本の音楽科教育が国際的舞台に展開しはじめた訳であるが、翌年のコダーイを会長とするハンガリーの大会以降この会は隔年に定期的に行われるようになり現在にいたっている。1963年といえば昭和38年に当たる。つまり43年の改訂に向けて準備が始まっていた頃である。この東京大会までのISMEのスローガンは『読譜や記譜を通して音楽的能力を高める』ことであった。ところが翌年の1964年ハンガリー大会においてそんなものにこだわらない『コダーイ』のシステムが紹介されて一種のカルチュアショックがはじまったのである。このショックは43年の改訂には反映されず、結局53年に持ち越されたわけであるが、その方向は確実にISMEの影響を受けている。
 ところで現在国連加盟国は184ヶ国(1994年12月現在)あるが、その中で音楽を義務教育の『必修正課』に位置づけている国は幾つあるだろうか? 正確には把握されていないが恐らく10数カ国であると言われている。勿論アメリカやフランスも正課ではないし、ヨーロッパではドイツやイギリス、スペインなどほんの数カ国しか正課の音楽科教育は実施して居ない。その意味で日本の音楽科教育は歴史的にみても内容を見ても世界の最先端であることを自負できる。しかし、現実に日本の子どもは『音楽好き』であろうか、『生活』に密着した音楽文化を持っているのだろうか?
 そんな疑問を出発点に本論では『SMLの音楽科教育』を提案してみたいと思う。

3、S・M・Lの音楽科教育

SMLとは
 洋服のサイズがSMLのスリーサイズで表現されていることは周知の通りである。もちろんSは< Small > 、Mは< Middle >、Lは< Large > の略である。しかし、本論ではそのような意味でこのラベルを捉えていない。よく音楽科教育の目標について述べる時、歌唱力をつけるとか、視唱力をつけるとか言うように具体的な音楽的能力について語られることが多いのであるが、筆者もかつてそのような方法で指導案を書いてきた。
 しかし、『木を見て森を見ず』の譬えのように音楽科教育の目標全体の像が分かっておれば別であるがそうでない場合、音楽科教育の一部分だけを近視眼的に見ているのではないかと言う疑問が常に付いて回ったものであった。
 オランダの音楽科教育学者レベスは音楽科教育の内容を2つに分けて考えた。それぞれが4つの要素からなる分類は次の通りである。
(1)音響=音楽的能力
 (a) リズム感覚
 (b) 絶対音高感覚
 (c) 協和音程の分析
 (d) メロディーの把握と歌唱力
(2)音楽性(Musicality)
 (a) 相対的音高感覚
 (b) 和声に対する認識と反応
 (c) 暗譜、無伴奏譜によるピアノ演奏
 (d) 創造的想像力
 ここでレベスの言う『音楽性』は次のように定義されている。
“音楽性とは音楽の本質的意味を理解、経験し、その美的内容を楽譜の上で評価して、それを音楽的に発音しようとする要求とその能力である。”
−佐瀬 仁著「音楽心理学」音楽之友社より−

 点滅部分に注目して欲しい。彼レベスは言語における文字と同じように音楽における楽譜を位置づけていることがわかる。しかし、音楽の歴史において「楽譜」の誕生は極めて最近の出来事であることを考える時、音楽=楽譜の等式は中世以前には成立しないことが分かるし、(2)の(b))の和声と言う概念についても日本音楽などでは成立しないことがわかる。要するに彼は西洋のクラシック音楽に関する能力(音大の入試の課題)と同じ能力を音楽科教育に求めているのである。
 ただ、この定義や分類の背景には日本や西ドイツのように音楽科教育を義務教育の中に位置づけていないヨーロッパの一般的な音楽科教育環境について述べているのであって、日本の学校教育における音楽科教育について考慮しているのではないことを知る必要がある。従って、どちらかと言えばプロの音楽家を目指す人に必要な音楽的能力について述べていると考えた方が良いように思う。レベスがこれを発表した経緯には当時盛んに論争された音楽的能力についての色々な人の意見に対する反論ということもあったのである。
 シーショア(Carl Emil Seashore U.S.A.)と言う有名な学者がシーショア・テスト(1919)と言う音楽性のテストで評価しようとした項目が「音楽に対する適応力の徴候を測定している過ぎない」と批判した時のことなのである。その項目と言うのは次の6つである。
  1.  音高識別力(Pitch)
  2.  音量識別力 (Loudness)
  3.  リズム識別力 (Rhythm)
  4.  音長識別力 (Time/Dulation)
  5.  音色識別力 (Timble)
  6.  音記憶力 (Tonal memory)
 これらの能力は所謂「実音テスト」と呼ばれるテストでよく出題される問題の内容とよく似ている。確かにレベスの分類はそれらの単なる「識別力」では説明できないものが沢山含まれている。従ってシーショア・テストの場合は、むしろ「感覚的資質」の測定には有効であることが分かるが、それで音楽的能力のすべてを評価し得るものではないのも事実である。
このような Musical Aptitude Test と呼ばれる音楽的能力測定のテストがいくつかあるわけであるが、有名なものとして、ゴードン (Gordon,Edwin) のものがある。
 1965年に発表されたGordon Musical Aptitude Profile と呼ばれるテストは現在入手できる最良のテストとして有名である。TEST(T),TEST(R),TEST(S) の三つから成り、それぞれ(T) は音のイメージ (メロディとハーモニー) 、(R) はリズムのイメージ (テンポと拍子) 、 (S)は音楽的感受性 (フレージングとバランスと様式) の3つのカテゴリーについて小学校の4〜5年生を標準として検証された標準テストである。後述するが、このカテゴライズは筆者の考えているものと大変よく似ている。
 他にどんなテストがあるかをみると以下のようなもの有名である。 K-D テストはKwalwasser-Dykema Music Tests と呼ばれヤコブ・クワルワッサーとピーター・ダイケマが共同で1930年に開発した。このテストにはシーショア・テストと同じような、音の高さ、音の強さ、音の長さ、リズム、音色、音記憶の尺度の他に、音の運動、メロディの鑑識、音高イメージ、リズム・イメージの4つが追加されている。しかし、標準テストとしての信頼性は極めて低いので有名である。後に1953年、クワルワッサーは一人でKwalwasser Music Talent Testと称するわずか10分間のテストを発表するが、短かすぎるため信頼性がなく年長の子供にはやさし過ぎるという欠点がある。
 Drake Music Tests はRaleigh Drake によって1954年に完成され、以後30年以上にわたって使用されてきた実用的なテストであるが、それが最も効果を発揮するのは拍子やテンポを保持する能力の測定についてである。ひとつの例を挙げると、始めにトン・トン・トン・トンとあるテンポでメトロノームを鳴らし、そのあとしばらく音のしない空白があって再びトンと鳴るのは最初から数えて何拍目かを答えるような問題で、空白の間正確にテンポを保持する能力を要求される。この問題も高度になると空白の間に別のテンポのメトロノーム音が妨害音を発する等なかなか手のこんだこともやる。
Oregon Music Discrimination Tests はオレゴン音楽弁別テストとも呼ばれ、1930年から実施され1950年代にレコードが販売中止になるまでかなりの期間「鑑賞力」の測定に用いられた。このテストでは実際によく知られた作曲家の作品を使用し、原曲とそれを歪曲したものとを比較してどちらが好きかを答えると共に、その曲のどの要素が変奏されたかを判定するものであった。
 Wing Standardised Tests of Musical Intelligence はウィング音楽的知能標準化テストまたはウィング・テストと呼ばれ、1948年頃に完成した認知型テストと「すべての音楽家が芸術に関心があるという人すべてに見出したいと願うであろう基本的な素養」つまり鑑賞力を測定する目的で開発された。
後で述べるベントリーがこのテストを批判する目的で実験を実施し、1955年の論文の中で「指導のために個人個人の資質の非常に決定的な分析が望まれる場合には最も有効である」と述べているように、7つからなるこのテストの最初の3つを評価している。
 テスト1は和音分析、2と3は音高変化と記憶、4〜7はリズム、ハーモニー、ダイナミック、フレージングの鑑賞力である。特にフレージング・テストは問題作成者の主観や価値観がからむという問題があるが音楽的グループと非音楽的グループを弁別するのには大変有効である。これはゴードン・テストが同じ曲(ポリフォニー)を異なるフレージングでいくつか聞いた後で、どのフレージングが最も音楽的であるかを答えるのとは異なり、一対の単旋律のフレージングが同じか否かを答えるものである。
 1958年にはThayer Gaston がGaston Test of Musicality なるものを出版した。テストは40項目から成り、最初の18項目は音楽についての興味をアンケート方式で探ると言うのが他のテストと異なるところで興味深いものを感じるが、少しやさし過ぎるのと客観性の不足が欠点である。
  Whistler&Thorpe Musical Aptitude Testはピアノの生演奏で実施されるリズム、音高、メロディの能力を測定するもので10才から16才を対象に1950年に発表されたが、リズムのテストを除いて信頼性ではやや劣るようである。
1966年にArnord Bentleyが7ー8才の子供のために開発したBentley Measure of Musical Abilitiesは4つのテストからなり、 1、音高弁別テスト、 2、音記憶、 3、和音分析、 4、リズム記憶を測定する目的で14才位の子供にまで使えるものである。他のテストと同じで、一対のテキストがそれぞれ比較できることにより客観化している。信頼性は極めて高いものである。
 その他のテストとして、ランディン音楽能力テスト、サックリー・リズム適性テスト、フランクリンの調性感音楽才能テスト、ジョージ・カイムの美的判断力テスト、ファーナムの音楽記譜法テストなどがある。
 さて、いろいろなテストについて述べてきたが、「音楽的能力」とその分類を論ずるためには各種のテストが何を評価しようとしているのかを調べることが近道だと思ったからである。誰がどんな能力を大切と考えてテストを考案したかは実に様々である。あるテストでは「聴覚」にこだわっているし、またあるテストでは「感性」にこだわり、またあるものは「感受性」を重要視している。またマーセルやウィングはシーショアを批判的に見ているし、それぞれのテスト開発者が自分のテストの開発の前提として他のテストの長期にわたる検証を試みていることも面白いことである。
 このように色々なテストを見てみると、およそどのテストにも共通する次のような要素が見つかる。

           ┌@ 音高弁別または識別の能力。
           | (1) 単音の名前が言える。
           | (2) 単音の音高比較ができる。
           | (3) 音程の識別ができる。
           | (4) 和音の種類と違いが言える。
           |A 音量の弁別または識別の能力。
           | (1) 絶対音量が言える。
           | (2) 音量の比較ができる。
           | (3) 音量の変化が分かる。
 音響と聴覚のレベル ┤B 音色の弁別または識別の能力。
           | (1) 音色の特徴が言える。
           | (2) 音色の比較ができる。
           | (3) 音色の変化が分かる。
           |C 音長の弁別または識別の能力。
           | (1) 絶対音長の弁別。
           | (2) 音長の比較ができる。
           |D 音の記憶能力。
           | (1) 単音の記憶と再生。
           | (2) 音程の記憶と再生。
           └ (3) 和音の記憶と再生。

           ┌@ テンポと拍子の弁別または識別、再生能力。
           | (1) 絶対速度がわかる。
           | (2) テンポの比較ができる。
           | (3) 強拍部とそうでない拍が識別できる。
           | (4) 何拍子であるかが分かる。
           |A リズムの弁別と識別、再生能力。
           | (1) 拍とその分割が統合できる。
           | (2) アクセントとリズムの関係がわかる。
           | (3) テンポとリズムの関係が把握できる。
           |B 主音と音階(調)の弁別または識別能力。
           | (1) 長調と短調の識別ができる。
           | (2) 主音とそうでない音の区別ができる。
           | (3) 音階の構成音がわかる。
           | (4) 転調を指摘し、その内容が分かる。
           |C ハーモニーの弁別および応用力。
           | (1) 機能和声的にI、IV、V等の和音が弁別できる。
           | (2) 和声の違いを指摘できる。
           | (3) メロディに相応しい和声がわかる。
           | (4) ハーモニーを記憶、再生できる。
           |D メロディの弁別および再生能力。
           | (1) メロディとそうでない音の弁別ができる。
           | (2) 変奏されたメロディと原曲の同一性が指摘できる。
   音楽性のレベル ┤ (3) メロディの比較ができる。
           | (4) ポリフォニックな動きを聞き分けることができる。
           | (5) メロディを記憶、再生することができる。
           |E フレージングの弁別および価値判断力。
           | (1) リズム・フレーズの認識。
           | (2) 和声フレーズの弁別。
           | (3) メロディの美的フレージングの意識。
           |F バランスの弁別および判断力。
           | (1) 各音要素のバランスの違いがわかる。
           | (2) 美的なバランスの意識。
           |G 様式・形式の弁別力。
           | (1) 様式や形式が弁別できる。
           | (2) 様式や形式の比較ができる。
           |H 編曲・作曲・指揮の能力。
           | (1) 編曲の基本的な知識・技術がある。
           | (2) 作曲の基本的な知識・技術がある。
           | (3) スコァ・リーディングの力がある。
           | (4) アンサンブルの指揮ができる。
           | (5) 作品、演奏などの比較ができる。
           |I 技術的能力。
           | (1) 記譜・読譜の技術。
           | (2) 移調・変奏の技術。
           | (3) 即興的演奏能力。
           └ (4) 総合的演奏評価力。

           ┌@ 価値判断に関する能力。
           | (1) 美的価値判断の能力。
           | (2) 演奏表現に関する価値判断力。
           | (3) 演奏解釈に対する価値判断力。
           | (4) 作品に対する価値判断力。
           | (5) 人物に対する価値判断力。
           | (6) 時代・地域に対する価値判断力。
           |A 態度的能力。
           | (1) 好き嫌いに関する態度。
           | (2) マナー・モラル。
           | (3) 自発的態度。
   人間性のレベル ┤ (4) 謙虚に受け入れる態度。
           | (5) 自己との照合(自己発見)。
           | (6) 自己実現(自己表現)。
           | (7) 社会性・環境との調和。
           | (8) 音楽的意識の有無。
           | (9) 独創性・オリジナリティ。
           | (10) 積極性・バイタリティ。
           | (11) 計画性。
           | (12) 最適性。
           | (13) 柔軟性・フレキシビリティ。
           | (14) 即興性。
           └ (15) 統合性・再構築能力。

 どのテストにもこれら全てが含まれているのではなく、いわば靴下に譬えるならどのテストにも「穴」が開いている。つまり、不得意とする分野や見落としている部分があるというわけである。しかし、もしそんな「穴あきの靴下」でも何枚か重ねて履けば穴が塞がってしまうように、これらのテストをいくつか組み合わせれば完全なものになるに違いないと思われる。
 というわけで、このような分類を試みてみたわけである。まだ、これでも完全ではないであろうが、少なくとも音楽科教育の内容を大きく3つに分けて、音響と聴覚のレベル・音楽性のレベル・人間性のレベルに分けることには大きな意味がある。
 この、<音響と聴覚のレベル>をoundの頭文字
Sをとってそのラベルとする。<音楽性のレベル>はusicalityの頭文字で、<人間性のレベル>は生き甲斐とか生活との関係でifeの頭文字で表現することにした。
 従って、S・M・Lと言うのはサイズのことではなく音楽科教育のレベルのことなのである。しかし、偶然ではあるが、このレベルの大きさは次の図のようにサイズ別になる。

(図1)

何故SML?

 S.M.Lの言葉の意味は御理解いただけたと思う。「べん図」は本来その円なり楕円なりの大きさに意味は無いことは御存知の通りであるが、「関係」を集合の概念で把握するには大変便利な表現方法である。  現実の小学校や中学校の音楽の授業では、その授業がどの部分に係わっているのかが不明瞭になり勝ちである。指導案(教育案)と呼ばれる授業プランには〔主題〕又は〔題材〕或いは〔単元〕と呼ばれる表題があり、主題構成や題材構成のタイプによってその書き方は違うが、例えば『三拍子による伴奏型の勉強』とか『しろくまのじぇんか』等の表現がその授業の目標を示している。
 さらに指導のめあてとして、その授業の目標とする〔到達目標〕または〔行動目標〕等が記述され、その指導のための時間計画や教材の分析が行われる。そして、一時間毎の指導過程を細かく記述する。
 しかし、現実的には表題の目標や内容とはほど遠いものになっていたりすることが多いのも事実である。例えば、今は主流となりつつある〔主題構成〕のタイプの授業では『〜できるようになる』という目標で構成されるので、極端な場合『題材』の部分を空白にしておいて、学年、学期が変わる毎にそこに適当な題材を入れても良いようなものになってしまいがちである。又逆に〔題材構成〕の場合でも題材の部分を空白にしておいて何をそこに入れても同じということが起こる。 美術や体育にもよく似たことが起こるが、これは〔芸術〕や〔体育〕と言う教科の特殊性からくるものが大きいのである。

図2

 図 2は音楽や美術のような教科と数学(算数)やその他の知識・技能型授業の違いを図示したもので、目標が単一で無い〔オープエンド〕と呼ばれる教科と〔クローズエンド〕のリニァ(直線型)授業の違いを表している。
 オープンエンドの学習では、一人一人の児童生徒が異なる目標に向かって螺線状にグルグルと旋回しつつ上昇して行く様を表しているし、リニァ構造の教科では形成的評価を加えつつ一直線に目標に向かって進んで行くのが分かる。
 ブルームの言うところのマスタリー・ラーニング(完全習得学習)の考え方がリニァ構造であるが、どうも音楽と言う教科では笛の練習とか読譜の練習といった知識・技能の練習以外にはこの方式は使えない。音楽の授業は小学校の1年生の時点で既に個人の能力差は随分大きなものがあり、STEPそのものが、既に画一的な設定に馴染まないということもあり、又同時にSTEPの内容や構成も児童生徒のレベルに応じたものにしなければならない。
 音楽の教材は教科書に出ている曲そのものを中心にするが、その曲そのものが、色々な音楽的要素を持っているため、単一の目標のために利用することが困難なわけである。例えば、ある曲が〔三拍子〕と言う基本要素のために利用されたり、〔二部合唱〕の練習のために用いられたりすることがあるわけで、特にその曲が何年の何学期に相応しいという必然性に乏しいことは容易に理解できる。
 かつて、中学校の教材であった曲が小学校の音楽の教科書に登場しているケースも多々あるし、その逆もあるのはこうした理由からなのである。どんな曲にもそれが〔音楽〕である以上、総合された音楽として拍子や和声、リズムや形式の課題を含んでいるので、ただ何に焦点を当てるかが違うだけなのである。と言うことは、一曲ごとに何かの能力が着実に形成されて行くのではなく幾つかの曲を学習した後で、それらに共通する要素を統合して能力化して行くのである。
 そこで、それら共通するするものを〔S〕〔M〕〔L〕のレベルで構造化することにより合理的で、有効な音楽科教育ができるようになるのではないかというのが本論の主張である。
 しかし、本論のねらいとするところは単なる〔How to〕ではなく、寧ろその前の段階である〔何故〕即ち〔Why〕と言う事を学習者にも授業者にも考えさせることにある。
 児童生徒の立場に立って考える時、今自分が学習しようとしていることが、一体何の役に立つのかが分かっているかいないかでは随分学習の意味は変わってくる。つまり、自分の学習しようとしている事柄が、どこから来てどこへ行こうとしているのかを知っているのといないのでは大変な違いがあるということである。
 〔詰め込み〕や〔丸暗記〕による機械的学習は避けなければならないとマーセルが言っているように、仮にそれが機械的学習であるにせよ学習者がそれを学習する意味なり意義を知っていなければならないことは言うまでもない。有機的な構造こそが能力として定着するのである。
 機械には歯車やてこやベルトがあり、電子機器にはパーツや回路がある。それぞれある機能に必要なパーツであるが、それが威力を発揮するのは他のパーツと有機的に繋がっている時だけである。単にパーツを詰め込むだけでは何も機能しない。何故そこにそのパーツがあり、それがどんな機能を持つのかを学習者が知っていなければそのパーツは機能しないのである。
 〔S〕のパーツはSoundに関する機能を持っている。人声や楽器、音符などで表現したり伝達することのできるパーツである。しかし、あくまでも素材や材料、データ等としての機能しかなくて、音楽の素材として刺激の質を形成するに過ぎないのである。
従って音そのものであるからそれ自体では音楽とは成り得ない。このレベルで学習されるのは、@音の高さ、A音の強さ、B音色、C音の長さの4つであり、実音または音符で表現することが能力として要求される。そのためには、確かな〔聴覚〕と〔運動神経〕と〔記号把握〕の能力が必要である。聴音のテストで分かるのはこのレベルの能力であり、音楽の能力の一部でしかない。音楽と言うのはこれらのパーツが時間軸の上に連続的に並べられた時に意味を持ち始める。従って、このレベルの学習は〔感覚〕の学習に重点が置かれ、それを磨くように教師や児童生徒は努めなければならない。
 〔M〕はMusic又はMusicalityの略で、Sと言うパーツを時間軸の上に連続的に並べて音楽としての意味を持たせたもので、パーツを越えた、寧ろシステムとしての機能を持ったものである。システムには機能が有る。目的に応じてパーツを入れ換えることもできるし、不要なパーツを使わないこともできる。音階と言う調性機能を表現するには、ある順番に高さの異なる音を並べ、更にその中の特定の音には〔導音〕や〔主音〕の機能を持たせるための音程も約束として用いられる。学習者はMのレベルとしてその約束を学習するわけであるが、単なる約束として覚えるのではなく音楽として学習しなければならない。このレベルでは〔美しい〕とか〔好き〕とかの価値観を伴う判断は必要とせず、単純に〔こんなもの〕として受け止める学習が展開されなければならない。このレベルでの学習の代表的なものは、和声や旋律、リズム、形式等の基本的なパターンとそのバリエーションである。従って、このレベルの学習に必要なのは感覚ではなく〔感性〕と呼ばれる心理的な判断力である。感性は生まれつき備わっているのではなく、後天的に学習されるものであることが分かっている。その音の組み合わせがどんな心理と関係があるのかを学習することにより、一種の条件反射的な心理反応が形成されて行くのである。このMの学習に必要なことは、児童生徒が経験しようとしている音楽的現象を巧みに意味付けてやることと、その曲や類似の曲で繰り返し学習させて定着させることである。この時指導者のコメントに偏りがあると、その偏った感性が学習され、定着することも知られている。
 このレベルの学習の時に価値観(特に指導者の主観による)に触れ過ぎると場合によってはアレルギーや拒否反応を子供たちに起こさせることもあるし、自分で価値判断のできない子供にしてしまう恐れもあり、注意が必要である。彼らはこのレベルの学習で、美的表現の手段として、調和やバランス、変化と統一をルールとして学習できれば充分なのである。
 〔L〕LifeまたはLife−longの略であるが、このレベルではパーツでもなければシステムでもない目的や結果のフィールドであり、音楽の母体でもあるし、「表現」「鑑賞」の2領域の出発点であると共に帰着点でもある。つまり、S→M→Lという向きに情報が伝達されることを鑑賞と呼び、S←M←Lという向きに情報が伝達されるのが表現なのである。
 この〔L〕のフィールドこそが〔個性〕や〔個人差〕の母体であり、あらゆる音楽の〔芸術化〕と〔生活化〕が行われる場所なのである。
 ですから〔S〕や〔M〕の世界には個性差や能力差は少ないことが望ましく、誰でもあたかも言語をあやつるように使いこなし、理解できることが必要なのである。
 しかし、現実の音楽科教育の現場ではこの〔L〕のフィールドについてのいての配慮は「楽しませる」とか、「生き生きと活動させる」というような文学的表現で目標化されることはあっても、それを評価の場面とか指導の場面で具体化することが難しいため、絵に描いた餅に終わってしまうことが多いのである。しかし、音楽科教育、特に義務教育における音楽科教育のねらいはプロ・ミュージシャンの養成ではなく人間形成の一部として音楽鑑賞や音楽表現が能力化されることであるから、この〔L〕の教育こそが大切なのである。ここで、評価されるのは〔感受性〕に関わる〔感情〕や〔情動〕、〔無意識の意識化〕等である。
 〔感覚〕→〔感性〕→〔感受性〕という〔S〕→〔M〕→〔L〕の流れは例えば次のように考えれば納得出来るであろう。
 ここに一冊の本があるとする。その中に書かれている物語を理解するには文字が読めなければならない。つまり、〔S〕のレベルである。その物語が悲しいストーリーであることを理解するのは〔M〕と同じレベルで〔感性〕が必要である。そして、それを読みながら自然に涙が溢れ出るというのが〔L〕即ち〔感受性〕の世界である。この涙が出る理由は自分のことのようにそのストーリーを捉えることによるわけで、悲しい経験をしたことがなければそういうことにはならないであろう。
 次に示すのはいささか分析的過ぎて味気ないが、子供の能力を細かく分類して何は有る、何は無いということを正確にチェックするためのチェックリストとして参考にしている。

図 3

 この図の意図するところは学習内容を〔S〕〔M〕〔L〕のレベルに分けて、それぞれのレベルで学習されるべき内容とその関連を明確にすることである。


S.M.L.の音楽科教育(U)

実技教育研究指導センター 音楽科教育分野
教授 鈴木 寛 1996年3月 実技教育研究 第10号より


Sのレヴェル

 S即ちSoundの教育とは音に関する【知覚】又は【知覚認知】の教育である。Perception と呼ばれるこの能力は、近年音楽の分野でかなりクローズアップされるようになった。音に関するこの【知覚】は大きく分けて二つの現象として起こる。その一つは【現実の音知覚】であり、実際に聴こえる音に対する聴感覚の能力である。もう一つは【内的音知覚】と呼ばれるイメージとしての音の知覚認知である。
 音知覚には、@音高知覚、A音程知覚、B音色知覚、C音長知覚、D音量知覚、E協和知覚、F音数知覚、G空間知覚、H音構造知覚などが知られているが、それらは個々の能力ではなくゲシュタルトとしての音に対するその時その時に有機的かつ総合的に生ずる能力である。

1.音高知覚と音程知覚について

 音高知覚とは音振動の周波数(振動数)の違いで、音楽の世界では【Pitch following、ピッチ感覚】と呼ばれる。ヴァイオリンなどの弦楽器奏者が4本の弦を正確にチューニングする時などに必要とされる能力である。この音高知覚には感覚的な知覚と認知的な知覚が有り、前者を【絶対音感】、後者を【相対音感】と呼ぶ。【絶対音感】と呼ぶ音高知覚能力を有する者は、特定の基準音に依存することなくその高さを言い当てたりイメージすることができる。ある時代においてはこの【絶対音感】こそが音楽の才能であるかのごとき認識で捉えられたこともあるが、現在では5歳までに音楽教育を受けた者の殆どにこの能力が存在することがわかっており特別な才能ではなく寧ろ直感的音感として能力化されたに過ぎず、いずれはより次元の高い音感にとって替わられるものであることがわかっている。終戦直前の音楽教育ではこの絶対音感を空襲の飛行機の機種や高度、速度などの識別に用いようと力を入れた時期があったらしいが、徒労に終わったことでも知られている。その原因の一つは絶対音感を付けるためには子どもたちの学齢が高すぎたことが今ならわかる。
 この絶対音感は言葉で例えるなら【文字が読める】というのに過ぎない。文字が読めても文の意味や言葉はわからない。従って音楽の構成音が知覚できたに過ぎず、音楽がわかった訳ではない。それに対して、相対音感は基準となる音と他の音の関係からある音楽的意味を見い出そうとする認知的音感であり、【文の意味や言葉がわかる】と言うのと同じ能力である。何の音が鳴ったということよりどんな関係の音が鳴ったということが問題とされる聴き方であり、レヴェスの分類によれば音楽性のレヴェルであるとされる。コンピュータなどの機器で音高を識別することは極めて容易であるが、ピアノ演奏の中からメロディー・ラインだけを抽出するような聴き方は不可能である。それを人間はいとも簡単にやってのける。この人間の聴き方が認知的聴覚である。
 従って音楽教育の観点から必要なSの教育は、相対音感的な音楽性に基づいた能力でなければならない。この絶対音感と相対音感の違いは【固定ド唱法】か【移動ド唱法】かという論争にも関連し、東川清一の著書の中でもしばしば述べられているが、【固定ド唱法】は知覚だけを使い、【移動ド唱法】が認知的であることからもどちらが教育的に利があるかは言うまでもない。
 しかし、マリー・シェーファー等の新しい音楽家は【サウンド・スケープ】というコンセプトによる偶発的な音をも音楽であるとする考え方から、単音のイメージすら音楽であるとする。その引き合いによく出されるのが、京都の庭園などに見かける獅子脅しである。「カン!」と鳴るその一つの音が無限のイメージを引き出し詩的イマジネーションを与えると言うのに例える。
 筆者は音楽を文字ではなく音による【詩】であるとの立場をとる。その意味で詩は厳密な文法や語法に頼らないように若干の例外的な使い方がむしろ新鮮であることも理解できる。音楽における文法や語法は調性や拍子のようなものから和声学、対位法、管弦楽法などの秩序や法則を指す。近代および現代の音楽の多くがそれらの秩序や法則からの逸脱を目指してきた。やがてそれらの音楽は作曲者や演奏家の手を離れ、偶然性や即興性による音操作へと変わっていったのである。それは、音楽の主体者が【人間】ではなく、【音】そのものになったことを意味する。セリーと呼ばれる作曲技法では数学的手法すらもとられ、ピッチの決定は人間ではなく数式になってしまった。さらに最近ではフラクタル理論を作曲に用いようとする動きもある。この場合も、ある音から次の音を決定するのは人間ではなく数学である。
 絶対音高感覚保持者の多くがこれらの現代音楽を支持していることからも、絶対音高感覚保持者が相対音高感覚保持者(バッハ、ベートーヴェンをはじめとする多くの音楽家)の作品から得られる芸術的感動よりも主語が音そのものになる現代音楽に惹かれるのも理解できなくはない。この芸術的感動は人間が芸術的意図をもって創ったものに対する感動であり、その作者や演奏者の人間性に触れる行為でもある。
 しかし、単なる【音】にも情動喚起の機能が存在することから、特定の音に対しても反応があることは否めない。このことが前述の現代音楽家たちの美意識や哲学のよりどころとなっていると考えられる。音そのものが音楽であるとする人たちの言う音楽にはある特徴が所見される。それは汽笛やブザーのような持続音ではなく、「ポン」とか「チン」の類の減衰音が多いと言うことである。減衰音の特徴として、消えゆく音から持続的な音のイメージが生成されることが判っているが、その自己生産の過程に人間的な行為が含まれており、それを音楽と呼んでいるようである。
 面白いことに絶対音感にはいくつかの種類があるようである。例えば、特定の楽器(例えばピアノ)などの音だけに働くもの、特定の音域(周波数帯)だけに働くもの、特定の音高(ピッチ)だけに働くものなどである。我々が会話に用いる音声はそれぞれの人によって異なる音色と基準音がある。それだけで誰が話しているのかは眼を閉じていてもわかる。この能力は殆どの人に存在し誰もそのことを意識しない。伴奏のないわらべうた等の出だしの音が奇妙に全国で一致するのも元来我々に備わっている絶対音感なのである。
 ピッチの変化が決定的に言葉の意味を変えるので有名なのは中国語であるが、MAAという発音の語尾を上げ下げするだけで、馬や母などの異なる意味になる。この場合、中国にも音痴はいるかも知れないが、みんな正しくコミュニケートしていることを考えれば本来人間は音痴ではないともいえる。
 それでは、音痴と呼ばれる現象は何かと言えば、一般的定義に従えば@正しく音高を認識できない状態、A正しく音高を表現できない状態の二つである。この正しい音高とは音楽に用いる場合全音や半音で構成される音階上の音高を指す。未発達な幼児はこの音階上の音高からの逸脱がしばしば起こることから、音階構造による音高認識は後天的学習によるものであるとほぼ断定できる。音楽的経験を通して我々は少しずつこの楽音認知の元になるスキーマを形成しているようである。例えば聞いたこともない音楽をイメージすることはできるが、聞いたこともない音をイメージすることができないのは何故か。それは、音や音高を識別するメタ認知に関するスキーマにない音はイメージできないからである。アフリカの原住民は半音の半分であるクオーター・トーンをよく用いる。筆者の実験では音楽専攻の学生ですらこのクオーター・トーンをとらえることができないし、発声することもできない。しかし、現実にはチェロなどのフレットの無い弦楽器などでは未熟な演奏者はしばしばこのクオーター・トーンを出している。にもかかわらず彼らはそれを上下どちらかの近接する音であるとイメージ調整を行い、結果的にはクオーター・トーンであることを無視しているのである。
 従って、音高認識のメカニズムは聴覚刺激を自分の持つ音高テーブルと照合して何の音が鳴ったと認知しているのである。自分のメタ認知スキーマに無い音には反応しないか、自分のスキーマに整合させてしまうかのどちらかである。音痴の原因の一つはこのスキーマの混乱や不足であると推察される。
  Diana Deutchはこの音高認識のメカニズムにある種のパラドックスが存在することを証明した。ピッチ・クラスとピッチ高度に違いが存在するとする説である。時計状の円周上に右回りの目盛りを半音刻みに展開しそれぞれの時計の数字の位置にC,C#,D,D#と言うように配置したものをピッチ・クラスの回状配置と呼ぶ。一回りすると1オクターブと呼ぶこの回状配置は原則的には右回りの時上昇するように聞こえるはずであるにも拘わらず、C-F#,C#-Gのような3全音(増四度又は減五度)で構成される音程を右回りに移調しながら聞かせると、ある音のあたりから本来上昇である音が下降音程に聞こえるのである。これは筆者もDiana Deutch自身からテストを受けたが長年音楽経験を積んできたにも拘わらず見事にこのパラドックスに引っかかってしまった経験からもわかる。パターンの始まりがB,C,C♯,D,D♯の場合下降音程に聞こえ、F♯,G,G♯の場合下降音程に聞こえる傾向にあるようである。かなり音楽経験を積んだ者でもピッチ高度の違い即ち例えばC3とC4を聞き分けられないことは多くの経験者によって告白されている。ソプラノ・リコーダーの記譜上の高さと実際の高さには1オクターブのピッチ高度誤差があることも意外と知られていない。このパラドックスを利用した無限音階(いつまでも無限に昇り続けるように聞こえる音階)はどんなに訓練された耳をも欺くことで知られている。
 このDiana Deutchの実験による傾向は英語を母国語とする民族とスペイン語を母国語とする民族では異なることも報告されている。使用言語との因果関係はまだ明らかにされていないが、イントネーションに依存する度合いによって民族の音高認識のメタ認知スキーマが異なることによるらしい。単音で聞けばこのパラドックスは起こらないが、二つの音の間(音程)を認知する場合のみにこのパラドックスが存在するということは基本的に我々は基準となるピッチを持っていることになる。そしてその守備範囲は使用言語や音階テーブルの状況と関係があるということになる。
 会話において明るく力強い印象を与えるために個々の単語のピッチ変化の幅は通常の会話より大きく、アクセントも強調される。つまり、F-Rangeと呼ぶ周波数変化の幅や、 D-Rangeと呼ぶダイナミック変化の幅はどちらも強調拡大されるが、葬儀の挨拶のような場合は逆に縮小される傾向がある。その表現が気持ちとして相手に伝わるのがニュアンスと呼ばれるものであり、悲しみを表すニュアンスの場合、音程幅は通常より縮められる。その結果、音階は長三度と短六度のド〜ミとド〜ラがそれぞれド〜ミ♭とド〜ラ♭に縮められ、その音程で構成される音階を短音階と呼ぶのである。
 もともと音階というものは自然倍音による協和音程によって創られたことがわかっている。同時に複数のピッチが発生する場合協和する音程とそうでないものが分類され、結果的に完全四度や完全五度のような完全協和音程が抽出される。それの組み合わせだけでできる音階を純正調音階と呼ぶことは一般に知られている。この調律方法についてはピタゴラス音階や中国の三分損益法などが古典的に有名であるが、近年はあらゆる調で演奏できる平均律が普通である。協和感や響きの美しさでは他の調律法に劣るが、前に述べた聞こえるピッチと自分で整合させるピッチの置き換え機能により何らの支障もなく今日の一般的な調律法となっている。一部の学者の間に純正調以外を認めないかの発言もあったが、人間の微妙なメタ認知の作用の前には大したことではないとの一般的な見解に達している。事実オーケストラの演奏のような場面では厳密なピッチを出している楽器など殆どなく、それぞれが微妙にずれることから起こるコーラス効果の方がむしろ心地よく聞こえるのも皮肉なことである。勿論ピアノのような楽器では厳密な調律を要求されるが、コーラス効果や、アンサンブル効果の期待される音では厳密な調律は意味をなさない。
 純正調にこだわる人たちの殆どが、複数の音が同時に鳴る【和音】の響きのことをそのメリットにあげる。 確かに純粋倍音による響きには透明感があり美しいが、欠点として和音が和音としてではなく音色の一種のように聞こえてしまうことである。三つの音が同時に鳴っている量感や豊かさは感じられず貧弱に聞こえることが、音楽の中ではむしろ欠点になってしまうのである。しかも、最悪の場合あまりに融け合いすぎて必要な音がマスキングされて聞こえなくなることも起こる。
 さて、音程の組み合わせの最終段階は【音階】即ち【調性】の知覚認知である。主音や核音と呼ばれる基準音に帰属すべくそれぞれの音階構成音には機能がある。相対音感とはこの機能を認知する音感であり、文字や言葉を品詞分類し、主語や述語として認知するような能力である。  近代や現代の音楽は12音技法から無調へと進化し、現在に至っている。つまり、音の相対関係を極力均一化し、無機能化させることをねらっている。さらに、協和音程を避け不協和音や非楽音をも積極的に用いる。音楽療法の世界ではこの種の音楽は治療に全く効果が無いことを既に指摘しているし、面白いかもしれないが情動を喚起することがないことがわかっている。主語や述語を失った音楽は作曲者や演奏家のメッセージを情動に訴えることが出来ないのである。【情報】としての音楽ではなく【刺激】としての音楽である現代音楽は個々の音の発する刺激を内的イメージに置き換えてこそ機能するのである。音そのものが情動を喚起するとすればその情動をどう操作するかを企画するのが作曲家の仕事である。でなければ作曲家と名乗る資格はない。
 ここで言う情動のベクトルを筆者は次のように考える。

この図の4つエリアに向かって原点から動く心の動きを情動と捉える。もしも単なる刺激としての音であっても、それが、連続したかたちになれば一定のベクトルを示すはずであるが、実際の現代音楽の多くは、緊張と弛緩のバランスは構造化されているが、音響的メッセージはあっても旋律による統一感がないため、その旋律を口ずさむことすら出来ない。言い換えれば、統一感があれば初めて聞く曲であっても次の音を予想したり期待したりすることができる。この期待を裏切られるつまり期待からの逸脱が情動喚起の原理であるとされる。従って、期待値が生じない現代音楽は情動喚起つまり感動とは極めて遠い存在であるとも言える。音楽療法に現代音楽が使われないのもこの理由による。
 音楽に統一感を与えるのは【音階】即ち【調性】であり、頻繁に繰り返される転調による音楽といえども統一感は失われない。この【調性】を感じる能力は明らかに後天的であり、学習の結果に他ならない。幼少の頃からピアノなどの学習を開始した者は絶対音感と固定ドが連動し、ドレミが音階上のそれぞれの音の機能や音程の違いとしてよりも、今何の音が鳴ったとか次に何が鳴ったということで知覚される。このことは【調性】の学習にはならず、ソルフェージュにもならない。ソルフェージュの概念は旋律を主体とするあらゆる音楽の概念であり、この概念こそがメタ認知のスキーマである。
 従って、結論的に言えることは、絶対音感による【音高】の知覚は単純な聴覚訓練によるものであり、相対音感による【音高】の知覚は【音程】認知による知的認知の領域であることがわかる。
 Sの教育には音階、調、音程等の知的認知学習が組み込まれなければならない。現状の教育のいくつかの問題点を挙げるなら次のような点が指摘されるであろう。

(1)鍵盤学習や初期の読譜学習において、「ドレミ・・」を固定的な絶対音高として教えていないか。
 この点についていわゆる階名と音名の厳密な区別が音楽大学や教員養成大学の教育課程の中でも検討されるべきである。 コンピュータは例えばMIDI信号のような信号を実際の音に変換して出力することができる。しかし、コンピュータには自分が何調のどの音を出しているかはわからない。それでも聞き手には音楽として聞こえ、しかもミスがない完璧性を示す。絶対音感者の頭の中は殆どこのコンピュータに近い。コンピュータによる作曲なども確率計算による統計処理的なもので、美的アイディアや芸術的哲学によるものではない。無意味な単音の羅列の学習になりやすい固定ドによる教育はやはり問題が大きい。フランスやイタリアでは「ドレミ・・」を移動ドとしてではなく音名として歌う唱法しかない。しかし、大多数のフランス人はその「ドレミ・・」が歌えない。彼らの殆どが「ラ・ラ・ラー・・」等の歌い方で旋律を提示する。このことは、彼らにとって「ドレミ・・」は音名であり、ソルフェージュする時は「ラ・ラ・ラー・・」等の単なる声(楽器でもよい)による音程シリーズを階名の代用としていることがわかる。この「ラ・ラ・ラー・・」等の歌い方をする人たちは階名の概念が無くてもそれに替わる「ラ・ラ・ラー」が十分に機能していると考えられ、むしろその方が自然であるように思われる。ドレミ唱法の歴史は11世紀Guido von Arezzo(†1050)まで遡ることができるがそれ以前は歌詞唱かスキャットであったに違いない。それはそれなりに不自由なくやってこれたとも言えるが11世紀以降はアカペラの合唱においてこのドレミ唱法が威力を発揮するに及んですっかり定着してしまった。
 従って、その精神を尊重するなら階名の学習はその機能を教えることになる。「シ」は導音として主音の「ド」を意識させるという機能のことである。ひとたび「ドレミ・・」を固定音のラベルとして学習してしまうと、この機能は失われてしまうのである。
 しかし、現実に我々が接する学生の多くは初等教育の時期にいわゆる「ハ調読み」又は「白鍵読み」の教育を受けた結果、一見絶対音感のように見えるが完全な絶対音感ではなく、単に音名と階名の区別が学習されていないだけの未熟な状態であることが観察できる。彼らにとって「ドレミ・・」は単なる歌詞に過ぎず、「ラララ・・」と歌っているのと大差ない。
 また、完璧な絶対音感を持ちながらも自在に何調へでも移調したり、即興的な伴奏をつけられる理想的な者もいる。従って絶対音感が相対音感の成長を妨げるものでないことは明らかである。要するに絶対音感者の殆どがそれに依存しすぎてそれ以上の成長が止まってしまったと考えられる。
  我々が知らない異国の言葉を聞くとき、何とかひらがなやカタカナに当てはめようとして聞く。このとき50音に無い音の場合無理矢理に近い音をあてはめる。Americanをメリケンというように少々の無理を承知でかなにしてしまうのである。これは我々が50音以外のスキーマを持たないからである。兵庫県のある地方では「ぜ」と「で」の発音が区別できない人たちがいる。この人たちは「全部」を「でんぶ」と発音するが、かなで書かせると「ぜんぶ」と書く。そしてこれを無理に矯正しようとすると大混乱に陥る。この場合も「ぜ」と「で」の発音上のスキーマが同じであることから起こるものである。
 同様に、最初に形成される音高スキーマが「ドレミ」なのか「ハニホ」なのかで混乱が生じるのである。これは大変重要な問題であると提起したい。
(2)単なる条件反射的な適応能力として聴音やソルフェージュを行っていないか。
 フラッシュ・カードと呼ばれるカードの五線上に音符が一つだけ書かれたものがある。このカードを一瞬子どもに見せて反射的に「ドレミ・・」を言わせるものである。読譜力を高める目的で考案されたものであるが、反射的な言葉は出るがその音高つまりピッチは出されないことが多い。このことは、絶対音感の有る無しにかかわらず子どもの早期教育にとって危険な学習であると言える。即ち絶対音高であれ相対音高であれ実音を伴わない反射的行為は非音楽的である。
 音楽は連続する単音の相対関係であって、単音ごとに意味があるケースは極めて希である。瞬間ごとの音ではなく連続された音に初めて旋律としての機能があるのが普通である。その意味でフラッシュ・カードのように瞬間瞬間を条件反射的に「ドレミ・・」で言わせても意味がない。単音にも調や音階構成音としての機能があるわけで、単音といえどもそれを意識させる教育がなされなければならない。機械的な条件反射は適応力とは言えるが音楽的な能力の成長の妨げになることは明白である。
 音階とその構成音の機能に裏付けられた「西洋音楽」の理論は日本の伝統音楽にも存在し、他国の民族音楽にも存在する。いかなる国の音楽にも音階とその構成音の機能は存在し、日本の音階でも「壱越・断金・平調・勝絶・下無・双調・鳧鐘・黄鐘・鸞鏡・磐渉・神仙・上無」、中国では「黄鐘・大呂・太簇・夾鐘・姑洗・仲呂・すい賓・林鐘・夷則・南呂・無射・応鐘」がそれぞれ西洋の「D,Dis,E,F,Fis,G,Gis,A,B,H,C, Cis」 に該当する音名として使われてきた。
 また中国では階名として機能する「宮・商・角・徴・羽」いわゆる五声が存在していたが、遣唐使たちの輸入時に「調」や機能和声の概念のない日本人には必要のないものとなり、以来1200年以上に渉り日本人は音名を階名として用いたり、唱歌(しょうが)と称するソルフェージュを利用してきた。 明治以降「ひ・ふ・み唱」なども試みられたが現在では誰も使えない。さらに機能和声に代わる鍵盤和声によるコードネームの普及は一層、音階の機能のスキーマ形成の妨げとなっている。アメリカの黒人たちがJazzの世界で活躍していることは良く知られていることであるが、彼らの殆どが楽譜を読めない。しかも彼らの殆どが絶対音感を持たない。にもかかわらず彼らは自在にどんな調でも即興演奏ができる。何十年クラシック音楽をやったピアニストでもできないのが普通であることが特別な教育を受けたわけでもない彼らにはできるのである。
あのバロックの時代、限られた調でしか演奏できなかった音楽が12平均律のおかげでどんな調でも演奏できるようになった頃の音楽家たちが好んで行ったセッションのようにである。移調の感覚(スキーマ)無しでは考えられないこの能力を復活させるために、今こそ絶対音の呪縛から解放しなければならないと考える。

(3)最初から12音で構成された楽器や曲を与えていないか。
 ハ調の長音階は白鍵だけで演奏できる。このことには重要な意味が含まれている。「ドレミファ」と「ソラシド」の二つの相似形のテトラコルドを並べたものが基本的な長音階の構造である。この基本的構造をシンプルに理解するには黒鍵は不要である。あらゆる原始的な楽器は基本的な音階を演奏するのに最小限必要とされる孔や弦しか持ち合わせていない。移調や転調という後の概念はそこには用意されていないのである。
まさに子どもたちが初めて手にする楽器はそれに近い。自分のイメージをとにかく長調の音階の上で実現してみる試行が大切なのである。この行為は「移動ド」のトレーニングに他ならない。つまり、目の前にある音階を使ってイメージされた音楽の音程相対関係(機能)を維持しながら再現するという、いわば通訳をするような行為なのである。この行為を通して子どもは音階の絶対的なポジション(調)と相対的機能のスキーマの関係を学習するのである。半ば幼稚な玩具と思われがちなこのような楽器のコンセプトはオルフの音具によって有効性が立証された。主音以外のキーから音階を弾くとき生ずる矛盾の最初の解決方法が黒鍵の使用であって、12音的使用のために黒鍵を位置づけるのは尚早であろう。12音の音楽の殆どは調性則ち機能和声を否定する。旋律の構成音は導音や主音の機能を持たないランダムな系列に配置されるか、あえて新しい法則や規則に準じて配置される。絵画における非具象と同じ哲学に基づくこれらの音楽は、ピカソといえどもその抽象画の背景に確実なデッサン力があることを無視している。このデッサン力にあたる能力が調性の理解である。デタラメと本物はよく似ているが本質が違う。
 ジョン・ペインターの提唱する創造的音楽学習における「音楽の構造」は消去法的に12音の中から必要な構造(音階)に到達させるのが目的であり12音による無調の音感を21世紀の子どもの音楽とすることを目的とはしていない。しかし、坪能由紀子を始めとする人たちは自らが持たない相対音感の世界を古い音楽教育と称して教育現場に受け入れようとはしない。「これも音楽」と「これが音楽」ではジョン・ペインターの思想は大きく変わる。

2.音色知覚と音量知覚について

CDのような媒体ではOn/Offの二進法による信号だけであらゆる音の再現が可能である。勿論ディジタルと呼ばれるこのような信号を直接聴いても「ピー」とか「ガー」といういわゆるパルス・信号しか聞こえない。それが再生装置を経由すれば音楽になるのはこれらの信号が最終的に鼓膜をどのくらいの強さで何回振動させたかという情報に変換されるからである。長らく音の要素は「高さ・強さ・音色・長さ」の4つであると信じられてきたが、今日の科学は「強さ(Amplitude)・回数(Time)」だけがあらゆる音の基本要素であることを突き止めた。
 例えば「音色」は、倍音の含まれ方即ちスペクトラムによって決まることはヘルムホルツによって発見されて久しい。この基音に対する倍音の含まれ方はすべてそれぞれの倍音の音量の問題である。トータルな倍音の合成結果としての音と実際に「ド・ソ・ミ」等の複数の音による複合音は本来聴覚は区別しない。しかし、スキーマが形成されるとこの一見同じように聞こえる合成音と複合音も明確に区別されるようになる。まして、同時にいくつもの音色やピッチが聞こえるCDやレコードの音楽の中から明確に1つの音だけに注目したり、抽出できるのはコンピュータや機械には不可能なことであるにもかかわらず、人間はそれをやってのける。単なる聴覚のシミュレーションならコンピュータにもできるが、このようなパターン認識を伴う聴覚は認知的であり、人間の能力でもある。大阪大学の片寄らの研究グループはそれを明らかにしようとしているがまだ人間の能力の一部しか模倣できない。
 音色知覚のベースとなるのは音高知覚である。何故ならスペクトラムの違いが音色の違いであるからそのスペクトラムに含まれるあらゆる音高を知覚できなければならないからである。結果的にはトータルにそれらが合成された音として聴いているのだが、含まれるすべての倍音を無意識で聴いていることになる。シンセサイザーなどで音を創るときにターゲットとなる音のイメージが不完全であると似ても似つかぬ音になることがある。これは、スペクトラムの特徴やその時間軸変化のスキーマが形成されていないことを意味する。
例えば、オーボエとイングリッシュホルンでは発音原理は同じだが楽器のサイズがちがうと言うような純粋な知識もスキーマとなる。さらにその鼻にかかったような甘い音色もスキーマとなる。丁度言語の学習における誰の声かを識別する能力に似ている。高調波に属する倍音は特に音色を特徴づけるが、老化による難聴ではこの当たりの周波数帯が聴こえないため言語の識別が難しくなるのである。
 また、殆どの音の特徴はその鳴り始め(アタック)の瞬間的な音色や音量変化によって区別される。その時間はわずか千分の一秒とも言われるが、その時間内に識別が完了しない場合もわからない音として処理される。これはスキーマの照合に要する時間と密接な関係がある。この音色スキーマは常時フルに働いている訳ではなく、いったんある種のスキーマの範疇であることがわかればその中の最小限度のスキーマで事足りる。その最小限のスキーマは常に次の音を予測し待ちかまえ照合しながら認知しているのである。このように音色の知覚は知覚と言うより認知の範疇に入る行為であると考えられる。つまり、学習してこそ能力となるものである。
 シンセサイザーで何か音を創るとき、この千分の一秒の出来事をスロー・ヴィデオで再生するようにゆっくりと時系列に従って再構築できないとイメージ通りの音にはならない。この場合音色のスキーマは極めて細分化された音色によって構成され、それの組み合わせや連結によってイメージは再現される。と言うことは極めて一瞬の出来事をさらに細かく分析的に捉える聴覚知覚が必要とされるのである。「〜のような音」という言い方は音色に対してしばしば用いられるが、この「〜のような」という部分こそがその音色を認知するスキーマを代表したものであることは間違いない。
 さて、音色に関してはこの「〜のような」という表現にみられるような【形容詞】による表現がよく用いられる。植村(兵庫教育大学修士論文平成2年)によれば次のような代表的な形容詞がある。
@重い―軽い、A澄んだ―濁った、B鋭い―鈍い、C硬い―柔らかい、D広い―狭い、E遠い―近い、F豊か―貧しい、G粗い―滑らか、H快い―不快な
 例えばフルートのある音域の音を聴くと、@軽い A澄んだ C柔らかい G滑らか H快いなどと感じるのであるが、これは「フルートのような音」の一言で済んでしまう。フルートの音の持つ個々の分析的な性質は漠然とした印象の中に埋没してしまい表出してこないのである。この「〜のような音」と言う表現はその人がどれだけ多くの種類の楽器音を聴いたことがあるかに依存している。「UFOのような音」と言う場合、UFOの音を実際に聴いたことのある人間以外には再現しようのないことからもそれが分かる。しかし、これを「金属的な音で、8000ヘルツより高く、毎秒7回ほどの振幅のゆれのある持続音」と言えば個々の表現のスキーマさえあればどんな音かほぼ伝わる。勿論、この場合音色のパラメータは多いほど、そして精密なほど正確になる。それは、極めて分析的でかつわずらわしいことである。それなら「〜のような」という形容詞表現の方が実用的である。しかし、形容詞による、言い換えればアナログ表現によるイメージはあまりにも抽象的で合理性や普遍性に欠ける。
 このように、音色に関する知覚は聴いたことのある音を元にした照合によるものであることが分かる。外国語の発音を無理矢理カタカナ等で表現する場合に起こる一方向性の再認性も同様に起こる。Americanを一度メリケンと表現してしまうと、Merikenとなることはあっても二度とAmericanと再現されないような場合のことである。ピアノの音を【ポン・ポン】と知覚する人には、木琴の音を【ポン・ポン】と表現する人とは異なる音色イメージがあるのだが、言葉を媒体とする以上木琴と同じになってしまう。
 昔、目の不自由な三味線弾きが音だけで天気の変化を言い当てた話などはこの音色知覚が極めて鋭敏であった例であるが、この場合多分、微妙に違うスペクトラムから判断したのではないかと思われる。声楽のレッスン等でも「〜のような声」として教師が手本を示すのも、学習者に「〜のような声」として理屈抜きに教えようとしている気配がある。「もっと高調波の少ない声で」とか「アタックのカーブをゆるやかに」等の分析的な指導は聴いたことがない。せいぜい前述の@〜Hの抽象的な形容詞が用いられる程度であろう。
 音色の知覚認知には音量知覚が大きく関わっていることはあまり知られていない。音色は主として@アタックのエンヴェロープとAスペクトラムの2要因で決定されることは既に述べたが、@アタックのエンヴェロープというのはアタックの各倍音の音量の時系列変化に他ならないし、Aスペクトラムというのも含まれるそれぞれの倍音の音量の違いに他ならない。この音量知覚には【絶対音量知覚】と【相対音量知覚】の二種類がある。
 【絶対音量知覚】とはデシベル等の単位で表される絶対的な音量に関する知覚で、聴覚の感度の個体差にもよるがほぼ0デシベルから130デシベルまでの音量の中の任意の音量を特定できる能力である。かつてピアニストの安川加寿子氏が自分で決めた32段階のヴェロシティーの中から任意のものが演奏できたとされているが、そのような能力もこれに当たると考えられる。6デシベルごとに音のエネルギーは2倍になるので素人にも12デシベル刻み程度なら識別できるかも知れないが、安川加寿子氏は3〜4デシベル刻みと言う精密機器なみの信じがたい能力を持っていることになる。  【相対音量知覚】とは比較対象となる基準音量との差を認知する能力である。この差の識別精度がスペクトラムの識別能力と大きく関わっている。この場合わずかな差をも知覚できる人のことを音色に敏感な人と言えるであろう。さらにこの【相対音量知覚】は同時にいくつか聞こえる音同士の比較だけでなく、クレッシェンド等の時系列変化に対しても作用する。この場合もわずかな変化をも聴き分けることができる人とそうでない人が存在する。比較対象となる音の記憶保持能力も関係するが、大部分は音量のクラス分けが大まか、言い換えれば音量スキーマが少ないことに起因すると思われる。その意味でも音量知覚能力の中でも【相対音量知覚】は極めて認知的であると言える。丁度、音高知覚に絶対音高知覚と相対音高知覚があったのと同じことがここでも言える。
 この点について現状の音楽教育の問題点を以下のように考察する。

(1)器楽や声楽の指導過程で音量に関する指導が後回しになっていないか。
 例えばピアノ曲の学習において、まず最初の段階は音に間違いはないかとか、リズムに間違いはないか、ということに注意が向けられる。合理的な演奏のための指使いも指導される。しかし、アクセントや強拍、弱拍の関係については比較的に後回しにされる場合が多い。ppp,pp,p,mp.mf,f,ff,fff等の目に見える記号については相対的なヴェロシティーの違いとして指導されるか、絶対的なヴォリュームとして指導されるかの違いはあっても、あまり注意を払うケースは少ない。特に右手と左手のバランス等は殆ど見過ごされがちである。特にリズム感やフレーズ感と密接な関係のあるアクセントや強拍、弱拍の指導は最初の段階から重要である。
例えばチェロのような弦楽器の場合、左手はピッチに関するコントロールを受け持ち、右手が音量のコントロールを受け持つ。この場合、音を出そうとすると右手は否応なしに「どんな強さで」ということを意識しなければならない。ピアノも本来同じはずであるが、一本の指でピッチ(キーの位置)とヴェロシティーをコントロールするにはかなり訓練がいる。だからと言って後回しにすることはおかしい。鳴らそうと思った瞬間に「どんな強さで」と言うことを意識させるべきである。そのためには打楽器のようなものを並行して学習させるのも良い。

(2)ピアノを弱く、フォルテを強くと教えていないか。
 合唱指導の場面等でよく目にするのは、指導者が演奏者に対して「もっと弱く」とか「もっと強く」と指示している姿である。この「もっと弱く」とか「もっと強く」という指示の根拠は殆どの場合楽譜に記されたPやfの強弱記号である。何時からこれを「弱く」や「強く」と言うようになったのかは定かではないが、この同じイタリア語を英語では"Soft"と"Loud"という風に訳している。このソフトと言う言葉のニュアンスと弱くと言う言葉のニュアンスではかなり違う。ソフトにと言う場合には音色的な意味あいも含まれて来るが、弱くと言えば単にエネルギーを少なくという意味が強い。赤ん坊の顔を大人の顔のサイズにしても赤ん坊の顔である。逆に大人の顔を赤ん坊の大きさにしても大人のままである。赤ん坊には赤ん坊の、大人には大人の顔としての個性がある。強いと弱いの表現は単にズーム比や拡大率を変えただけというニュアンスしかないが、ラウドとソフトと言う表現には個性の差としてのニュアンスが鮮明である。よく、ただエネルギーだけを増減したピアノ・フォルテを耳にするが、ピアニッシモではただ声や音が貧弱になるだけで決して本来のPにはなっていない。本来のPには音色的要素も多分に含まれていることから、Pやfを 「弱く」や「強く」と言う日本語で教えてはいけない。英語を母国語とする演奏家と日本語を母国語とする演奏家にはこのダイナミクスに関する表現が違うという批評もこれで説明が付く。

3.音長と音数の知覚認知

 人間には体内時計がある。「ピー」と鳴る音を聴いた後、正確にその長さを模倣することができるのもこの体内時計のおかげである。その誤差は音楽の専門家の場合殆どない。10分の1秒程度の誤差では素人でも判断できる。これを仮に【絶対音長知覚】と名付けるなら、当然【相対音長知覚】と言うものも存在するはずである。音に限らず人間はどのくらいの時間触れられたかとか見ていたか等の音を伴わない感覚にも同様の反応ができる。現在一般的に使用されるシーケンサーの全音符に対する分解能は240であるが、その倍の480のものとの差は素人には分からない。
 例えばが絶対的な長さを持った音符ならテンポの概念は不要になる。体内時計の発する一定のクロックが持続時間やインターバルを計測しているというこのメカニズムはまだ十分な研究が行われていない分野でもある。日本の伝統芸能でよく使われる【間(ま)】とは正しくこの人間のクロックを利用した感覚であろう。クラシック音楽にはしばしばフェルマータが登場するが演奏中このフェルマータが出現すると普通は拍を数えることはしない。それでいて拍とは違う別のクロックがフェルマータの長さを決定しているのである。これなどは【相対音長知覚】と【絶対音長知覚】を使い分けている例であろう。
 リズム表現やリズム認知に必要なのは【相対音長知覚】である。複数の音符の長さを比較してそれぞれの音の音価を認知する能力である。この場合テンポ・クロックを自己生成することができる場合とできない場合があることが予想される。テンポ・クロックの自己生成とは一定の単位時間の中に自分の体内時計を合致させることによって成立する。この場合スキーマとなるのは自分の体内時計である。その調整能力もスキーマである。このスキーマは時間を伴う体験によって形成される。
 音が連続していくつか鳴ったとき、その数を知覚認知するのが音数知覚である。打楽器の奏者などはこの能力に非常に優れている。♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪と鳴るような場合、音楽家は前から順に1.2.3.4.5.6.〜という風に数えることはしない。♪♪♪♪、♪♪♪♪、♪♪♪♪、♪とか♪♪♪、♪♪♪、♪♪♪、♪♪♪、♪のようにいくつかの音を一まとまりとして知覚する。このグルーピングの能力もスキーマである。これは拍すなわちビートの感覚が無ければできないことである。一般に「リズム音痴」と言われる人の多くがこの能力に障害がある。拍の分割や結合、省略などによる不規則性に順応できないのである。
 このリズム感に関しては、日本の場合年配者ほど駄目である。若者の音楽は殆ど強烈なリズムの上に展開されているので否応なしにリズム感が身についてきたものと推察される。このビートを単位とするグルーピングの能力は今日極めて理想的に子供たちの身に付いているので問題は無い。これについては後で述べるが右脳の能力である。それに対して♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪を前から数えるのは左脳の能力である。

4.音の空間知覚及び構造認知

 音が空間のどこで鳴っているかを知覚するには2つの耳つまりバイノーラルが条件となるが、【内的聴覚】も必要となる。よく知られている事実に、オーボエの音が常に実際に鳴っている位置より遠くに聴こえるということもあるし、高い音は低い音より約7センチ高い位置で鳴っているように聴こえる、と言うようなこともある。ベルリオーズの幻想交響曲では舞台裏でトランペットが演奏されるし、パイプオルガンの第5鍵盤(エコー)は聴衆から一番遠い屋根裏に設置される。これらの装置や設定は人間が音を空間上のものとして捉えるからである。これを定位と言うが、視力障害者がエコーだけでまるで見えるように周囲の状況を把握する時に用いる能力である。【方向】と【距離】の要素を含む空間を【音場】つまりアコウスティックと呼ぶ。このアコウスティックな音は反射音を含む空間の様々な情報を含んでいる。【内的聴覚】はこのアコウスティックな音のイメージを仮想の空間に再現できる。ピアノを弾く人は高音部を右と感じるし、オーケストラの演奏をよく聴く人はヴァイオリンを左として聴く。どの楽器がどこで鳴っているかを知覚することは音の構造を知る上でも大切なことである。
 今日ステレオと言う言葉は日常語になってしまったが、モノラルの時代から「立体音楽」と言う言葉と同義語のステレオを経験した者とは異なり、現代の若者はステレオとかバイノーラルという言葉の本当の意味を知らない。スピーカーが左右に二つある意味も知らないしそのことに無神経ですらある。1974年には音の定位を動かすだけの音楽(レコード)も出現したほどであるから、音楽の重要な要素であるにも関わらずである。この定位についても前出のDiana Deutchは個人差があることを実験的に証明している。

5.Sのレヴェルのまとめ

 Sのレヴェルの教育には単なる知覚(聴覚)の問題と、認知にかかわるスキーマを必要とするものがあることを述べてきた。また、多くのパラドクスも存在することが次第に明らかになってきた。
 しかし、何よりも学習の成果によるものが多いことも事実である。  近年右脳と左脳の研究が盛んで、角田の理論によれば日本人と西洋人では同じ虫の声でも違う脳で聴いているなどの報告があったが、あまり科学的な検証を行った形跡はないし、確かめようもない。しかし、音の知覚と言う部分は明らかに左脳の働きであることがわかっている。数学では1から9までを左脳が数え、10以上の桁上がりは右脳が受け持っていることを解明しているし、言語学者は失語症の研究から文字とその発音は左脳、言葉の意味は右脳というように説明している。
 絶対音感は左脳で、相対音感は右脳である。絶対音長は左脳で、相対音長は右脳である。このように、聴覚(知覚)に関するものは左脳で、認知に関するものは右脳である。音をコンピュータのように処理するのが左脳であり、音楽として処理するのが右脳であるとも言える。
 しかし、正確な音程、音量などの基本的な音に関するコントロールは確かな左脳のスキーマが必要であり、おろそかにしてはならない。最近はどちらかと言えば右脳教育がはやりである。しかし、右脳といえども左脳の働きを利用しているわけであるから、両者のバランスが必要なのである。

 マーセルによれば音楽的成長は、@音楽的識別力、A音楽的洞察力、B音楽的意識、C音楽的自発力、D音楽的知識・技術に現れるとされる。
 @音楽的識別力は音の識別だけでなく、その音の音楽的位置づけも識別することで、当然左脳だけでなく右脳も必要になってくる。いま鳴っている音は主音なのか属音なのかと言うような判断もこの能力である。A音楽的洞察力は@と関連しながら予測や推論を行い、スキーマの総動員を必要とする認知能力である。何故フォルテなのかとかどんなテンポがふさわしいのかと言った判断を生み出す能力である。B音楽的意識はそれらの音を音楽や芸術として意識するコンピュータには存在しない能力である。脳では無く心の働きでもある。価値観や哲学を持つ心の働きであると同時に、美意識と言う崇高な人間の精神的所産の根源でもある。C音楽的自発力は創造性や美行動に関する働きで、脳では【前頭葉】の働きとして捉えられる。意欲や創造性はカオスの交通整理を行う前頭葉の活発な働きによって生ずる。D音楽的知識・技術は左脳や右脳の記憶に関する部分の問題と、小脳の司どる運動のスキルの問題としてとらえられ勝ちであるが、スキーマとしてすべての音楽的行動の資産となるべきものである。結局はこの能力が音楽的行動の最終出力となるからである。
 望ましい音楽的成長を考える時どんな能力を子ども達につけてやればよいのかとか、どんな体験をさせてやれば良いのかを考える時、このマーセルの5つの能力を単体で強化するのではなく、まして音の教育としてのみ施すのではなく、音楽の中で指導されるべきである。そこで、代表的なな音楽のメソードを以下に示し筆者のコメントを加えたい。

ダルクローズ(スイス)のリトミック
@鋭敏な耳A鋭敏な神経Bリズムの感覚C情動を表現する能力を高めることを目標としたリトミック(律動的調和)による音楽のリズムを身体全体の動きによって体得させようとする。その指導体系は【リズム運動】【ソルフェージュ】【即興演奏】の3領域からなる。客観的には運動している姿が目立つが、彼の言う【Audition int屍ieure】つまり「内的聴覚」の概念は極めて今日的な音楽認知の概念ではあるが、リズム至上主義には無理がある。

オルフ・シュールヴェルク(ドイツ)1950-1954
ダルクローズの影響を受けており、音楽を@言語AリズムB運動の現れと見る「基礎的音楽」(Elementare Musik)に特色がある。独自のオルフ楽器を教育用に開発し、2〜3音のわらべうたから5音音階に至る体系とそれに続く長調、短調の学習が用意されている。楽譜を重視しないメソードが特徴であるが、実際の音楽とのギャップが大きく閉鎖的なシステムとなってしまった。

コダーイ・システム(ハンガリー)
@ハンガリー民謡を中心にした5音音階の教材による系統的指導、A早期教育の重視、Bアカペラによる対位法的な合唱を低学年から導入、Cソルフェージュ教育の重視などの特徴を持ち、歌うことを大切にしたメソードである。楽譜に依存することなくハンド・サインやトニック・ソルファなどの視覚的方法やサイレント・シンギングなどにも特色がある。多くの合唱団などで行われたが調教的印象が強く、あまり日本では普及しなかった。

コンセプチュアル・アプローチ(アメリカ)1967 MENC
音楽教育を音楽芸術に対する子どもの感受力(sensitivity)を高める美的教育と位置づける。概念的指導と訳されるこの指導法は、音楽を体験した後子どもの心に成長する音楽的意味(Musical meaning)を概念化しようとする極めて認知学習に近いものである。一連の学習経験単位は「モジュール」と呼ばれ、これをスパイラルに積み重ねて展開する。このメソードは現在アメリカで流行中のMIE(Music In Education)のシステムにも受け継がれ、パッケージ化されている。  この指導法では音楽的概念を、リズム、メロディー、ハーモニー、形式、テンポ、音のエネルギー、音色の7分野に分類している。これらを統合する包括的音楽家らしさ(Comprehensive musicianship)を目標にしているが、ゲシュタルトとしての整合性に欠ける傾向が多く見られる。

サウンド・アンド・サイレンス(イギリス) 1970
創造性教育の一環として音楽教育を位置づける。英国でもご多分に漏れずあまり教科として重要視されていなかった音楽科を創造的教科と位置づけたジョン・ペインターとピーター・アストンらによる指導理念。ルチアーノ・ベリオの言う「現実の認識を可能にする1つの方法は、現代の音楽とかかわることである」を根底に据えた理念に立ち、@全人教育の一環として音楽教育を捉える A音楽科と他教科との間に境界線を引かない B発見と感動を学習の中心におく C音楽を単なる娯楽ではなく自己表現の媒体と捉える D現実の直接体験から学習を導き出す Eその直接経験を他教科と同様に創造的作業とする F即興演奏による実験的探求で創造性を養う G音楽の本当の基礎は音(Sound)と沈黙(Silence)の価値を判断する耳である、等を目標とする。  この理念に基づき1つの学習経験単位をプロジェクトと呼び、A.素材・技法の原理的概要の把握 B.教師によって決定される探求的作業課題 C.同じ素材や技法を用いた他の生徒の作品鑑賞 D.同じ素材や技法を用いた作曲家の作品鑑賞 の4つに分類されている。 これらのプロジェクトは現在36本用意されているが、必ずしも完全ではない。  これに最近B.Nettlらの提唱する民族音楽的(エスニックではない)傾向を加えたワールド・ミュージックの概念も一緒にする動きもあり、「表現科」のアイディアのバックグラウンドともなっている。

鈴木メソード
筆者のことではない。幼児教育におけるモンテッソーリのように、幼児期の音楽教育を特別なものとしないで大人と同じ素材を与えるいわゆる「才能教育」のメソードで、論語の早期教育と良く似たシステムである。才能は早期に発見し早期に訓練すれば育つという単純明快な理論。

ふしづくり一本道
岐阜県の古川小学校で開発された創作教育のメソードである。いわゆる系統性に重点を置き「単純」から「複雑」へと言うような一本道をさす。システムとしてはすばらしいが指導者の質と学校組織の系統的問題がネックとなり、特に教師の人事異動はシステムを根底から揺るがす。


S.M.L.の音楽科教育(V)

実技教育研究指導センター 音楽科教育分野
教授 鈴木 寛 1997年3月 実技教育研究 第11号より


●音から音楽へ


 既に述べたようにS(Sound)のレヴェルの教育は主として知覚に関する能力をどう高めるかということになるが、この知覚に「スキーマ」がどう関連するかについては既に述べたとおりである。しかし、「音」そのものはどのくらい「音楽」的なのかについては詳しく述べていなかったので、本章で述べる。
 お寺の鐘や獅子脅しの音は単音でもある種のメッセージを持っていると考えられる。しかもそのメッセージは音楽的なものであることが多い。この場合「情景」や「環境」を連想させるスキーマが関連しているものと考えられる。「ゴーン〜」というお寺の鐘は遠くで鳴っていることが必要である。その離れた位置から聴く者に到る距離の中には大自然が有り、民家や喧噪を離れた畑や山里を連想させる。そこには音楽では表現できにくい情緒や雰囲気が存在する。途中に妨げる物がない静けさや空間が「ゴーン〜」という音から連想される。これは、日本的な情緒かも知れないが、外国においてもミレーの晩鐘のような情景が連想される。
 単音はしばしば「合図」に用いられる。お寺の鐘も時を告げる合図である。しかし、同じ合図でも開演を告げるベルやブザーの音とは異なるものがある。まして目覚まし時計のベルに到っては決して心地よいものでは無い。このように「音」にも本質的に心地よいものとそうでないものがある。「楽音」と「騒音」という分類があるが、銅鑼やシンバルのような本来騒音に分類される音がオーケストラでは他の音では置き換えのきかない音として音楽的に用いられているし、固有のピッチを持たない打楽器類は殆どの場合騒音を発するが楽器として何物にも代え難い存在を主張する。「ポン」という鼓の一発がある持続した状況を打ち切り、次の状況への転換の合図として効果的に用いられているケースは能などではしばしば体験する。
 近年マリー・シェーファーらの提唱する「サウンドスケープ」の概念ではあらゆる森羅万象の発する音は既に音楽であるとする概念から成り立っている。確かに真夏の昼間に聴く風鈴の音はさわやかで音楽的でもある、ましてその時遠くから金魚売りの声が聞こえようものならできすぎた場面となる。しかし、台風の中で鳴り続ける風鈴はもはや不快感や不安感を伴う。現代音楽においては、あえて美しい音ばかりでなく不快な音や不安な心理を伴う音による表現が狙いのものもある。
 このように「快」か「不快」かは、「受容」「拒絶」と密接な関係があり、前編で示したのごとく、「情動」と密接な関係が存在する。マリー・シェーファーらの提唱する「サウンドスケープ」の概念ではあらかじめプラグラムされた音は何もない。全ては偶然にしかも自然に発せられる音に依存している。ジョン・ケージにいたっては「無音」に終始する沈黙すら音楽であるとする。
 ここに無音も含める「音」をすべて「音楽」と認めるか、プログラムされた「音の秩序」を「音楽」と呼ぶのかという20世紀末の大きな対立が存在する。
 音楽の機能つまり、人間にとって音楽とは何かという形而上的な命題をここで論ずるつもりは無い。しかし、子供たちの学習のアイテムとして「音楽」が存在する以上何を音楽とするかの意識は必要であろう。
 時代による音楽的価値の変遷は音楽史的にも人類文化史的にも把握することは可能である。中世ヨーロッパの音楽には上向導音(いわゆるシの音)が欠如したままであった。それでも当時の人たちはそれを不自然とは思わなかった。ペンタトニックのまま現在まで進化していない民族音楽もある。日本の演歌や歌謡曲のように旋法やペンタトニックから巧みに機能和声に適応した進化を遂げた国もある。いつの時代もどの民族も「伝承」と「進化」を同時並行に行ってきたわけであり、どれが正しくてどれが間違っているとか、どれが、美しくてどれがそうでないという類の短絡的な判断は禁物である。
 多くの音楽家はそれぞれ専門の分野をもち、その専門分野に誇りや価値を見いだす。そのことが前に述べた対立の一つの原因であろうが、それ以外に筆者の学生や当学の教官には例の「絶対音感」や「相対音感の欠如」に起因する「音」そのもののピッチや音色、音量などのメッセージを「音楽」であると考える人たちが早期音楽教育の結果増えていることも一因であると考察される。つまり「今何の音が鳴った」「次に何がどう鳴った」ということが面白いというレヴェルの人と、「今何の音が鳴った」「次に何がどう鳴るか」とか「前の音からどういう関係が生じた」という意識の変化が面白い人とでは同じ音楽を聴いたり弾いたりしても対象に対する意識は全然異なるのである。固有の音のイメージのみを即物的に捉えるのと、自分の意識の中で音楽として再構築するのでは大きな違いがあるということである。
 書の大家が毫いた1枚の書に、バラバラで意味の通らないただ視覚的に(デザインとして)面白い文字が書かれているとする。漢字や日本語の分からない外国人がそれを見て美しいとか面白いと言うことはあり得る事である。ただ、彼(女)等はデザインとしての書を評価しているのであり、その書かれた文字や文のメッセージをイメージしたり深めたりすることはできない。「喝」と一文字書かれただけでも書は無限のメッセージを見るものに送る。文字数が増えるほど読むものの自らのイマジネーションは減少し、代わって書いた人のメッセージが強くなる。平易に言えば押しつけがましくなる。このことは20世紀の音楽や文学が多弁になりすぎて聴衆の創造性を奪った結果、現代の散文的で非韻律的な音楽や文学を生んだとの意見の根拠である。
 五七五等の俳句や短歌の方が説明的な長文よりはるかに多くの情報や意味を持っていることは誰もが知るところである。ぎっしり音の詰まった20世紀までの音楽では伝えきれないものを目指して「音」だけによる表現が試みられたのが現代音楽の本来のスタンツであろう。そのためには「調性」や「機能和声」が邪魔になったわけである。
 結果として美しい和音や旋律から遠ざかり「変な音楽」として親しみにくい存在の音楽になってしまた訳であるが、美術の世界でもピカソの真似をしてただ己のデッサン力の無さの言い訳として抽象画を描く者が居るように、音楽性の欠如に起因する似非(えせ)現代音楽があたかも優れた作品や演奏のように評価される風潮が事態を混乱させているのである。その混乱の中で「新しい」ことは良いことであるとする現代の風潮が追い風となり「努力」をしない手抜きの音楽があたかも芸術のような捉え方で評価されているのも事実である。そのあたりの哲学がわからない人にとっては「音」が鳴れば音楽であるという立場に自分を置かざるを得ないのである。音楽を単なるサウンド・デザインであるとする立場がこれである。
 ここで重要なことは、ある形式や様式の音楽を支持するあまり他の種類の音楽に対して排他的になってはならないということである。現実に民族音楽を強調するあまりに伝統的な西洋音楽を「否定」するような教師や、無調や12音にこだわりすぎて調性や旋律、機能和声などを決して教えない教師などがそれである。もちろんその逆もあり、バロックやクラシック以外は決して教えないとか、日本の伝統音楽は決して教えない等の教師もある。
 コンサートという言葉は永らくクラシックの世界で用いられてきたが、今の若者の間では寧ろロックやポップスの演奏会を指すようになってきた。このように音楽の環境や内容は刻々と時代と共に変化しているのであり、それでこそ「芸術」の存在意義があるものと思われる。
 ここに人類の文化や文明に関する進化論が考えられる。チャールズ・ダーウインで有名な進化論では「個体発生は系統発生を繰り返す」という大きな原理がある。このことを音楽の進化に当てはめてみれば、「個人の音楽的発達(成長)は、音楽の歴史的変遷(発展)と相似である」と言えることになる。つまり、それが石器時代の大昔であれ、未来であれオギャーとこの世に生まれる赤ん坊はすべて音楽的にゼロの状態にリセットされて生まれてくる。その赤ん坊が人間として成長、発達を遂げる過程で音楽の歴史が辿ってきた道を繰り返すという仮説である。
 初期の音楽は特定の音律や音階を持たない原始的な音組織や構造から成り立っていたと推察される。やがてそれは、音階的な法則に基づく旋律や非整数的音価によるリズムを持つようになり、言語の進化に伴って歌詞を表現する「歌」や歌詞を伴わない「器楽」へと進化してゆくのである。集団生活を原則とする人間は共同作業の概念を音楽の世界にも持ち込んだ。その結果「協和音」や「秩序」が確立されてゆくのである。やがては音楽理論で説明される「和声学」や「対位法」等のルールや楽式やその他の理論を形成してきた。
 これら一連のシリーズが誕生から幼児期、少年期、青年期、成年期という成長の過程の中に組み込まれているという事実は検証を待つまでもない事実である。この一連のシリーズの延長線は無限に直線的に進化するものであろうか。もしそうであるなら25世紀の音楽は超音波も含めた音素材や直接脳波を生成するようなバーチャルなものになるのであろうか。このような素朴な疑問に音楽学者や文化学者は答えていない。有限の寿命を持つ人生においてゼロからの出発を原則とすれば学習の過程や内容にそれほど過激な膨張は期待できない。そこで筆者は図で示すような音楽の輪廻のようなサークルを仮説として提案する。
この図ではサークルの下に示す自然音つまり神の創られた環境を出発点とする。時計回りに人工的つまり芸術という方向に発達のシリーズは進行する(西洋的音楽の場合)やがてそこで確立完成した秩序は再構築という形で自然の方向に回帰し帰着する。そしてそこを新たな出発点として再びより大きな円を描きながら新たなシリーズが開始されるのではないかというのが概略である。


 これはあくまでも一つの仮説にすぎないが、乳幼児から成人にいたるまでの発達をある程度説明できる。この仮説の根拠は人間の音楽的発達(成長)を螺旋状のスパイラルなものとした場合を想定している。言語の発達や運動能力の発達などもこれと同様であると推察される。このスパイラル構造は一周する過程で自然音から人工音の秩序を経て分化し新たなる自然音の発見にいたるのである。そして再び新たなる秩序の発見に旅立つのである。
 こう考えれば、様々なカテゴリーの音楽の個人に対する位置づけが説明できるし、発達の姿を明らかにすることもできる。原始時代の音楽はこのサークルが小さかったのである。時代の進行に伴いこのサークルは大きくなり個々の人間の中ではキャパシティの関係もあり、かなりいびつな円となってきたのである。
 実際に音楽をこれに当てはめると次のようなサークルが考えられる。
 これは20世紀末現在の最大のサークルである。普通の個人はこの円の中に包含され、創造的な芸術家はこの円からはみ出たり一部を強調する。しかし共通する概念は客観から主観への方向に進むということであり、あるがままの自然や過去の文化的遺産の模倣から新たな価値による自己実現や自己発見を目指して主観的あるいは主体的文化としての芸術的変容を目標としていることである。忌むべき行為はマンネリズムであり、形骸化である。
作品や演奏が異なっていてもどの時代の芸術家も基本は「模倣」であるが、その「模倣」を自分の文化として再構築し、再編し、「創造」的な行為へと高めていったのである。自然の模倣が純化された形で回帰するこのサークルこそが音楽教育の混迷を解くカギになる。

M(Music)のレヴェルの教育

●右回り教育と左回り教育

 このサークルが右回りなのが西洋音楽の例であるが、日本の音楽では左回りのように見受けられる場合もあり、まだ検証の必要がある。しかし、左回りの場合主観から客観化への流れをとるわけで十分にあり得る。
 音楽教育では長年この右回りのコースをカリキュラムとして採用してきた。しかし、近年文部省の指導要領では日本の伝統的音楽の指導や、世界の民族音楽の学習を含め、武満らの現代作品を取り上げるように指導方針を示している。このことはこのサークル上のあらゆる音楽文化に触れるというバランスの点では一歩前進と評価される。しかし、それぞれの音楽を「点」として押さえても「線」や「面」として捉えるための指針や方策は無い。
 系統的つまり進化論的全体像の把握こそがあらゆる音楽文化を認め自己の文化とする基盤となる。然るに、最近「創造的音楽学習」なる言葉が提案され、ワールド・ミュージックなる概念による左回りの音楽教育が提唱されている。提唱者のジョン・ペインターが言わんとすることは、従来の右回りの音楽教育のように理論や法則を学ぶことから始まってその後で音楽の構造や内容を表現するやり方では、できない子どもは能力的に淘汰され、真に音楽教育の目標である創造的活動に到達できる子どもはごくわずかになってしまうと言うことである。
 そこでジョン・ペインターは、まず思いついたことを表現することを勧め、その行為の蓄積から音楽の構造や法則に気づかせることを提案しているわけである。この即興から始まる音楽表現があたかも現代音楽のように聴こえることから、ジョン・ペインターは現代音楽的手法を音楽の第1価値としているかの誤解が日本にはある。不幸なことに坪能由紀子がジョン・ペインターの著作の多くをかなりの主観を交えて翻訳したため、ジョン・ペインター=現代音楽という生理的拒絶も含めた右回り教育との対立を学校現場に深刻に与えている。また京都ゼミナールなる坪能を囲む研究グループでは当初から「現代音楽的手法から音楽教育を始める」という誤解に基づく有志が集まっていて、それぞれの出身地に先進的研究として少なからず影響を与えている。
 ジョン・ペインターは「音」を通して自己表現することの大切さを学ぶことが音楽教育の始点にあることを提唱しているわけで、伝統的西洋音楽的技法の押しつけに対する反省から「創造的音楽学習」を提案しているのである。従って彼は伝統的西洋音楽的技法を否定しているのでもなく排除をもくろんでいるものでもない。翻訳の拙さと訳者の主観の混入がこの混乱の元凶である。
 この左回り教育は誰も思いつかなかった斬新なアイデアであると筆者は評価するが、理想と現実のギャップは思いのほか大きい。現場の音楽教育は依然として指導要領に拘束され、その指導要領は右回りにカリキュラムを構成しているからである。ジョン・ペインターの住むイギリスでは、最近やっと義務教育のカリキュラムに「音楽科」が設定されたばかりで、社会教育制度のなかで根付いていた伝統的(アカデミックな)音楽教育の手法によらないすべての児童に対する公の教育を模索する中で誕生したいわばゼロからの出発だからこそ提案できたといういきさつを考慮しなければならない。
 ジョン・ペインターは「音」を通して自己表現することの大切さを学ぶことが音楽教育の始点にあることを提唱しているわけであるが、「音」を通して自己表現することの大切さは「終点」でもあることを知らなければならない。筆者の提唱するサークルは円の大きさに関わらず、最終目標として主体的表現を目指している。それに対してジョン・ペインターは最終目標として普遍的音楽スキーマの形成を目指している。
 あらゆる学習はスキーマから出発し、新たなスキーマを再生産、再構築するという原理に基づいており、その意味ではジョン・ペインターの説といえどもスキーマからの出発であり、新たなスキーマの再生産、再構築である。決して「無」からの出発でもなければ、過去の音楽との決別を意味していないことをペインターの熱烈なる信奉者たちは知るべきであろう。
 結論的にいえることは、右回りか左回りかというのは「円が完結する限りにおいて何ら大した違いは無い」ということになり、右回り教育を未完のまま行っている現場の注意を喚起する良い材料になったと評価する。音楽は「手段」であると同時に「目的」でもあるわけで、「プロセス」が大切であるのと同時に「結果」も大切であることを学ばせたい。

●音楽教育の「基礎」「基本」

 「基礎」とは「学ぶべき事柄」のことである。「基本」とは「人類文化における共通の普遍性」のことである。
音楽教育において「基礎」「基本」は永らく楽典やソルフェージュ、エチュードのことと誤解されてきた。もちろんそれらの中には「基礎」「基本」が多く含まれている。しかし、それ自体が音楽に不可欠なものでないことは音楽の歴史的変遷を辿ってみても自明のことであろう。

基礎1
 何故音楽を学ぶのかを知ること。音楽を学ぶのとそうでない自分を意識することが基礎の1である。およそ、主体性のない受け身の教育では学習者の意識を高めることはできない。本来の目的意識のない学習は単に試験のためとか成績のためという誤った目的意識を育ててしまう。これを学習すると自分に何ができるようになるのかを知らしむるべきである。よく「本時のめあて」という板書やフラッシュカードを授業のはじめに提示する授業があるが、これなどは学習の目的を喚起するするために用いられている。ただ、問題は「言語」による提示が有効か否かと言うことであろう。むしろ行動を通した新たな課題の習得による新たな能力の獲得や、新たな展望の展開からくる「達成感」や「満足感」こそが「〜してよかった」という次の課題への自立的挑戦への足がかりとなるであろう。
 リコーダーの指使いで「変ロ」の音を新しく習うとき、そのおかげで「ヘ長調」に移調できたり、「ヘ長調」の曲が演奏したり、読譜できたりするという「なるほど」とか「ああ、そうか」のような納得があれば、新たな派生音の学習への意欲なり意義が見出せるのである。同時にその経験やスキーマは移動ドの概念や移調・転調の概念、調号の学習などのベースとして働く。

基礎2
 音楽の意味を知るべきである。単に何の音が鳴った、次に何が鳴った、同時に何が鳴った、などの聞き方はコンピュータにもできる。それらの音が連続したり、重なり合うことで何を表現したいかを洞察できなければならないし、そのコンピュータには理解できない音楽的メッセージを感じとる能力が必要である。
 音楽は音による情報の一種である。当然その中にメッセージを包含する。音楽とそうでないものを区別できなければならないし、その音楽が何を訴えたいのかを知る能力が必要である。また、理屈抜きに音楽を聴いたり表現する態度や行動が望ましい。 

基礎3
 音楽のT.P.O.を心得るべきである。どんな時にどこで何のためにその音楽が必要かを洞察できなければならない。場違いでタイミングのずれた目的にかなわない音楽とそうでない音楽を区別できるセンスが必要である。音楽の無い生活でも平気という生き方は望ましくないし、逆にいつも垂れ流し状態の音楽中毒も困る。

基礎4
 しなやかで繊細な感受性が必要である。音楽は情動を喚起しなければならない。喜怒哀楽だけが情動ではない。単なる聴覚刺激ではなく、「心」に働きかけるものが音楽であると知るべきである。官能のための音楽は麻薬である。知的遊戯としての音楽は「脳細胞」のスポーツではあるが心の糧の一部を担うに過ぎない。

基礎5
 PlayとPerformの違いを知るべきである。Playの辞書的意味は4つあり、(遊ぶ)(演奏する)(演ずる)(する)である。I play Beethoven.の本来的意味は「私はベートーヴェンを演奏する」ではなく、「私はベートーヴェンしちゃう」つまりベートーヴェンを演ずることなのである。自分がベートーヴェンと向き合って、やがて同化する行為のことなのである。つまり、極めて主観的な行為である。
 それに対してPerformは、他者の前で演奏することであり、当然客観的評価を伴うのである。自分のためではなく、聞き手のために演奏することがPerformなのである。
 現場の音楽教育では、しばしばPerformすることが重視されるあまり、Playされることのない授業が続く。受け身の教育の欠点である。音楽的である前に人間的であることを学ばなければならない。

基礎6
 音楽に憧れなくてはならない。コンピュータは何にも憧れない。人間だけが「ロマン」を持つことができる。このロマンが音楽の源流である。「思う」「想う」「感じる」「願う」という「心」の働きこそが、今日生きている意味であり、「しあわせ」の追求につながる。ひいては、生き甲斐にもつながる。
 音楽を自分の文化(生き甲斐)としなければならない。また、音楽を自分の文化として他者に伝えなければならない。教育とは生き甲斐の伝承であり、教師に伝えるべき生き甲斐(文化)がなければ伝えようもない。ロマンこそが生きる勇気を与え、真善美を追求する根拠となるのである。

基礎7
 音楽を通して成長しようとしなければならない。音楽を日常化し、能力化すれば、そうでない生活より豊かで人間的な自分を発見する。技術を高めるための忍耐力や、しなやかな感性による優しさや、人の演奏を認めようとする協調性など、成長の原動力となる能力を音楽体験を通して身につけることができる。名誉や賞賛を得るためではなく、自己改革や自分の豊かさのために成長して欲しいものである。幸いにも受験教科からはずされた音楽科は心の成長を担う教科であって欲しい。そして、音楽活動や経験を通して心の成長に有効なスキーマを形成しなければならない。
 このように「基礎」とは「人間性」の問題である。それに対して「基本」は「音楽性」の問題である。

基本1
 音楽には「もっと聴きたい続けたい」というのと、「何も感じない」というのと、「二度と聴きたくない、続けたくない」の3種類しかないことを知るべきである。「何も感じない」とか「二度と聴きたくない」音楽のために時間を無駄にしてはならない。このことを鋭敏に感じとれる能力が必要である。

基本2
 「良い」と「好い」は「巧い」や「面白い」とは違う概念であることを知るべきである。好奇心を満たすだけの音楽は心の糧とは成りがたい。「良い」と「好い」は「しあわせ」と同義語である。「しあわせ」が感じられない音楽体験はむなしい。

基本3
 音楽の価値は変動することを知るべきである。ロックが好きだといっても朝の起き抜けから聴くにはややスタミナが不足する。ワグナーの音楽はテンションを高めたりするのには向いているが、心を静めるには向かない。このように、音楽には固有のカロリーなりエントロピーが存在するが、価値は演奏者や聞き手が変わると変動する。つまり、音楽そのものに固有の価値は存在せず、演奏者や聞き手がそれを決定する。「これは名曲ですよ」の類の価値の押しつけの授業は慎まねばならない。Aにとって楽しい音楽がBにとっても楽しいとは限らない。

基本4
 音楽を聴く権利と聴かない権利では聴かない権利が優先する。聴きたくない者に対しても音楽は容赦なく聞こえてくる。聴かない権利を行使するには、その場を立ち去るか耳に栓をするしかない。あたかもそれがサービスであるかの如き過剰なBGMの氾濫は繊細な音楽環境を破壊する。聴きたい者同士が音楽を聴くように心がけるべきである。音楽教室における練習では肩が触れ合うほどの距離で互いに違う音楽を練習しているわけであるから当然本来聴こえるはずのない音の洪水のなかで、「他の音を聴かないように」練習するわけで、本来の「他の音を聴きながら」という音楽の本質に反する。

基本5
 「模倣」こそが「創造」の入り口である。名のある芸術家が必ず口にする「創造とは模倣から始まる」と言う言葉をかみしめる必要がある。模倣とは「真似ぶ」つまり「まなぶ」の語源であるとする説がある。ブルーナーの学習理論でも模倣は重要な過程であるとされている。既存の何かを模倣することで、学習は始まるのである。従って、学習者である子どもの創造性を引き出す鍵はまず「模倣」にあり、客観化から主観化へと進められるべきであり、いきなり場当たり的な行動から創造性がひらめくことは無い。

基本6
 共通の音楽言語を理解しなければならない。自分だけにわかって他人にはわからない音楽は共通の文化とはなり得ない。首を横に振れば「ノー」の意味であることは「ブルガリア」以外の国では万国共通である。同様にフォルテは強調や昂揚を意味し、ピアニッシモは沈静や落ちつきを表すと言うような万国共通の表現様式を持つ必要がある。音楽のエントロピーは一定の方向に向いており、誰に対しても一定の情動の方向と一致するべきである。
 また、あらゆる音楽には共通するイデオムすなわち慣用句的なスキーマが存在する。この慣用句を模倣し身につけることが極めて重要である。

●調や音階の学習

 いかなる時代の音楽も主となる音(主音と言ったり核音と言ったりする)とそれ以外の音で構成されてきた。「調子を合わせる」という言葉があるように、複数の人間が同じ音楽を表現するとき「基準」となる音を定めたのである。弦楽器ではそれが開放弦であったり、管楽器ではそれが全閉穴であったりする。これらの基準音をもとにペンタトニックやヘクサトニック、旋法などの音階の構成音が形成されてきた。
 音階には「自然音階」「旋律的音階」「和声的音階」の3種の他、現在では「半音階的音階」「全音音階」「微分音階」などが使われるが、原始時代に動物の鳴き声の模倣や自然音の模倣をしていたころは特定の構成音は持たなかったと言われている。その後管楽器の自然倍音から完全5度、長3度などの協和音を含めた構成音が誕生し、東洋や一部の国では第7倍音から上の音を取り入れて2度、4度、短7度などの音も用いたことも知られている。
 いずれにせよ進化論的には「旋律的音階」あるいは「旋法」が最初に誕生したことは検証するまでもない。子どものわらべうたの発達に見られるように2音構成から5音構成まで旋法的に発達してきたことは明白である。この旋律的音階は必ずしも厳密な倍音との一致は見られず、むしろクオータートーンやそれ以下の音を取り入れて構成していることはインドのシタールの音階や三味線の「はずす」という概念からも推察できる。
 個体発生的進化はあいまいな音程変化を伴う旋法的手法から始まるが、音階スキーマが完成するにつれ主音(核音)のはっきりした旋律へと変わってゆく。ここで言えることは音階の構成音は何であれ、主音(核音)のスキーマがまず確立されなければならないということである。歌っている旋律のどの音が始まり(最後)の音なのか、どの音を中心に離れたり帰ったりしているのかを認知する「メタ認知」が必要になってくる。
 調や音階の学習ではまずこの主音(核音)の認知が必要である。それを「ド」と呼ぶのが現行の指導要領の原則である。「移動ド」の学問的根拠はまずここにあることを知らなければならない。この中心となる音の認知をあいまいにしたまま音楽学習を進めることは不可能ではない。しかし、やがてハ調以外の調に遭遇したり、転調や移調の概念が必要になったときに完全に混乱することは目に見えている。その場合、唯一の逃れ場は「無調」か「12音」しかない。現在の器楽演奏家の多くは極めて早期に音楽教育を受けている場合が多い。従って、絶対音感で「固定ド」を自分の音感とする者も通常の人よりも高い率で存在すると考えらえれる。年輩の作曲家や声楽家では寧ろその逆で、晩学の人も多く絶対音感とは無縁の「移動ド」の人の方が多い。この両者の間の音感には埋めがたい溝 が存在するようである。また、初等教育で音楽を教える教師の殆どが「ハ調読み」の教育しか受けておらず、それ以外の音感は持ち合わせていない。これらのそれぞれ異なったスキーマで音楽にあるいは音楽教育に携わる人たちの混在が現場の音楽教育の混乱を招いているのであろうか。ハ長調において主音を「ド」と呼ぶところまではこの3者は完全に同じであり問題はない。
 しかし、旋律のどの音が「ド」なのかを意識しているのは、「移動ド」の相対音感保持者のみであり、あとのグループはわからないか、考えればわかるという「感じていない」グループなのであろうか。「感じない」人に感じるようにさせるにはどうすればよいのだろう。ただ「主音」という音を理屈や概念でなく、感覚としてスキーマを形成しない限り不可能なのであろうか。
 ここに奇妙な現実がある。前奏なしで誰かが歌いだし、それにみんなが合わせて歌うという場面である。その中には絶対音感保持者もいるし、ハ調読みや、相対音感保持者もいる。にもかかわらず、全員が、「調子を合わせて」同じ音を主音とする旋律を歌うのである。つまり、全員が同じピッチを主音とし同じ主音を持つ音階を使った相対音感で歌うのである。言い換えれば、誰でも相対音感を持っているのである。
 このことは、基本的音感あるいは標準的音感または普遍的音感は相対音感であることを示している。これを受けて文部省が「移動ドを原則とする」としたところに短絡的なミスが生じたように思われる。主音をドと呼ぶ習慣は11世紀までの西洋や明治までの日本には無かった習慣である。にもかかわらずどの時代でも旋法や音階は存在していたし「主音」の概念はあったのである。この概念に名前を与えたのが「ド」であり「移動ド」なのである。従って、「ド」の命名以前に名前は無かったが「ド」は存在していたのである。
 異なる3種の音感者は「主音」の認知には差違がないと仮定すれば、ラヴェリングすなわち命名のしかたに差違があるということになる。絶対音感者は絶対音的にラヴェリングし、相対音感者は機能的にラヴェリングし、ハ調読みのものは便宜的にラヴェリングしたのに過ぎないのではないだろうか。
 問題は、ある旋律を聴きながら次の音を予想すると言うような場合、相対音感者が音階構成音の機能的スキーマを利用して予想ができるのに対して、機能的スキーマに頼らない人ではその予想が出来にくいと言うことである。つまり今聴こえる音に主音とか導音などのラヴェリングが無い場合、その音の機能は認知し難いと考えられ、結果的に機能的進行が把握し難いのではないかということである。
 「情動」の原理に、「期待値よりの逸脱」というのがある。つまり、予想しないことが起こると情動が喚起されるという原理であるが、音楽を聴くときに常に次を予想し期待するという行為が困難になることが考えられる。
その結果として情動が喚起されにくいのか、機能的スキーマに頼らない別のスキーマによる期待値があり、そこからの逸脱という別の情動があるのかは現時点では検証されていない。
 しかし、相対音感と移動ドに関しては歴史的にも、実践的にもその効用は明確であり、一歩ゆずって移動ドを使わないとしても調性や音階の学習にもっとも有効なのは相対音感であると断言できる。移動ドを使わないということは、固定ドもハ調読みも使わないと言うことである。代わりに数字譜やアイツ唱法を用いても結果は同じである。とにかく使わないのである。では、そのときにTの和音をドミソと言わずに何というのか考えてみる必要がある。 C−durのTをC、F−durのTをFと呼ぶような鍵盤和声的な表現では、あらゆる調のTをどのように理解し認知するのであろう。結局ギドーが考えたような階名が再び復活するのではなかろうか。
 移動ドで近代や現代あるいは民族的な音楽を階名唱するのはイレギュラーな音が多いのでかえって困難であるという意見もある。このイレギュラーな音は経過音であったり転調のための派生音であったり、もとの音階の構成音がその音を含んでいたり色々なケースがあろうが、900年前にギドーが考案したような知恵と英断があればファの♯をフィと呼ぶなど改善の方策はあるはずである。すでにDi,Ri,Ma,Fiというシャープ系、De,Re,Mo,Feなどフラット系の唱法は存在しているが「固定ド」のためにしか用いられていない。これを積極的に「移動ド」にも導入すべきであるというのが筆者の提案である。少なくともそれによりハ調読みは消滅する。
 現場では次のような段階で改善することができる。

第1段階(固定概念の破壊)
@視唱による階名唱の前に、聴唱による階名唱を移動ドで指導する。器楽の場合は音名唱を基本としC−dur以外では階名を用いない。すでにハ調読みのくせがついている子どもに対しては楽譜と実際の演奏の調が異なるように心がけ、極力聴唱による階名唱を使う。
Aコンピュータや移調機能のある楽器を使って移調しても旋律や和声が変わらないことを感覚的にわからせる。
例えば「ドレミのうた」を移調しても歌えることをわからせる。
B鍵盤上の任意の音から音階を探らせる。結果を五線譜に書かせてみる。

第2段階(新しい概念の導入)
@初めて聴く新曲を移動ドによる階名唱で歌わせる。この場合ド以外の間違いにはあまり拘らない方がよい。全曲を通してやらせる必要はないが、あまり細切れでは効果が薄れる。
A頭に浮かんだ音程や旋律をハ調(ハ短調)で楽器演奏させる。
B頭に浮かんだ音程や旋律をハ調(ハ短調)の楽譜にドを主音として記譜させる。

第3段階(新しい概念の定着と適応)
@既知の曲をハ調に移調して演奏させる。
Aハ調の曲を任意の調で演奏させる
B転調を含む曲を転調したところからドを読み変えて歌わせる。

これらの段階的指導は先を急いではいけない。第1段階が徹底してから次の第2段階に入るようにしないとかえって混乱を生ずるからである。

●機能和声の学習

 小学校の教科書では和音と言う言葉の前に「重なり合う音のひびき」という表現が用いられている。これは和音のひびきをさしているもので、TWXなど機能にまで言及していないし、終始感や休止感、緊張感などの機能には触れていない。すでに音階の機能をスキーマとして持っているならば、音階上のTWXと機能和声としてのTWXを重ね合わせて理解するのはさほど困難ではない。しかし、音階の機能をスキーマとして持っていないならば、つまり移動ドや相対音感のスキーマを持っていないならば、機能和声の概念は理解し難いであろう。単に「とけあうひびき」「にごったひびき」としか聴こえないであろう。どんな旋律にどんな和声がつくのかを試行錯誤で探らせる授業を観たことがあるが、一部の生徒にとっては宝くじのような世界であったのを記憶している。
「和音」の学習は「和声」の学習と同義的に考える必要がある。
 「和音」や「和声」を持たない日本の雅楽などの音楽には機能和声の概念が存在しない。代わりに非協和音による「音色的和声」が存在する。日本の音楽は合奏といえどもユニゾンが中心で、ユニゾンのひびきに飾りを付けるための笙のような複音楽器が存在する。箏曲では「核音」や「5度音」などによるオルガヌム的な和声化やアルペジオ風な「旋法的和声」が所見できるし、三味線や三曲合奏では「2上がり」「3下がり」などで「4度音」もオルガヌム的に用いられている。
 旋法やペンタトニックを和声化することはナンセンスであるという意見もあれば、片っ端からそれらを和声化しようとする者もいる。1970年の大阪万博の開会式で用いられた「君が代」は初めから終わりまでオーケストラによるユニゾン演奏であったことに気づいた人は少ない。何の違和感もなくユニゾンだけで演奏された「君が代」は受け入れられたのである。
 そのことは旋律自体が既に和声的な響きを持っているからであると考えられる。ディキシーランド・ジャズのあるスタイルではたった2本のトロンボーンとベースだけで複雑なコードやハーモニーを表現している。このように和声は完全な和音でなくとも、聴き手のイメージと旋律線に含まれる和声的イメージに助けられて成立するのである。勿論不適切な省略や組み合わせでは成立は困難である。
 機能和声を感じさせる音には「ベース音」「コード」「カウンターライン」「オブリガード」「経過音」「フィラー」などがあり、和声学的なモデルのまま楽曲に出現することはコラールなどをのぞけばまれなことである。
アンサンブル学習などでは小学校の低学年から和声感が必要となり、簡素化されたスタイルのハーモニーが用いられる。
 機能和声の学習には次のような段階が考えられる。

第1段階(旋律とベースによる和声)
@旋律が移動ドもしくは相対音感的に捉えられる。
A旋律の機能的変化を代表する拍や小節が捉えられる。
Bその機能的変化をTWXなどの感覚で感じとることができる。
CTWXをド、ファ、ソ、などのベース音(根音)に対応すことが出来る。
D旋律に合わせてド、ファ、ソ、などのベース音を演奏したり、歌うことができる。
Eハ調以外の調でもそれができる。

第2段階(コードの補足)
@TWXなどに対応する和音をすべて点検する。
A基本形の和音を付けてみる。
Bメロディーと同じ高さで重なる音を省略する。
Cベースと重なる音を省略する。
D残った音を転回して横のつながりを合理的(移動の距離を減らす)にする。
E伴奏型にフィットさせる。

第3段階(変化のつながりを補強する)
@ベースの変わり目に経過音を挿入してベースの動きを音楽的にする。
Aメロディーの方向と反行するような音をメロディーとベースに挟まれる音域で和音の構成音から選び、順次進行の動きに近い音をカウンター・ラインとする。この場合持続音に近い方が安定がよい。
B長く伸びて変化しない旋律やベース音がや空白があれば、次のハーモニーを導くきっかけとなるフィラーを工夫して挿入する。

第4段階(個性的にする)
@ドッペル・ドミナントをXやX7の前に使用することを考える。
AXの代用としてUやVが使える場所を工夫する。
B結果としてXTやXUがどこに必要かを考える。
CT→Wのつなぎとして増5度や減7度、属7度の和音を考慮する。
Dそれらの結果をカウンターラインやベースに反映する。
E倚音やテンション系のコードについても知っておれば使ってみる。
Fコード・ネームで書き表したり、読んだりする。

 作曲家や音楽理論の専門家には異論があろうが、これは理想の流れであり100%は期待してはいけない。特に第3段階以降はかなりの経験とアドヴァイスがないと難しい。既存の典型的なモデルを示して模倣させることが近道である。
 いわゆる主要3和音によるハーモニーは小学校低学年では徹底的にイデオム化する必要があり、いたずらに面白いからと言って主要3和音によるハーモニーを学習する前に副3和音や借用和音に変えた伴奏を与えすぎてはいけない。沖玲子(兵庫教育大学昭和62年度卒業論文「小学生の和声感覚についての考察」)によれば主要3和音の学習が成立してからその他の和音に発展することが実験的に証明されている。
 また、和声進行は旋律のフレーズと密接な関係がありフレーズに関するスキーマの有無が大変重要な鍵を握っていることも述べている。減7の和音を除く副3和音は「長調」「短調」の識別に混乱を招くことも報告されており、安易には使用できない。しかし、楽器経験者の多くが借用や副3和音を加えて演奏を好む傾向があり、スキーマの有無がこれらのハーモニーに対する感覚と密接な関係があることも指摘されている。
 借用和音や副3和音はTDSだけの小学校低学年の伴奏に多く見られ、音楽的に優れた教師にとってはそれが耐えられない単調さを感じさせる。その結果、つい子どもも退屈しているのではないかとか、学校音楽はこれだから好まれないのだなどと短絡的に思ってしまう現実がある。しかし、TDSの持つ極めて基本的で本質的な音楽的慣用句を徹底して低学年の間に指導し、定着させる必要がある。TDS以外の和音はあくまでも代用や借用と言う概念であり、音楽的ボキャブラリーの増加の一端として考慮しなければならない。こんな和声も使えますよと言う特殊ケースとしての扱いは別として、あたかもTDSが陳腐で面白くないと言わんばかりの指導は厳に戒めるべきである。
 旋律伴奏としての和声は補助的役割が強く、和声的器楽曲においては各パート間の互助的役割が重要であり、ポリフォニックな多声処理も必要となることから第3段階以降はそれを念頭に置いて指導にあたることが望ましい。
 また、ハーモニーの創作は「編曲」や「作曲」という学習と極めて密接な関係があり、音楽大学における「和声学」や「対位法」の授業のようにならないよう、総合的内容の一部として取り扱われるよう注意深い配慮が必要である。
 短調の指導は現在平行調として導入されている。その最たる理由は調号がハ長調と同じであるということらしい。 しかも主音を「ラ」と教える手の込みようである。現実に自然短音階は出現することは希で、旋律的あるいは和声的短音階が出現頻度が高い。必然的に第7音のシャープが旋律にも和声にも出現する。この音の説明は平行調ではなかなか難しい。既に述べたように短調の指導は同主調の方が合理的である。すなわちC−durとC−mollの関係で言えばそれぞれの音階の第3音と第6音のみが半音違うだけでC−mollでは半音低い。
TとWはC−durとC−mollで第3音と第6音が半音下がるが、Xは全く同じである。「ミ」と「ラ」を半音下げなさいという指示だけで同主調の学習は完了するのである。つまりTは「ド・ミ・ソ」と「ド・ミ♭・ソ」でWは「ド・ファ・ラ」と「ド・ファ・ラ♭」、Xは共通で「シ・レ・ソ」というスキーマを形成させるのである。
 このメソードの利点は、長調の曲を瞬時に短調に転調させることができ(あるいはその逆)、それに伴う和声も何の苦労もなく変更ができることである。しかも主音はただ一つ「ド」だけであると言うことである。このように和声感覚と調感覚は一致させなければ意味がない。しかもこの「ミ」と「ラ」を半音下げるという原理は「移動ド」でしか通用しない表現であることも重要で、改めて「移動ド」の教育の必要性を感じるのである。
 和声の学習は基本的には「機能和声」であり、「鍵盤和声」や「応用和声」等は「機能和声」の基本的スキーマを形成してから学習すべきである。
 また、「移動ド」の概念はハ長調のみに留まっていては形成されないことも改めて強調したい。
 本論ではMつまり音楽のレヴェルの教育を今後述べるに当たって根本的な問題について触れてきた。東川清一がその多くの著書の中で熱心に力説してきた「移動ド教育の重要性」を最近では他の著者の著書の中にも多く見られるようになり、ピアノなどの早期教育の流行に対して重大な警鐘と受け取って行きたい。
 最近ヨーロッパの著名な音楽教育の専門家と話し合う機会があり、その中でもドイツの音楽教育がコダーイやオルフからアングロサクソン系のメソードにかわりつつあることを聴くに及んで世界的に音楽教育が見直され始めたことを実感するものである。


S.M.L.の音楽科教育(W)

実技教育研究指導センター(音楽教育分野) 教授 鈴木 寛  1998年3月 
実技教育研究 第12号より


●旋律の学習


1、旋律の原理


 音楽を代表するものは@旋律A和声Bリズムであるとされる。とりわけA和声やBリズムはかなり変更してもまだ何の曲かわかるが、旋律だけはあまり変更すると何の曲かわからなくなってしまうので、やはり音楽を代表するものはまず、「旋律」つまり「ふし」である。どんな曲と聞かれたら即座にその曲の「主旋律」を歌うなり、楽譜を示すなりするのが普通である。この旋律の定義は「標準音楽辞p.632-634 音楽の友社」の辻井英世氏によれば次のようである。

”音高を異にする楽音が次々に連接・連続して音高線の形態をとりながら、位置エネルギーに対比して考えられる力学的な変化の様相と、それぞれの楽音が持ちうる時価” それと時としてはさまれる休止の時価によって生み出される多様なリズムとの、二つの要素が不分不離に、しかも有機的に結合して、まとまったある音楽的表現をもたらす単音の流れをいう。”
とある。

 つまり、旋律は単音の流れではあるが、より力学的でダイナミックで、リズムと不分不離の関係があると言うことになる。
 通常旋律が提示されると、聞き手はそれを「たどる」「なぞる」等のTracing,Trackingという行為を通してそれを認知しようとする。歌詞を伴う有詞旋律と歌詞を伴わない無詞旋律ではそのなぞり方はかなり違う。
 有詞旋律では記憶の補助として「歌詞」が重要な役割をはたし、無詞旋律では「ソルフェージュ」の能力が記憶の補助となる。音楽的素養が無くても有詞旋律であれば素人でもかなり難しい旋律を歌えることから、初期の旋律は有詞旋律で、なおかつモノホニーであったであろうことは推測に難くない。
 通常、単旋律と呼ばれるものが音楽の歴史をたどってみても最も初歩的なレベルである。この単旋律と呼ばれるものは@ピッチの変化にAリズムを加えたもので、B主音や核音を中心とする音階または旋法と呼ばれる音列の構成音から成り立つ。歴史的にみた場合旋法の方が音階より古い。ペンタトニックやテトラコードなどの音列は現在の12音による音階よりシンプルである反面、微分音程などの微妙な音程も含んでいるため変化に富んでいるともいえる。
 完全5度や完全4度の固定された協和音程は万国共通であるが、2度や3度については実に様々なバリエーションがある。読経の時によく耳にする自然発生的な完全5度や完全4度は最も原始的な和声感である。スコットランドのバグパイプ等に見られる完全5度の持続音は、古い時代の音楽の調性感の原型である。これらの5度音が属音として主音とセットになったのが調性の始まりである。いいかえればこれら完全5度や完全4度に支配されてきたのが西洋音楽である。我が国の三味線音楽にも見られる完全4度(弐上がり)や完全5度(参下がり)の調弦も同じである。
 つまり、旋律というのはデタラメにピッチを並べたものではなく、帰属すべき音から離れたり、近づいたりして動くという運動の原理がある。この帰属すべき音のことを「主音」と呼んだり「核音」と呼んだりするのであるが、終始感を出すためには「予告音」のような「主音」や「核音」に近接した音を用いる。その近接の度合いは殆どの場合「半音」であり、西洋音階では「導音」と呼ぶ。
 全音ばかりではいくら組み合わせても完全四度や完全五度は作れないので、一つのテトラコードやトリコードには自ずと半音が含まれているのである。

2、旋律の認知


 現代音楽においては音楽の構成要素に「旋律」つまりメロディーは不可欠ではない。また、ポリフォニックな曲においてはどれが主旋律であるか言えないケースも多々ある。
 料理においてもどれがメイン・ディッシュなのか分からなくて、寧ろ自分の好きなものに対してのみ反応してしまうこともある。
 しかし、一般に「あの曲」とか「あのふし」と言うような場合、明らかに「旋律」を指すし旋律はしばしば音楽を代表する要素でもある。旋律を認知できるコンピュータはまだ存在しない。というより旋律認知のアルゴリズムが確立されていないとも言える。既に和音を認知したり、ハーモニーを生成したりリズムパターンに従った和音伴奏が可能なコンピュータ・ソフトが安く市販されているにもかかわらずである。
 心理的には旋律はその曲の個性を決定するもので、旋律を認知したときにその曲がわかる(例えば題名など)ことも多い。旋律というのはデタラメにピッチを並べたものではなく、帰属すべき音から離れたり、近づいたりして動くという運動の原理がある。
 従って旋律認知の絶対条件として、「帰属すべき音」すなわち「主音」や「核音」の認知が行われる必要がある。
ところが、現代音楽にはしばしば、調や調性が無い。その「帰属感」は心理的には「安定感」であり、安定のための跳躍感や移動感などの「運動感」がそれを強調する。従って、何がどう動いているのかを正しく意識しない限り旋律認知は難しい。
 野生の動物は別として犬などの家畜は自らが狩りをしなくなってから視力が衰え、5メートル前のものすら見えないという。その犬が見えない目で見ている物は「動くもの」だそうである。動かない物は景色に同化してしまって見えないが、動く物は見えることを「運動視」というそうである。
 音楽においても動かない(或いは動きの少ない)背景つまり伴奏の前で動く旋律はまさしくこの「運動視」と同じ原理で聴こえるのである。命名するなら「運動聴」とでもしておこう。
 高速道路を運転中のドライバーの視野には近い物ほど早いスピードで通り過ぎ、はるか遠くは殆ど動かないように見える。従って高速道路を運転中のドライバーの場合は「運動視」ではなく「静止視」或いは「遠景視」を利用している。だからといって近くの景色や事物を見ていないのではなく、数秒後に自分の通過するポイントの事物はすべて見ている。つまり自分が描くであろう軌跡を予想し、その軌跡に従って運転をしているのである。
 音楽を聴く者はこれとよく似ている。至近距離を猛烈なスピードで通過するのは常に旋律である。いわば近景である。これに注意をとられ過ぎると中景や遠景にあたる伴奏やハーモニーを聴きもらしてしまう可能性がある。ハーモニーやリズム伴奏を聴いて旋律の通過するであろう軌跡を予想したどることができれば音楽の中の旋律を認知したことになろう。裸の単旋律の認知ならコンピュータにも可能だが、音楽の中の旋律は背景の中の近景であり、静止画の中の動画でもある。
 動きの少ない和音伴奏や同じリズムパターンの繰り返しも、カーテンの模様みたいなもので、静止しているのに近い。同型反復の伴奏パターンもそうである。規則的な動きをするものは動いていないのと同じ扱いをうける。その意味では16ビートのロックやダンス・ミュージックなどは旋律以外は静止しているのに等しい。しかも旋律の運動もワンパターン化してしまえばもはや残されているのは視覚的要素であるアクションとか衣装とか照明の他は「歌詞」による動きしかない。
 動くものが聴こえるのなら、旋律を目立たせるのに必ずしも大きな音量は必要ではない。周りが動かないときほど小さな動きでも目立ってしまう。
 このように「運動聴」としての旋律認知ともう一つコンピュータに苦手な「意味聴」つまり意味のあるまとまりとして聴こうとする能力がある。つまり、運動や動きの軌跡がどんな意味を持つのかを知らなければならないということである。
 ある音からある音へあるタイミングで運動するときその音の動きには意味が発生するからである。その意味を考え理解し認知することが感動や情動喚起のためには必要である。
 しかし、この「意味聴」は「意味のあるものを聴く」のが普通で「聴いてから意味がわかる」というような場合は含めないものとする。つまりスキーマとして持っている能力を駆使して聴くと言うことである。
 旋律の意味とは@表音的な場合とA表意的な場合がある。前者はかっこうの鳴き真似をしたフレーズや描写的な旋律(メシアンにおける鳥の声の描写など)が該当する。きわめて具体的で認知しやすいので小学校低学年の鑑賞曲はこのような旋律を多く含む。
 後者は導音や主音の関係など通じて抽象的な心理操作(情動喚起)をしようとするものである。終止音ひとつとってもそれが半終止なのか、仮終止なのか、偽終止なのか、などを音の意味として捉えることができなければその音の機能を認知したことにはならないからである。
 その音の機能が認知できるということは例えばバリエーションのような旋律線の加工や修飾、変形が行われてもまだその曲の旋律線がイメージされていることであり、演奏家が自分の解釈で演奏するというようなオリジナルからの発展などの能力の裏付けにもなる。
 旋律の何が変更されたらどう聴こえるのかということは旋律認知の研究に役立ちそうである。
 古来日本でも箏曲「六段の調べ」などのような段ものと呼ばれる変奏曲があり、西洋においてもパッサカリアのような変奏曲の前身もあった。 どのくらい元の旋律を変えたらわからなくなるかは曲によって異なるだろうが、バリエーション(変奏曲)では一定の原則が存在するようである。
@拍子の変更
   四拍子の曲を三拍子にするとか、二拍子を八分の6拍子に変えるなどである。
A調の変更
   原則的にはどの変奏曲も同じ調号で統一される。まれに同主調の場合に調号が変わる。
B装飾音の追加
   オリジナル旋律の音符は単純であることが多い。そこでその単純な音符間を装飾的な音群で補填することにより音密度を高める。和声構造そのものに変更を加えることはまず無い。
Cリズムの変更
   付点音符や連符、あるいは休符を用いて旋律の律動感を変える。
Dテンポの変更
   これだけが単独で行われることは無い。他の要素との関係でこれが行われる。
E構成音の追加や変更
   ジャズのアドリブやフェイクにおいてはオリジナルのコード進行以外は殆ど変更されることもしばしばである。旋律線だけからオリジナル曲を言い当てるは難しい。
@〜DまではよくあるパターンであるがEは聞き手の側がしっかりとオリジナルのイメージを保持しておかないとわからなくなってしまう恐れがある。

譜例1

パッヘルベルのカノンのように通奏低音に延々と同じ旋律が繰り返されるような例はジャズでも「茶色の小瓶」がその典型であろう。時には循環コードと呼ばれる低音パターンの繰り返しが全体を統一し逸脱を制御する。

 Eにおけるオリジナルのイメージとは何であろう。考えられるのは「和声」と「リズム」であるが、ただ和声が同じと言うだけなら譜例1のようにまるで違う曲になってしまうことも考えられる。
従って和声が同じと言うだけでは変奏とは言いがたいことがわかる。絶対に必要なのはその旋律固有の特徴的なフレーズである。これを失えばオリジナルの個性は消失する。

 次の譜例2を見てほしい。上段は救世軍でお馴染みの賛美歌「主我を愛す」で、下は「シャボン玉」である。

譜例2


 7小節目と8小節目はまったく同じであることに注目して欲しい。筆者はミッション系の幼稚園で上段の曲を習ったのだが、9小節目から「風、風吹くな シャボン玉飛ばそ」と歌って叱られたことを記憶している。リズムもそっくりなこの曲を間違えるのはむしろ自然であったような気がする。「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」ここから「風、風吹くな シャボン玉飛ばそ」へ跳ぶのは歌詞の意味がわからないからできるのである。第一、メロディーの力学的流れから見てもオクターブの急上昇の方が自然な気がしたものである。従って「主我を愛す」の9小節目以降は記憶から欠落したまま今日に至っている。  この場合、旋律の特徴は極めて類似しており8小節目までは和声も同じである。 この程度の構成音の違いは同じ曲であるかのごとき錯覚を起こさせる。 
 次に示す二つの類型はどんなことが紛らわしいのかを考える手だてになろう。譜例3は新年の歌と夕焼けの例である。

譜例3


としのはじめのためしとて
おわりなきよのめでたさを
まつたてかけて (ここから脱線してしまう)
みなかえろ
からすといっしょにかえりましょう

1段目の終止音は上ではTの和音、下ではXとなっておりリズムにもそれほどの酷似性は見られないが、3段目の「松たてかけて」と「おててつないで」の部分の旋律誘導線が極めて似ているために脱線が起こると考えられる。次の音のきっかけとなる音列が殆ど相似の場合にこのような脱線が起こりやすい。

 譜例4の早春賦とローレライのケースでは、交差点を過ぎると調が変わるのですぐ気がつくのであるが、筆者が、ある女声合唱団に対して途中でローレライになるように誘導した伴奏で歌ってもらったが見事全員ひっかかって目を白黒させていたものである。このように類似または酷似していることが逸脱の原因であるが、この類似性は必ずしも旋律線だけに存在するわけではない。旧い話では「ハートブレーク・ホテル」という曲の「恋に破れた/ 若者たちは/・・・」を受けたその後が「お猿の駕篭屋でホイサッサ」に変わる漫才ネタなども同様のパターンであるし、いわゆる「冗談音楽」にもこの手法を用いたものが多い。


譜例4

早春賦とローレライ

 次の譜例5では和声も原曲と全く同じではないし、リズム的な特徴も完全に消失している。旋律線の中に原曲の特徴的部分がかなり隠れているが、全然違う様式の音楽でマスキングされていてすぐには原曲に気がつかないかも知れない。それでも原曲のイメージははっきりとしているのである。

譜例5

譜例6

原曲=「オ・ブラディ オ・ブラダ」(ビートルズ)

 どことどこが類似であるかは説明するまでもない。このアレンジはフランソワ・グロリューのCDからコピーしたもので、「モーツアルト風」の「オ・ブラディ・オ・ブラダ」である。随所にモーツアルト風のフレーズがあり、左手の伴奏パターンもいかにも端正なモーツアルト風である。この場合類似性や近似性あるいは相似性を見つけるのは難しい。伴奏のリズムも違うし全く同一の旋律もない。しかし、明らかに「オ・ブラディ・オ・ブラダ」(譜例6)のイメージが感じられる。
 その秘密を解く鍵は、モーツアルトの楽曲のいわゆる「モーツアルト節」のスキーマのあるなしに関係する。単純な順次進行の場合モーツアルトならどのようにその動きを複雑にするか等のイデオムを知っておれば、飾りを取り去って残る音が極めてオリジナルに近いことに気がつく。

譜例7

 譜例7では同じ「オ・ブラディ オ・ブラダ」を演歌のイデオムで表現したものである。日本人なら誰でも持っているスキーマであるが、これとてもオリジナルに忠実なのだが演歌に聞こえる。つまり「演歌調」のスキーマを使って原曲のイメージを再構築できるのである。
 この場合原曲は長調であるが、演歌らしさを出すためによな抜き短調にしてある。さらに全体を統一するリズムは7〜8小節目の典型が終始支配する。随所に見られる細かい三連符は「小節(こぶし)」の感じであり、これらの要素を原型に戻せばはっきりとした「オ・ブラディ・オ・ブラダ」が取り出せる。
 原曲のイメージさえ出来れば後は何処と何処が類似しているかは簡単にわかる。ジャズのアドリブ(フェイク)はそれぞれの演奏者が考案したルールに従って曲を変奏するが、未熟なプレーヤーの場合同じ音列に同じパターンを適用してしまうため異なる曲が同じように聞こえることが多い。

 このように変奏された楽曲の変奏の要素がスキーマにあればその「変装」を見破って元の姿を知ることが出来るのである。少々過度な変形があっても@音階の類似性、A構造の類似性、Bハーモニーの類似性、Cモチーフ(動機)の類似性、Dリズムの類似性などがあればオリジナルのイメージは保持できる。
 人間の短期記憶の量とも関係があるが、複数の音をグループ化するようなメタ認知があれば、原曲のイメージは保たれる。通常短期記憶の一回当たりの記憶量は7〜8個であるとされるが、それを裏付ける面白いことがある。

 本学は初等教員養成を目的とした大学なので入学志願者全員に実技検査が義務づけられているが、音楽では色々ある中でソルフェージュ能力をみるために、4〜8小節程度の曲を使って「聴く」→「憶える」→「歌う」という一連の行動ができるかをチェックする検査が行われている。


「こいのぼり」という小学校の歌唱教材を使用した時のことである。冒頭の4小節しかも完全終止していないという条件の中で、8割程度の受験生が完全に歌えなかったのである。
という小節の記憶にという紛らわしい後半が重なって「?」となったようである。(下は錯誤の例)

 興味深いのは、最初ののフレーズに関しては殆ど全部の受験生が歌うことができたことである。次の小節の1〜2個の音までは殆ど全員が記憶していることは極めて明白であった。このことは短期記憶の量である7〜8個と言う説を裏付ける。
 曲の長さは予め知らされておらず、出題者が弾き終わると直ちに反応しなければならないという条件の中で、後半に神経を集中した結果、前半が怪しくなったり、終わる感じにならないのは自分の聴き間違いであると考えて終止音に向けて動いたため迷子になった者や、付点音符の印象がきつすぎてそうでない音符の記憶が怪しくなった者まで実に様々なパターンがあった。

 このような旋律記憶には@順次記憶A差分記憶Bパターン記憶C言語記憶D運動性記憶などが考えられる。

 @順次記憶はシーケンスとして時間軸に沿って変化する音を記憶する。

 A差分記憶は共通部分を特定したのちわずかにでも違う部分だけを抽出して差分として記憶し、再現するときにもとの形にする。

 Bパターン記憶は旋律をいくつかのパターンに分けて記憶する方法で、リズムパターンや音程パターン、和声パターン等が考えられる。

 C言語記憶は歌として歌詞をつけて憶える方法である。意味のある歌詞の場合かなり長い旋律も記憶可能になる。カラオケの旋律は殆どこの方法で記憶される。

 D運動性記憶は身体活動や指の運動と連動して記憶する方法である。

 このような分類による旋律記憶では記憶できる量や保存性には大きな差異が見られるのが普通である。次に当研究室の学生と実施した実験結果(音楽性を高めるための効果的指導法ー読譜を前提としない指導のあり方の考察ー和田依子 1986)を示す。



楽譜(視覚的)を使用した場合と純粋に耳から聴いた場合で旋律認知(再認)に差異があるか。というテーマであるが、
@単旋律を4曲(同じ調と同じ拍子)と
A複旋律(共通の対旋律)を聴きながら与えられた単旋律を4曲歌う。

課題1(単旋律)



課題2(複旋律)



実験1:本学学部学生44名を無作為に選び実験群Aと実験群Bの22名ずつに分け、実験群Aには楽譜を与えないで、自動ピアノの演奏を聴いてミスがなくなるまで何回かかったかをカウントする。表現は音声を用いるものとする。
実験群Bには視覚情報として楽譜を与えた状態で、自動ピアノの演奏を聴いてミスがなくなるまで何回かかったかをカウントする。表現は音声を用いるものとする。

実験2:記憶の忘却曲線に基づいてほぼ記憶が最小値を示す1週間後に実験群Aと実験群Bに対して楽譜無しの条件で再現するまでの練習回数をカウントするものとする。
仮説:最初に楽譜のような視覚情報を伴う場合と、純粋に聴覚のみの場合で旋律記憶の強さに差が出るのではないか。
 詳しく述べるスペースは無いが、まず通常の検査として部屋や時間帯、順番等に差がでないように統制された実験環境の中で外からの影響を遮断して、しかも、刺激音は何回弾いても同じ演奏を繰り返す自動ピアノを用いたが、鍵盤には蓋をして、鍵盤の動きを見えないように配慮した。1週間というインターバルはおよそ3日で重要でない記憶(弱い記憶)の殆どが失われるという忘却曲線のカーブに従い10パーセント以下になる7日後(生活パターンが同じになる曜日)を第2回目の検査日とした。対象の学生は特に音楽を専門として専攻していないか、際立った音楽的能力を有さない普通の学生で男女は3:7で女子が多い。


 上の表は左から@単旋律楽譜無し、A単旋律楽譜有り、B複旋律楽譜無し、C複旋律楽譜有りの順にそれぞれ1回目と2回目の課題到達までに要したトライの数をA群では1〜22番、B群では23〜44番の個々の学生別に4曲の課題を完成させるまでの回数として書いてある。
 それぞれの条件の中で1回目と2回目の平均に有意な差があれば学習の仕方を変えれば学習の仕方で成績が変わるということが言える。

(それぞれの検定値をクリックすれば検定表が現れる)


単旋律楽譜無しの1回目と2回目をt検定で比較した結果はNSであった。

単旋律楽譜有りの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.05 **であった。

 A群の1回目と二回目の平均点の差には有意な差が存在せず、同じ方法を用いたA群には有意な差が存在しないことがわかる。。B群(楽譜有り)で0.021<P<0.043 で有意差が顕著であった。このことから最初に楽譜を与えられた場合とそうでない場合の得点差が大きいことを示している。
複旋律楽譜無しの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.001 ****であった。

複旋律楽譜有りの1回目と2回目をt検定で比較した結果はNSであった。


 ところが、対旋律を聴きながらとなるとA群は0.0001<P<0.0002と極めて高い有意差が検出され、逆にB群では有意差が無くなってしまった。
 これは、4曲ずつ用意した曲のばらつきから来るものと推察されたので、曲ごとの検定を行うことにした。


単旋律楽譜無しA曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.05 **であった。

単旋律楽譜有りA曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.01 ***であった。


 単旋律A曲に関する限りA群は0.0117<P<0.023と3%水準での有意差が見られたが、B群では0.0024<P<0.0049と1%水準の有意差が認められた。つまり単旋律A曲では単旋律全体の平均比較と同じ結果であった。


単旋律楽譜無しB曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はNSであった。

単旋律楽譜有りB曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.01 ***であった。


 単旋律B曲ではA群は0.268<P<0.537となり有意差が見られない。B群では0.0032<P<0.0065と1%水準の有意差が認められた。これも単旋律A曲では単旋律全体の平均比較と同じ結果であった。 
 このような作業を繰り返して結局単旋律の学習には楽譜が介在すると聴覚的記憶がなおざりになることがわかる。特に1回目2回目共に楽譜無しのA群の方が少ないポイント(ミスが少ない)の平均点を維持しており、それに比べてB群は1回目は楽譜があるが2回目は楽譜無しのグループと同じ条件になると成績が悪い。
 しかもB群の1回目の学習はA群よりはるかに成績が悪い。
しかし、2回目では急速に向上している。それでもA群を上回ることはない。このことから、単旋律の学習において楽譜の効果は再現時に有効であるが、練習時には効率を下げると言えるのではないかと考察される。


単旋律楽譜無しC曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はNSであった。

単旋律楽譜有りC曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.01 ***であった。


単旋律楽譜無しD曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.001 ****であった。

単旋律楽譜有りD曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.1 *であった。

 複旋律楽譜無しの場合、4曲中A、B、D曲に顕著な有意差が1回目と2回目で見られるが、曲の難易度が高いほど有意差が少なくなっている。これは聴覚だけでは複数声部を聴くことが困難なのではなく、複雑なほど1回目と2回目の差が少ない、即ち楽譜と言う条件が意味をなしていないことを示している。


複旋律楽譜無しA曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.01 ***であった。

複旋律楽譜有りA曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.001 ****であった。


複旋律楽譜無しB曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.01 ***であった。

複旋律楽譜有りB曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.001 ****であった。


複旋律楽譜無しC曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はNSであった。

複旋律楽譜有りC曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.01 ***であった。


複旋律楽譜無しD曲の1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.05 **であった。

複旋律楽譜有りD曲のの1回目と2回目をt検定で比較した結果はP<0.05 **であった。


 別の分析(分散分析)で問題間の難易に有意な差が無いことがわかっているので問題の難易が極端に違ったりはしていない。


単旋律1回目AB群をt検定で比較した結果はNSであった。

単旋律2回目AB群をt検定で比較した結果はNSであった。


複旋律1回目AB群をt検定で比較した結果はP<0.10 *であった。

複旋律2回目AB群をt検定で比較した結果はNSであった。


 一般的に言えることは下の表のようにミスの回数の多い方が難しいと言うことであるが、リズムの要素が簡単な「単旋律A」が音の数は同じ「単旋律D」のようにリズムが不規則で複雑なものより憶えやすいし、ミスも少ないことが明白である。

各条件ごとのミス回数の総和
A群1回目A群2回目B群1回目B群2回目
単旋律A65048545
単旋律B332341935
単旋律C327154527163
単旋律D888414686780
複旋律A37476772317
複旋律B304154750227
複旋律C301221644204
複旋律D551411684376

 A群とB群の1回目と2回目の得点の変化に注目すれば、下のような結果となる。P<0、001には****を、P<0、01には***を、P<0、05には**を、P<0、10には*を、付記してあるが、単旋律で条件の異なる1回目のA群とB群には大きな有意差が所見されるが、複旋律の2回目では楽譜と言う条件が無くなって同じ耳だけと言う場面では、A群とB群には大きな有意差が所見されない。このことは簡単な単旋律では楽譜の有無は旋律記憶に大した違いが無いことを示している。
 複旋律の場合、楽譜という1回目の条件の有無でA群とB群に平均点の差が出たのはA曲とB曲だけであった。2回目になるともっと有意差は無くなり殆どA群とB群の得点の分散には有意差が無くなってしまった。

 以下紙面の関係で割愛するが、p値は次の通りである。


@単旋律A1回目 A群とB群の有意差P<0.05**
A単旋律A2回目 A群とB群の有意差P<0.10*

B単旋律B1回目 A群とB群の有意差P<0.01***
C単旋律B2回目 A群とB群の有意差 なし

D単旋律C1回目 A群とB群の有意差P<0.10*
E単旋律C2回目 A群とB群の有意差 なし

F単旋律D1回目 A群とB群の有意差P<0.05**
G単旋律D2回目 A群とB群の有意差P<0.10*

@複旋律A1回目 A群とB群の有意差P<0.05**
A複旋律A2回目 A群とB群の有意差P<0.10*

B複旋律B1回目 A群とB群の有意差P<0.05**
C複旋律B2回目 A群とB群の有意差 なし

D複旋律C1回目 A群とB群の有意差 なし
E複旋律C2回目 A群とB群の有意差 なし

F複旋律D1回目 A群とB群の有意差 なし
G複旋律D2回目 A群とB群の有意差 なし

 このことから総合的に判断すると次のようにまとめられる。

@A群とB群は平均点に差はあるが、分散に有意差が無いので等質なグループであると言える。
AA群は最初から耳だけによる集中を経験しているにで、聴覚だけによる練習効果がB群に比して大きい。
BB群は1回目と2回目で違う体験をしており、2回目はA群の1回目と同じ程度の得点が予想されたが、ほぼその通りであり、楽譜体験は旋律記憶に有効に機能しているとは言えなかった。
C単旋律に比べ複旋律の2回目ではA群とB群の差は殆ど見られず、これも楽譜体験の有無は旋律記憶に有効に機能しているとは言えなかった。
D単旋律の1回目ではA群とB群の間に大きな有意差があり、しかも常にB群の方が低い。このことは、音楽専修の学生ではなく一般の学生の場合楽譜を読むということの方が純粋に耳だけによるよりも困難を伴う方法であることを窺わせる。
E1回目のミス回数は圧倒的にB群が多い。ということは読譜という行為が障害となっていると考えられる。
F2回目のテストは聴いただけで思い出せるかという実験であり、最初に楽譜情報があったのと無かったのでは有意な差があるか否かを問うものであった。結果は1回目に異なる方法で実施した時はかなり認められた有意差が2回目では殆ど認められなかった。
G従って、旋律の記憶や再生は音楽的訓練の少ない被験者にとって、楽譜の有無に影響されないことが判明した。
Hさらに、最初に旋律に接するときは純粋に音情報だけの方が有効であることも判明した。
I視覚的情報(楽譜は)読めないものにとっては寧ろ旋律認知の妨げとなり、聴覚情報の認知の妨げとなっている。


 この実験は音楽的な習慣や技能が非専門的な学生の場合の結果であるが、同様の実験を音楽大学の学生や、専門家を対象として行えば恐らく逆になることも予想されるが、義務教育の児童生徒の典型としての適用はできるものと考える。

 旋律記憶の方法として@順次記憶A差分記憶Bパターン記憶C言語記憶D運動性記憶の五つが考えられると前に述べたが、この実験では@とAとBの記憶について楽譜の有効性を肯定しなかった。有詞旋律の場合、例えばカラオケでは例外なく歌詞の文字情報がついており、出だしの歌詞のフレーズさえ出れば後は芋づる式に出てくるか、サビの部分の印象的な歌詞が前後の記憶を統制していることが多い。あるいはダンスのような振り付けと一緒に記憶するとか、指先でタッピングしながら記憶するとかの場合それらの行動のあるなしで記憶が変化する可能性もある。
 Bのパターン記憶には《識別》《検索》《分類》《定義》《法則化》等の能力がメタ認知のために必要である。

 《識別》のテストとして はシーショア・テスト(Carl Emil Seashore 1919)が有名であるが、1965年にゴードン(Gordon Edwin)が発表したGordon Musical Aptitude ProfileやRaleigh Drake によって1954年に完成され、以後30年以上にわたって使用されてきた実用的なテストであるDrake Music Testsや、ウィング音楽的知能標準化テスト(Wing Standardised Tests of Musical Intelligence)と呼ばれるものや、1966年にArnord Bentleyが7ー8才の子供のために開発したBentley Measure of Musical Abilities等が有名である。

 このような標準化された音楽能力のテストは人間の記憶容量に対する配慮があまりなされていないため旋律記憶の方法として単純記憶ではなく何らかのメタ認知を使った認知的記憶が必要となる。

 《識別》に必要な能力は前に述べたように「比較」や「同定」のメタ認知によって発現するが、「比較」の能力として上の数々のテストでは一対の旋律のディテールの相違について比較している。いわば短期記憶の量と質の問題が多く介在している。

 実際の既知の音楽では長期記憶が使われるが、ディテールについてはそれ程丁寧ではなくアウトラインやブロックまたは断片(ピース)というパーツのかたちで記憶されている。短期記憶ではアウトラインやブロックまたは断片(ピース)というパーツのかたちや容量は異なるものの、一対の旋律比較でも同じ条件と考えても差し支えない。
 まずは[アウトライン]の識別であるが、[輪郭]或いは[包絡線]という図形的概念に加えて[構造]という認知統合概念が必要になってくる。[輪郭]や[包絡線]により形としての旋律線の【動き】や【サイズ】が明確になってくる。さらに[認知構造]としてのスキーマも要求される。音楽ではしばしば同形反復と呼ばれる同じ形の反復がみられるが、ベートーベンにおける同形反復と、ワーグナーにおける同形反復では[輪郭]や[包絡線]はよく似ていても[構造]は調性などではかなり違う。セリー等で書かれた旋律も同形反復の典型であるが、記憶しやすい[構造]になっているとは言いがたい。
それでも絶対音感しか使用しない音楽家にとっては調性的音楽であろうが、そうでなかろうが輪郭や構造の定位に必要な固定座標(調性や旋法)を使わないので難なく記憶できる可能性は高い。

 [構造]の識別には[ブロック構造]や[ユニット構造]の他[多重構造]や[階層構造]、[連鎖構造]、[機能構造]、[関係構造]等が使われる。特にこの構造把握の際には「グループ化」「範疇化」の能力も必要とされる。 Cooper&L.Meyer(Cooper&L.Meyer(徳丸吉彦訳)『音楽のリズム構造』 音楽之友社)によると「近接の原理」をはじめとするさまざまなゲシュタルトの知覚原則が、音をグルーピングする場合も作用するとされる。

例として以下のものが上げられる。

・音長の近接の原理…短い音が長い音にグループ化される。短い音は基本拍の分割の結果生じたものであり、長い音より音価が小さい。その結果大きな音価を持つ音に統合されてしまう。

・音高の近接の原理…音程の狭い方が、広い方より、一緒にグループ化されやすい。順次進行やそれに近い音程は跳躍進行のそれより認知が簡単なためグループ化される。

・共通運命の原理……同じ方向に向かっているものはグループ化される。旋律のベクトルは上昇、水平、下降、周期変化の4つであるが、共通のベクトルを持つ音はグループ化される。

・類似の原理…………最初にグループ化されたパターンは継続されようとする。最初に典型として認知されたパターンは類型として他の部分でも使われようとする。

といったものである。

 このグループ化の概念をメタ認知として持つならば、短期記憶の容量は飛躍的に増加するし、「比較」や「同定」のための処理速度も早くなるであろう。
 《分類》に必要な能力は、注目した音や音関係が有るか無いかの選別から始まる。従って旋律線の中の特徴的な部分に注目する能力がまず必要である。「共通部分」の比較或いは同定の後、差分即ち共通でない部分を抽出する能力が次に必要である。さらにその差分についてどの程度の差なのかにより同類とみるか異類と判定するかの能力が必要になってくる。

 オレゴン音楽弁別テスト( Oregon Music Discrimination Tests )では、実際によく知られた作曲家の作品を使用し、原曲とそれを歪曲したものとを比較してどちらが好きかを答えると共に、その曲のどの要素が変奏されたかを判定するものであった。この「よく知られた作曲家の作品」を使用するというアイデアは既に持っているスキーマを利用できるというメリットがある。好きか嫌いかという価値判断は別として、その曲のどの要素が変奏されたかを判定するという行為はかなり差分即ち共通でない部分を抽出する能力が必要であろう。それも同類の範疇の中に限定されているが、実際の分類行為には対象となる音楽が一対となっていることは珍しく、自分のスキーマからすばやく《検索》する必要がある。

 この《検索》はカテゴライズあるはグループ化されたデータ・ベースを使用するわけであるが、構造化(スキーマ化)されていないと用をなさない。この構造化と言う能力は個人により様々な方法や指向があり、同一のスキーマが同一の結果をもたらすとは言えない。普遍的聴取よりも個性的聴取の方が優先されるのも一つの特徴であろう。従って《分類》と《検索》はかなりその方法が個人によって異なるものと思われる。

 例えば、こまごまととした身の回りのものを整理するのに、筆者の場合用途別に整理する。ハサミ、カッター、ナイフ、ペンチ、ニッパー、のこぎり等は「切る」という分類の引き出しに、セロテープ、のり、ホッチキス、等は「くっつける」という引き出しにと言う具合である。もし自分が何かを切りたい時は「切る」の引き出しの中身をすべてオープンして目的に合わせて道具を選ぶのである。

 それに対して道具の種類ごとの分類をして、目的の作業に必要な道具を検索すると言う方法がある。道具同士の重複は避けられる反面選択肢の幅が狭く一度で目的の道具が得られない場合振り出しに戻ってしまう。それに対して目的別分類では状況に応じて例えばドライバーのサイズを選ぶように道具を選択できる。

 音楽に於けるスキーマは多くの場合目的に応じて使われることが多く、例えば「終わる」という目的のスキーマにはD→TやS→T等を始めとする幾つかの音楽的イデオムやボキャブラリーがあり、状況に応じてそれらから最もふさわしいものが選択される。その場合ハ長調では出来ても他の調では出来ないというのでは目的別分類はまだできていないと言えるし、《定義》や《法則化》というスキーマの普遍化や一般化のための枠組みができていないことになる。個々の事象ごとの分類は事象の数だけ引き出しが必要になりしかもそれぞれの引き出しの中身が有機的に関連づけられていない。丁度コードネームをすべて一つずつ記憶しているがそれをTDSとして利用できないような状況である。F-durの曲のWの和音はB♭と言うようにすべてのケースを丸暗記しても有効なスキーマとはなりえない。すべてのケースに共通する秩序や法則を定義出来なければ真のスキーマとは言いがたい。
 このコードネームのケースではアコーディオンの左手コード・ボタンがまさしく調のスキーマと合致するように配置されている。


                                                                                                                        
 上図は五度圏によるTDSの概念であるが、この知識を枠組みとすることで初めて右頁のコード・ボタンの配置の法則が理解できるのである。このように知識・理解としての認知も存在する。あらゆるスキーマが知的であるかどうかは筆者の専門外の分野であり定かではないが、直感的なスキーマのようなものでないと実用的なスキーマとはならない。ジャズのプレーヤー等ではこの「何調でも演奏できる」という瞬間的技能が備わっており、クラシックの世界でもバロックの時代は演奏者にかなりの自由が許されいた。近年の音楽教育は生活水準の向上や少子化の影響で早期教育や才能教育にはしる傾向が強いが、《識別》《検索》《分類》《定義》《法則化》言うような概念やスキーマをなおざりにし過ぎており、ただ憶えるとか、機械的訓練に終わっていることを改めて反省しなければならない。 次に示すアコーディオンのコードボタンがもし雑然と配置され、かつお互いの関係も知らないまま丸暗記しているとしてスキーマと成り得ないことは明白である。しかし、実際にコードを憶える時等は得意のコードの丸暗記であることが多い。この状態ではそれぞれのコードの調におけるステータスは不明に近く転調や移調の概念形成からはほど遠い。

アコーディオンのコード・ボタンの配列



 次の図は1992年フィンランドのヘルシンキで行われたISMEの研究発表でスゥエーデンの小学校音楽教師が考案発表した長調の「TDS」伴奏ウクレレの概念図である。右手で弦を掻き鳴らしながら左手でハンドルを左・中立・右と倒すことによりあたかも指がフレットを押さえるような効果が得られ簡単にTDSによる伴奏ができるというものである。さらにネックの角度を変えることで上下5度程度の移調も可能である。これも前述のアコーディオンのコード・ボタンと共通の概念形成に役立つ工夫である。

TDSウクレレの仕組み



 アコーディオンのための楽譜はしばしば旋律とコードネームという形態をとる。しかし、真にアコーディオンの機能を発揮するには旋律とTUVWX等の和音番号の方が良いように思われる。何故ならばある調のTの和音がG♭であるとして、WがC♭であることにたどり着くのにかなりの知識が必要であるが、機能和声的ボタン配置の原理をスキーマとすればコードの名前は知らなくてもボタンの位置関係だけで和声伴奏(和音伴奏ではなく)ができるからである。前にも述べたようにコードネームは鍵盤和声的な音名唱的ラベルであり、機能和声的ではないからである。その意味でスゥエーデンの教師の発想は優れており、コードネームの出る幕がない。折角アコーディオンの教育的価値が認められても鍵盤和声的運用をすれば殆ど意味を失う。

 この5度圏の概念はアコーディオンでなくとも、5度調弦(時には4度調弦)の楽器を演奏するのにも必要なスキーマであり、理解可能な概念であるが、ピアノのような白黒鍵盤が視覚的にも最も理解しにくい。何故ならピアノは音名順に配列されてはいるが便宜上ハ長調のみを「白鍵」とし、ハ長調以外は臨時的な「黒鍵」使用をするというスキーマが形成されてしまうからである。視覚的にもハ長調以外は不規則な配列として理解され、運指練習もハ長調に比して他の調の方が困難であるかのごとき先入観がある。(「猫踏んじゃった」はハ長調以外で唯一の誰にでも両手で弾ける名曲である)

困難な移調


 管楽器を演奏するものにとっては音名の視覚的イメージは少なく、指のパターンの動作イメージが主になる。この場合ある調の曲を移調すれば、指の組み合わせは原調と移調先では完全に変わる。例えばABCDEFGHIJKLMN.........のような順で運指パターンが変わる曲を別の調に移調すれば単純にABCDEFGHIJKLMN........がCDEFGHIJKLMN.......のように右や左にずれるのではなく新たにCXZUHDAQBPIDのような何等類似性のない運指パターンを練習しなければならないのである。しかも視覚的イメージ無しにである。

ジャズの管楽器奏者のスキーマは@楽譜イメージに変換してから移調する、A階名イメージを移調先の音名に割り当てる、等によるものと推察されるが、一番中途半端」なのがピアノ奏者であろう。鍵盤上に展開した視覚イメージもある。その視覚イメージに仮想のハ長調のイメージを重ね合わそうとするのが移動ドのメタ認知スキーマであり、調ごとに異なるのである。このことから、ピアノや管楽器の練習では実際の音を《運動性の順次記憶》として記憶することが多い。

我々人間は思考するとき普通は概念に対応した「ことば」を使って考えるが、音楽は「ことば」によらない概念そのものを使っているか、ドレミによる言語的概念によるのかを考えると反射的で瞬間的であることからも前者の概念(非宣言的記憶)そのものを使ったものであると考えられる。この《運動性の順次記憶》の欠点は途中で記憶が欠落するとそこから先は記憶を再生できないことである。そこで、演奏家は途中のどこからでも演奏が出来るように曲の途中に複数の引き出し(リハーサル・マーク)を設け、そこからでも演奏できるように練習する。この場合《運動性の順次記憶》では無く《構造の記憶》や《差分記憶》《パターンの記憶》と云った「ことば」による宣言的記憶が必要となる場合もある。この《運動性の順次記憶》は極めて「直接話法的」であり未整理、未解釈な状態であるのに対して《構造の記憶》や《差分記憶》《パターンの記憶》と云った「ことば」による宣言的記憶は「間接話法的」であり、客観化され、整理統合された構造的な記憶である。

●表音的音楽と表意的音楽


 1895年、エドグレンは音楽が分からない症状(失音楽症)を示す患者と、「ことば」がわからない症状(失語症)を示す患者50人についての報告の中で「ことば」の障害と音楽の障害の両方を示す患者の数と、「ことば」の障害を示す患者の数がほぼ同数であり、「ことば」の障害無しで音楽の障害のみを示す患者が無かったことから、「音楽の障害は、必ず『ことば』の障害を伴って現れる」という説をとなえた。
20世紀前半はこの説が支配していたが、1959年になってボウテズとヴェルトハイムが例外とは言い切れないケースを発見報告してから新しい説が色々出てきた。
ボウテズらによると二人の音楽家の症例では二人とも言語能力は比較的よく保たれていたが、ピッチの弁別、既知のメロディーの再認は出来たにもかかわらず示された音を声に出したり、リズムのパターンを再生したり、知っている曲を歌う等の音楽表現能力(演奏能力)が損なわれていた。或いはその逆で重い失語状態でありながら音楽の能力は何ら損なわれていなかった作曲家の例を1965年A・R・ルリアが報告している。今日の大脳生理学では音楽は主として大脳の右半球が音楽の特にピッチ記憶に関係があることを突き止めている。D.キムラによる両耳分離刺激法(左右の耳に異なる音楽を聴かせてどちらの脳がどう働くかを調べる方法)ではメロディーの認知ではやはり大脳の右半球が働くことを1964年に明らかにした。1970年代になってさらに研究は進み、ビーバーとキャレーロの研究では音楽の分析能力が増すほど左半球は音楽処理に優位な方向へと変化すると結論した。これらを検討すると、前頭葉のブローカの言語野に近い場所が音楽の表現能力に関係し、側頭葉のウェルニッケ領域の近くが音楽の認知にかかわっていることが突き止められている。また、しばしば音楽は右脳の領域であるかの説が発表されるが、女性の脳では左右の脳の機能分化は男性の脳ほど厳密ではなく、後で触れるが脳の性差に由来する音楽行動の性差もありそれほど断定的な結論には至っていない。
 ついでながら言語脳においても表音文字と表意文字では脳の働く部位が違うことが1975年に山鳥重の発表で明らかにされており、言語においても左右の脳の働きがいっそう厳密に研究されていることを知る必要がある。
 音楽においても「ことば」で使われる50音と同様にピアノ鍵盤の数である88音のひらがなもどき(音色や音量は書体やサイズの概念)の羅列として音楽を捉える人たちがいる。昔大橋巨泉のTVコマーシャルにあった「・・・スギカキスラノハッパフミフミ」の類の意味不明のひらがなとよく似た単に響きが新鮮とか面白いと云うコンセプトの音楽があるのは事実である。音楽をこのように単に音の組み合わせや響きの変化と捉えるのもあれば、単語や熟語のように意味のあるものとして音楽を構成したり鑑賞する立場があると筆者は考える。
 「音楽が分からない」とはどんな症状を指すのであろうか。一義的には音響現象を物理的現象として捉えることはできても音楽的意味や秩序等の人為的現象として理解や解釈ができない症状を指すものと考えられる。その結果フレーズやメロディー、和音や和声、リズムや拍子、ダイナミックやテンポ、音色や音域などのいわゆる音楽的な秩序や法則が理解できない状態を指すものと考えられる。

 我々が初めて聞く外国語の場合も「わからない」という。しかし、状況に応じて繰り返して聞いたり、文法や熟語単語を教えてもらうと「わかる」ようになる。「音楽が分からない」場合は繰り返そうが教えてもらおうが「分からない」のである。(ワープロで「わかる」を変換すると「分かる」「解る」「判る」等が得られるが、辞書的意味は「分かる」ですべてを代表しているので本書では「分かる」を使用する)

 音楽がチャイムのようにある種の合図や信号として用いられる場合には、音には反応するが音構成や時間構成などの音楽的構造や内容は分からないのである。筆者の身辺にはそのような人物は存在しないし、過去6000人程の生徒学生に接してきたが決定的に音楽的能力を欠いた者には出会っていないので先天的に「音楽が分からない」者は極めて少ないと考えられる。

 筆者の友人A氏(故人)のケースでは著名な音楽家であったが、ある時自転車で転倒し、頭部に損傷を受けて以来音楽生活には何等支障がないように見えたが、二桁以上の数が分からないのと移調奏が出来なくなるという症状が生涯続いたのを記憶している。数字の桁上がりは右脳の機能であるとされているがA氏の場合まさしくこの右側頭部に損傷を受けたことと一致する。同様に移調や移動ドの概念も右側頭部にあったと推察される。このように後天的に音楽のある種の要素が分からなくなることは実際に多くあるものと思われるが、先天的に脳の損傷や異常が無い限り音楽は「分かる」ものと考える。

●わかるとは


 音楽に限らず何かがわかるとはどういうことであろうか。わかる前の状態を「?」とするならばわかった瞬間は「!」という状態であろう。学校の授業でもこの「?」と「!」が子どもたちの頭の中を行き来しているはずである。
分かる前の状態は以下のようなものが含まれていると考えられる。


          @未経験          H不確実
          A未定義          I無意識
          B未分化          J不明瞭
          C未整理          K未知・無知
          D未統合          L不均衡
          E未適応          M無調和
          F未洗練          N無秩序
          G不完全          O未熟

 これらをマーセルが音楽的発達が現れるとするところの「識別力・洞察力・音楽的意識・音楽的自発力・音楽的知識技能」の観点から当てはめると以下のようになる。


@作品や演奏の違いが分かるか否か
A音楽を時代、作者、演奏者等の違いで分類できるか
B作品や演奏の構造や音楽の意図が理解できるか否か
C作品や演奏の構造や音楽の仕組みが理解できるか否か
D作品や演奏の構造や音楽の仕組みを応用できるか否か
E作品や演奏について類型化や一般化ができるか否か
F自らの意志で作品や演奏を表現や鑑賞出来るか否か
G作品や演奏に音楽的に反応できるか否か
H作品や演奏の音楽的ニュアンスの違いが分かるか否か
I音楽の流れに沿って次の音や音形が予想できるか否か
Jある作品や演奏の代表的な部分を思い出せるか否か
K作品や演奏について説明できるか否か
L作品や演奏について技術的な要素を把握できるか否か
M楽器や発声についての知識や技術があるか否か
N楽譜に関する知識や技術があるか否か

 これらのことを「音楽認知」という立場から言い直すと、大部分の「〜できるか否か」と言う部分が「〜認知できるか」となる。特に「識別力・洞察力・音楽的意識・音楽的知識技能」に関連する能力では殆どそうなる。
 いわゆる「音楽認知」の立場が最も説明しやすいのはこのエリアである。
 それでは一体音楽の「何が」分かる(認知する)のであろう。音楽はゲシュタルト(独立分離した現象の集まりではなくそれらが統一された状相をなすこと)である。また音楽を共有する社会はゲマインシャフト(共同社会や人間の自然な感情や意志で形成された集団)である。統一された文化的価値や概念を通して共通の感情を共有することが音楽のコミュニケーションである。或いは新たな創造や試みに対する評価や共感を得る目的もある。その意味でまず「分かる」のは統一された文化的価値や概念であろう。音楽そのものは極めて抽象的な音現象であり、しかもゲシュタルトであるから例えば具体的な《調性》や《音階》等ではなく単に《雰囲気が分かる》という分かり方が最も初期段階の分かり方であろう。それ以外に《誰の作品》《いつ頃の作品》《何という曲》《誰の演奏》等のラベリングに関する分かり方もあるが、まず雰囲気から曲のイメージを得て、しかる後にラベリングに関する分かり方に到達するものと考えられる。この段階でその曲の《ステータス》に関しては分かるのである。

 次の段階として内容分析的な分かり方がある。自分のレパートリー(スキーマ)との照合が行われ、その期待値(予想値)との差分が検出される。それが仮に初体験の音楽であっても持てるスキーマが総動員される。その結果《新しい》という結論が得られればその曲は創造的な内容と新しい試みに対するラベリングを受ける。何が新しいのかが分かった時、既知の分類のいずれかのカテゴリーに組み込む試みがなされる。この組み込み作業が「分かる」の結果であり、該当するカテゴリーが存在しないときは「分からない」のである。該当するカテゴリーが存在しない場合、新たな分類項目を設けることが必要になることがある。新しい項目に新しいラベルを付ける作業も「分かる」という行為であろう。

 「受け入れるか否か」と、「分かる分からない」とはこの時点では無関係である。受け入れるか否かは価値付けという主観的判断の後に決定される。この価値基準は長年の感動体験や価値意識体験によって形成されたものであり、継続的且つ持続的な一方一瞬にして変容することもある。いわゆる「目から鱗が落ちる」体験の前には容易に変わる。また、この価値付けが第3者からの入れ知恵による場合も「分からない」であろう。この場合第3者の立場を借りて分かったような「受け売り」もまま見られる。いわゆる流行を追うタイプではマスメディア情報を受け売りで自分の価値基準とし、常に自ら分かろうとしない傾向があり、結局は「音楽が分からない」に近い立場に置かれている。

 学校現場ではこの「音楽が分からない」生徒や一般教師が音楽教師の悩みの種であることは確かである。「分からない」と「分かろうとしない」も区別されるべき問題であろう。しかし、基本的に誰に対してでも音楽は固有の「雰囲気」を伝えることが可能であるし、現実に映画やTVドラマのBGM等はその機能を果たしている。つまり「聴こうともしない者」に対しても音楽は効果を発揮することが多いのである。その意味で音楽は「聴かない権利」が優先されるとも言われる。視覚は目を閉じたり視線を逸らしたりして見たくないもの見なくても済むが、聴覚は好むと好まざるに拘わらず選択的に排除することは難しい。
 従って聞こえる音すべてに反応せざるを得ないのである。この場合無意味音と言語のような有意味音とは異なる聴覚が用いられるのでいわゆるカクテルパーティー効果のように選択的に聴取するにはそのどちらかをフィルターリングすることが可能である。それでは同じ意味音声を異なる複数の人間がバラバラに発した場合はどうであろう。聖徳太子の例では同時に数名の訴えを聞き遂げたことになっているが、よく似た信号の場合それぞれの意味を分離しながら聴くことはかなり高度な訓練や技能が必要であろう。

 単旋律以外の音楽が「分からない」者の中にはメロディーの音とハーモニーの音の分離が困難な者や、よく似た音色の異なるパート音を分離できない者が多く存在すると推察される。音の動きや組み合わせが「和声的」にあるいは「対位法的」にあるいは「楽式的」に意味を有する場合、その意味を理解出来ない者にとっては同時多発の音の中から特定の音を選択的に抽出したり分類したりすることは砂の中からダイヤを掘り出すような難しい作業であろう。

 このように考えると、調性音楽のスキーマを持たない或いは相対音感を持たない者にとってクラシック音楽の「和声的」「対位法的」「楽式的」な秩序は「分からない」し、絶対音感を持たない調性的スキーマしか持たない者にとって現代音楽は同じように「分からない」のである。つまり「意味」が音そのものにあるのか、音の組み合わせによって生じるのかと言う二つの相対立する概念による相違である。

 日本の教育制度は受験制度によって構成されている。大量の子どもや生徒を短期間に試験で選抜するためにはマークシートを始めとする客観テストが最適である。その結果、一つしか答えのないものを知識として暗記するというのが受験勉強の基本となるわけである。
 しかし、この「一つしか答えがない」というのは音楽や芸術には馴染まない。数学や科学ではこの「一つしか答えがない」ことが当たり前であって、それに到達することが「わかる」ことなのであるが、音楽では和声一つとってみても「一つしか答えがない」ことはないのである。その意味で数学のような「分かり方」は不可能なのである。にもかかわらず「一つしか答えがない」と思わせるような音楽教育が平然と行われているのはいかがなものか。

 最終段階としての「分かり方」は、この多くの答えの中から一つを選択したり、複数の選択肢を認めたりできる分かり方である。自分自身を含め社会の中の美的(音楽的)文化として享受、反映させることのできるひとつ或いは複数の行動を決定できる能力のことである。自分と他者の関係で変化する行動の様式を選択実行できることであるとも言える。音楽や音の何が自分をどう変容させるかを知っており、さらに他者にどんな影響を与えるか知っていて行動できることが最終的な「分かり方」である。
これを分かり方の段階を図示すると次の図のように表現できる。

分かり方の段階



これは筆者の提唱する分かり方の模式図である。初めて出会う一見何のつながりも無さそうな事象や音現象を第一段階ではまずイメージ化するのである。この場合すべての事象や情報が対象となるわけではない。比較的受け入易いものが基本情報源として「核」のような形でイメージの骨格に組み込まれる。この時点で気がつかなかった事柄やスキーマと照合されないものは排除又は無視される。音情報に調性や音階、ハーモニーなどのいわゆる「旧い」音楽の持つ秩序や法則等の関係が見あたらない時や「スキーマ」に無い情報には改めて情報の再入力を繰り返し行う。現代音楽や無調の音楽はこの時点ですべての情報を放棄され「分からない」として処理されることもある。


 つまり第1段階は情報の整理整頓とカテゴライズであり、それに、音響現象そのものが持つ「音イメージ」との統合が行われる。音楽のイメージはまず「音イメージ」の統合から行われる。19世紀までの「旧い」秩序や法則では、この時点で音楽の正体が露呈され、予見されることが多かった。そこで、いわゆる「新しい」音楽はこれを避けるため敢えて調性や和声、拍子などの秩序や法則を避けたのであろう。その結果これらの新しい音楽は何らかの予想や予見をしながらイメージを構築することはかなり困難になってしまった。文法や共通の単語を使わない言語のように、ニュアンスだけがイメージのヒントとなる。このニュアンスこそが旧い音楽と新しい音楽の両方に存在する共有文化である。勿論何らかの知識としての情報もイメージ化の助けとなる。いわゆるレパートリーの豊かさや音楽経験の豊かさでこのイメージ化の作業はかなり個人的には異なったものになるであろうが、「一つしか答えがない」わけではないので、それぞれの個人が形成したイメージが次の段階に持ち込まれる。
 楽曲のイメージについて筆者の研究室で面白い実験をしたことがある。「小学校の音楽教育における鑑賞領域の教材分析とその指導法*昭和63年3月兵庫教育大学卒業論文 徳永都」の中に詳しく述べてあるが、実験の内容は次の通りである。
実験仮説1、児童に対して、鑑賞の指導をする時、音楽を聴かせる前に聴き方(目標)の指導をした方が、聴き方の指導をしない場合よりも、効果的な学習ができるのではないか。
実験仮説2、成人は児童とは違う鑑賞をしているのではないか。

実験方法
 実験群Aに対しては課題曲を聴かせる前にその曲の聴き方を示し、その後曲を聴かせる。この手順により、5曲聴かせる。
 しかる後に課題曲と相似又は類似の対象曲を5曲聴かせ同じ曲が含まれていたかどうかを答えさせ得点化する。
 実験群Bに対しては課題曲を聴かせる前に何の指示もしないで、その後曲を聴かせる。この手順により、5曲聴かせる。
 しかる後に課題曲と相似又は類似の対象曲を5曲聴かせ同じ曲が含まれていたかどうかを答えさせ得点化する。

実験対象
 大学生(A19名B19名)
 小学5年生(A37名B38名)
実験結果
 正答一つにつき2点の計10点満点で大学生A群の平均点は5.79点、B群は7.29点
で標準偏差値はA群が2.587B群が2.267 。t 検定の結果10%水準で有意な差が両群間に存在することがわかった。このことは成人においては予め聴き方の指導が無い方が再認性の高いイメージ化が行われること意味する。
 小学生ではA群の平均点は7.08点、B群は5.95点で標準偏差値はA群が2.1102B群が2.5334 と逆転し、t検定の結果も5%水準で有意な差が両群間に存在した。このことは 児童においては予め聴き方の指導がある方が再認性の高いイメージ化が行われること意味する。
 この実験で得られた事実は、成人においては外部からインフォームされる情報よりも自らが生成する情報により音楽のイメージ化が行われるのが普通でそのような自己の力による情報構築の能力が高いと言えるが、児童の場合は音楽的経験年数も少ないだけでなく、そのような情報を統合したり構築する能力ではなく直感力やインスピレーションのようなものや、標題のイメージに音楽を重ねるような聴き方をするのが普通であるということである。
 従って児童に鑑賞教育を施すときはこのことを念頭に置かねばならない。レコードやCDのかけ流しや聴かせっぱなしの鑑賞は厳に慎むべきであると共に、正しい有効な情報や指針を示すべきであることを心がけねばならない。
 又、成人の音楽鑑賞に際しては、情報を与えすぎるより寧ろ自らのエンジンを使って聴くように方向付けなければならない。
 小学校の鑑賞教材の殆どがいわゆる「標題音楽」であり、標題の持つ物語的なイメージや、情景や風景を連想させるイメージを手がかりとしているのもあながち間違いではなく、発達段階に合致して居るともいえる。昨今はやりの「創って表現」のでたらめ表現では擬音や効果音的イメージから脱出することなく、旋律や和声、リズムによる純粋なイメージを育てるという目標にもかかわらずそれが達成されないという自明の学習発達段階(与えられたイメージを拠り所とする)無視による無理からきていることがわかるであろう。
 表現や創作の活動においても児童においては適切なアドバイスや模範を必要とする。「自分の感じたことを音や音楽で表現してごらん」の類の教師発言で展開される創作や表現の授業が一般に行われている。しかし、筆者の経験では感じたことを「ことば」でいいわけする場面は多く見聞したが、実際に本人も周囲も驚くような創造的な授業が行われているのを見たことがない。ジュニア・オリジナル・コンサートなどで即興的に演奏する子どもたちもいるが、彼らとても生まれつき天才であったわけではなく、いろいろな旋律進行に対する断片的な知識や技術のトレーニングやそれをイデオム化して応用する日常体験の積み重ねの結果それができるにすぎない。
 ここではっきりさせておきたいことは、「空の財布では買い物はできない」ということである。子どもたちの財布にはそれまでの学習や経験で蓄積された財産すなわちスキーマが存在するはずであるが、もし十分な蓄えが無ければイメージを感じることはできても実現することはできない。つまり、子どもたちはスキーマの量と質や構造(ネットワーク)に限定された範囲でしか表現できないのである。子どもがいかにナイーブな感性や感受性を持っていてもそれを言葉で表現するにはそれを表現するのに最小限必要なボキャブラリーと文法のスキーマがあるのと同じである。
 ちなみに、目を閉じて試して欲しい。「食べたこともない味」や「嗅いだこともない匂い」「聴いたことのない音」をイメージすることができるか否かを。答えは「ノー」である。すべて五感を入力器とするイメージは体験したものだけで構成されておりそれがスキーマとなっているからである。

 創造の原点は模倣である。忠実な模倣が豊かな創造性を養っているのである。従って小学校に限らず学齢期の音楽学習は根本において忠実な模倣が必要とされていることを忘れてはならない。奇をてらったパフォーマンスもどきの「創って表現する」授業の問題点はここにある。一過性で行き当たりばったりでも偶然良い結果になることもある。それは子どもたちが「教師に気に入られる良い結果を出そうとした結果」つまり善意の第三者的な行動をした場合などに見られがちな光景であるが、こうすればこうなるという因果関係を明確にしないまま、めでたしめでたしと授業を終えるなら、子どもたちとって有効な学習とならないばかりか本当に創造性を発揮するする体験をも奪うことになる。
 どんなに小さな学習であっても、こうすればこうなるという因果関係を把握しないならば応用や創造性につながるスキーマとはなり得ないからである。
 従ってイメージ化の過程言い換えればスキーマの検索と編集の作業にはオードックスな旧いタイプの音楽学習も捨てがたいものを持っている。 音楽能力は大脳の神経細胞が音楽的個性のために用意される3才までの学習の結果を使って、その神経細胞がネットワーク(ニューラル・プルーニング)を完成させる20才までに連続的な発達を遂げることが望ましい。俗な例えで言えば麻雀の牌を必要な数だけ揃えるのが3才までの学習で、その牌を使ったいろいろな上がり手を試みるのが20才までのニューラル・プルーニングである。従って3才までに手にいれるべき牌は個性に応じた最小限の牌だけでなく、将来に備えて必要な牌も揃えなければならない。何故なら牌の種類は最初の配牌の時に決定され後では追加や変更がきかないからである。

 このようにイメージを形成するためにはネットワークが発達していなければならない。このネットワークの種類があたかも麻雀の上がり手の種類のように形成されるのである。 このことから、イメージ化の段階では対象者の生活年齢というより寧ろSのレベルの能力がよく発達しているか、Mのレベルの能力が発達しているかによって指導者の関わり方が変わるのである。
 第2段階は第1段階が「?」であったのに対して「!」の段階である。つまり「正しく」認知されるかどうかという段階である。しかし、この段階でも、いわゆる科学的基準や法則はめったに見あたるものではない。イメージされたものには科学的基準や法則ではなく関連する事実や経験がネットワークとして結節点に存在する。この段階では音や音群の「音響的イメージ」や「旋律的イメージ」、「標題的イメージ」、「構成的イメージ」の印象の分析が行われる。


@既知の曲であるか
A既知の演奏スタイルであるか
B既知のイメージであるかなどの導入点から分析が開始される。
まず使用される音の法則性や個性を考察するため
@調性を調べて長調か短調かそのどちらでもないかを判定する。
次にA構成音から主音や核音、属音などの判定を行う。
その結果B旋律や和声、拍子などの主成分が抽出される。
C主成分の特徴から作品や演奏がいつの時代の誰の手によるものか考察する。
Dその人物の既知のスキーマとイメージを重ねてみて類似性を判定する。
E時代と人物を特定する。
次に音楽的表現についての分析が行われる
@主旋律や基本の拍子リズムを追認し再認する。
Aニュアンスを言語で表現する。
B音楽の細部にわたって観察し、全体の構造や音楽の仕組みを洞察する。
C類似の作品や演奏との違いが明確に分かる。
D時代、作者、演奏者等の違いやカテゴリーやジャンルを分類する。
E作品や演奏の標題的イメージがあれば言う。
F作品や演奏の音楽的技法の特徴を言う。
G作品や演奏の技術的なレベルや特徴を言う。
H作品や演奏を評価する。
などが考えられる。

この段階では認知即ち分かるということに行動が集中するが、心理や精神的行動の結果しばしばタッピングや手足の運動等の身体的反応も併発する。
 確かにこのような手順でよくわかる音楽もあればさっぱりわからない音楽も存在する。絵画の世界においても20世紀の作品は分からないものが多い。レンブラントやドラクロアのような「忠実な写実」こそが絵画であった頃もある(しかし、写真の発達した現代においてこの忠実な写実はヴィルトゥオーゾの才能を超えるものが素人にも可能になった)。具象や写実には現実的なモデルや記憶が存在するからスキーマの動員には必ずしもネットワークを駆使する必要がないことも多々ある。
 19世紀から20世紀にかけての美術の世界はあまりに抽象的で観念的なため「分からない」場合も多々あったが、具象から抽象への流れであった。同様に音楽も具象から抽象への世界であった。しかも、美術の世界に比べて音楽の世界は元々抽象的であり、一つの音や音の組み合わせのイメージが普遍的な共通の意味を運ぶことはまず考えられない。音声的言語も音楽と同様に音響的には抽象的である。だが、言語に文法やその他の秩序を当てはめることにより言語は具象そのものになってしまう(それでも未知の外国語は抽象そのものである)。音楽と言語は分かると言うことにおいて極めて近似の認知領域を脳内に保有している。しかし、絵画のような視覚的情報は見えるとおりはどこまでも具象であり、キャンバスの向こうに非現実が存在するのである。その場合でも現実的映像のスキーマがまず必要となる。何故なら特に何かを意図した絵ではなく単なるデザインの」ような場合を除いて、通常は目の前のものに対してそれが「何であるか」とか「何に似ているか」などの情報検索が現実的映像スキーマを駆使して行われる。ロールシャッハ・テストのように「何に見えますか」との問いに対して具体的な何かに見えると答えるのもその機能による。
 音楽の場合「何に聞こえますか」という問いは明確な答えが期待できない。何故なら何に似ているのかとスキーマを探すことが少ないからである。例えばオネゲルの「パシフィック231」のように明らかに蒸気機関車のイメージが存在するようないわゆる描写的な音楽はそれが何に似ているかが分かった時点でその音楽を分かったという。しかし、具体的イメージが生じない曲に対してそれを期待しても分からないままの状態が続くだけである。
 バッハの多くの作品における対位法は、それが何声なのかどれが主旋律なのか、今どの声部が旋律を演奏しているのか、テーマの変形や展開がどうなっているのか等のいわゆる「音楽の仕組みや仕掛け」が分かればやはり分かったというであろう。
 交響曲やソナタのような場合も主題の把握、楽式的把握、管弦楽法的把握、調構造の把握などが分かったと言わせるきっかけとなろう。その主題を分かりやすくするため或いは明確な標題を意識して作曲或いは演奏される場合もそれが補足できればやはり分かったと言う。
 標題音楽にはしばしば後から標題がついたケースが多い。例えば、ベートーベンの交響曲の場合どの曲にも元々標題は無かったのであるが、3番が「英雄」5番が「運命」6番が「田園」7番が「リズムの狂宴」9番が「合唱」のような標題がまかり通っている。ショパンの「別れのエチュード」や「革命」「枯れ葉」「雨だれ」なども本来はそのような標題は無かったのであるが曲のイメージとあまりにもピッタリなためその呼び名が一般化してしまった。しかし、本来このような場合そのイメージが分かってもその曲が分かったわけではないのである。しかし、この標題のおかげで大勢の愛好家がこれらの曲がわかったような気がしているのも事実である。
 歌詞のある歌曲やポピュラーソングの場合、まず歌詞の言語的把握の段階があるが、外国語のオペラや歌でも雰囲気や器楽的要素或いは音楽的要素(歌詞の意味的要素を除いて)等が分かる。村尾らの研究によればいわゆる「おじさん(おばさん)」たちがカラオケで歌うのが困難な若者の曲が存在することが明らかになっている。音楽的には決してレベルが低いわけでもなく、技術が乏しいわけでもないのに、ある種の若者の間ではやっている曲のリズム(音程はとれる)がおじさんには難しいらしい。最近のポップスや歌謡曲は文語体ではなく口語体や説明文風の歌詞や日常会話風のものが多い。これはひとつにおじさんたちのボキャブラリーにそういった言葉が無いことと、細分された細かいビートのカウントを身体で感じたことのない年代なのと、器楽的旋律が多く歌詞の持つ文学的段落や韻が予想の範囲外にまで及んでいることなどが考えられる。
 最初は8トラックのテープ(カーステレオ用を転用)から始まったカラオケは、1980年代はレーザー・カラオケが開発され、国際的にも認知されるようになった。軍歌や演歌を中心に誰もが特別な学習をしなくても歌えたいわば「おじさん」の時代であった。「ナツメロ」に象徴される叙情的でどこかうら悲しい哀愁が漂う世界でもあった。共通の詩的ロマンやイメージはおじさん世代のそれであった。
 やがて、1990年代に入り通信カラオケになりカラオケに異変が生じてきた。若者が酒も飲まずにカラオケ・ボックスで歌い始めたのである。カラオケ人口の低年齢化はそのレパートリーのポップス化に拍車をかけ、さらにテープからCDへと変わったメディアは次々と新曲を生み出しいったのである。90年初頭にはカラオケ全体の30%程度であった若者向けのヒット曲が今では80%以上にまでなってしまったのである。


 現代のカラオケには3つの特徴があるという。


@テンポがはやい。
A歌詞の言葉数が多い
Bキーが高い


この3つはいずれも「おじさん」の苦手とするところである。そして、今や「おじさん」はカラオケ戦線から離脱してしまった。
 一方若者もバブル景気が飛んだ後の不景気で財布の紐がかたくなりかつてほどCDを買わないし、誘ってくれる仲間も減り97年になり突如カラオケは失速し始めたのである。若者がカラオケ離れを起こした理由は


@面白くないので仲間が誘わない
A新曲の出るサイクルが早すぎてついてゆけない
B携帯電話等の方にお金がかかるのでカラオケに手がまわらない


などだそうである。(NHK調べ)


 このカラオケには必ず「歌詞」という「言葉」がついている。ところが制作現場では何と最初にコードとリズムパターンができて後からメロディーをかぶせるそうである。
それから、誰かが歌うことを想定して響きの良い歌詞を付けるのだそうである。うまく歌詞が収まらないときは「I love you」とか何とか英語のスラングみたいなものを挿入して、要するに歌詞の意味なんかはどうでも良いものらしい。
 ここにおいても「歌詞」や「ことば」に酔いしれて歌った「おじさん」たちとは違うイメージが存在する。「かっこよさ」のイメージがおじさんと若者では違うのである。
 「ながら族」も若者文化である。カーステレオのない車など考えられないし、ヘッドホン・ステレオが無ければ電車にも乗れないし、部屋にオーディオが無ければ勉強もできないしと数え上げればきりがない。この若者の「環境音楽」はマリー・シェーファーらが言うところの「環境音楽」とも違うようでもあるし、強いて言うなれば「首から上で聴く音楽」と「首から下で聞く音楽」に分けると若者の多くは「首から上で聴く音楽」が苦手で、年配者は「首から下で聞く音楽」が苦手のようである。にもかかわらず、町を歩けば否応なしに音や音楽が聞こえ、拒否権を行使できない者はただ我慢をするか逃げ出すしかない。
 音や音楽には「聴かない権利」が優先する。何を聴き、何を聴かないのかを決めるのが「焦点化」の行為である。今日的な焦点化は聴くべきものと聴かざるものを弁別することから始まる。
 今の時代、個人的「音環境」は十分に満たされているのに「本当に自分らしい音楽環境」は極めて貧弱である。「焦点化」から「行動化」に向けての流れはなかなかうまく機能していないようである。

 最近音楽教育の現場では「創って表現する」などという言葉が横行していが、実際にその授業なり研究論文等を所見すると、手作りの楽器と称してペットボトルに砂を入れたマラカスや新聞紙を丸めたものなどそれこそ廃品回収の対象をターゲットとしたものを利用して「音」を出すことを「創って表現する」と言っているような風潮(流行)も見られる。この「捨てても良い」「壊れても良い」ものを利用したアバンギャルドな技法は「残す必要のない文化」として20世紀半ばに出現したものである。パフォーマンスとしては記録されているが、再現性が乏しいのでもはや殆ど残っていない。

 学校で学ぶべき学習内容や学習経験は「残す必要のない文化」ではなく、「残さなければならない文化」である。この「文化」という言葉は「○○文化ホール」や「文化祭」などに使われるが、《文明が進んで生活が便利になること》《自然の反対語で、真理を求め常に進歩向上をはかる人間の精神的活動》などの意味が国語辞典には出ている。かつて芥川也寸志氏が「文化とは生き甲斐のことである」との名言を残しているが、文化と言うのは辞書的な意味だけではなく親から子供へ、そして人生の先輩から後輩へ受け継がれる「生き甲斐」のことである。音楽の行動化は「生き甲斐」としての「文化的行動」でなければならない。

 だとすれば使い捨てのペットボトルを利用した「使い捨ての教材」はその場限りの活動をしたに過ぎず、「生き甲斐」を啓示されたり教えられたりしたわけではない。このように、今の教育現場では「音」と「音楽」と「文化(生活)」の区別が判然として居ない。
 我々が口にする食べ物は「食材」の吟味、そして「加工・調理」を経て「設定・食事」という日常行為になるわけであるが、この「食材」にあたるのが「音・音響」で、「調理・料理」にあたるのが「作品や演奏」であり、「設定・食事」にあたるのが「鑑賞・表現の行動」なのである。「音」が出れば何でも「音楽」というのは「口にさえ入れば何でも食事」と言っているようなもので、職人の包丁の入った「活け造り」と鱗や骨や砂までも付けたままの「丸かじり」との区別もない考え方なのである。
 「自然」の反対語が「文化」であると辞書には出ているが、現代の高度な機械文明はもはや等身大の文明ではなく、電話がそうであるように殆どの人間関係すら一度電気信号に置き換えられ、間接的にしか伝わらなくなってしまっている。佐守信男はこの我々の文明の結果としての現状を「人間の歴史的自然」と言って自然に対立する言葉としては捉えていない。この現代文明も人間にとっては自然であると言う考え方は受け入れざるを得ないひとつの現実であると同時に、より快適で幸せな人生が送れるよう人間は歴史的自然を創っていけると思うのである。

 さて「おなら」は「音楽」であろうか。「おなら」は自然そのものである。しかし、自然の中には制御や回避されるべき大雨や洪水、干ばつなどがあるように「おなら」も通常は付随する臭気を回避するため単独で音響だけを用いることは困難である。敢えて音にこだわるのであれば金管楽器のマウスピースだけを用いた方がはるかにイメージに近いであろうし機能的でもある。
 マリー・シェーファーなどが提唱するサウンド・スケープはあるがままの自然音をある時間帯だけ切り取って一切手の入っていないままのものを音楽であると言う。

 今、教育現場を混乱させているジョン・ペインターのと言うよりその翻訳者坪能由紀子氏らの提唱する現代音楽的手法による音楽教育も、「意図して」何かの音を発生させるのではなく、ただ出したいから出すと言うあたりにお構いなしの「おなら」のような行為を来る日も来る日もやらせようとしているのである。SML理論ではまずS即ちSound或いはSonicの意味する素材としての「音」の教育を体系化しようとする。「音」さえ鳴れば「音楽」という立場をはっきりと否定する。無意味な行き当たりばったりの「使い捨て授業」を否定する。自然だけが善であるという哲学を否定する。文化(生き甲斐)としての音楽を成立させる音の学習と音を音楽として「行動化」できる学習体験をもう一度検討しなければならない。      

(以下次号)


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