実技教育研究指導センター 鈴木 寛
音楽を学習理論で説明しようとする立場がある。言い換えれば脳細胞の働きとして 説明しようとする立場である。もう一方で音楽を「心」の情動反応の立場から説明し ようとする立場がある。近年大脳生理学が進歩し、脳の働きのかなりの部分が科学的 に解明されつつある中で、大脳生理学者自身も「心」の働きだけはコンピュータに置 き換えられない部分であることを認め始めた。
音楽の受容や表現の行為はPerceptionつまり知覚とCognitionつまり認知に分けて考 えると言うのが音楽を学習の立場で説明するのが普通であったが、感動や自己表現な ど情動に関する行動がそのどちらでも完全に説明できないというのが現状である。つ まり認知研究だけでは音楽的行為を説明できないことがわかってきたのである。
しかし、知覚に関する研究はかなり進んでおり、【音高知覚、音程知覚、音色知覚、 音長知覚、強弱知覚、協和知覚、音数知覚】など個々の知覚についての研究はそれな りにコンピュータに置き換えることが可能なレヴェルまで来ている。それに伴って例 えば音程知覚では日常使用している言語で聞こえ方が異なる(Dyana Deutch)等の未知の分野が解明されつつあり、それが音楽としてどう認知されるのかと言う研究につな げる方向性が見られる。
音楽認知には、【旋律認知、速度認知、アゴーギグ認知、エネルギー認知、パート認 知、リズム認知、和声認知、調性認知、フレーズ認知、多声認知、パターン認知、空 間的認知、時間的認知、バランス認知、機能認知、構造認知、形式・様式認知】など の研究分野があるが、統合された研究に至っていないのが現状である。これらの認知 に必要な能力としてJ.L.Mursellは【音楽的識別力】【音楽的洞察力】【音楽的意識】【音 楽的自発力】【音楽的知識・技術】が必要であるとしている。【音楽的識別力】とは音 楽の違いがわかるとか音楽の構成要素を分析・分類や定義付けができることであり、 【音楽的洞察力】はその音楽や演奏がどんな意味やメッセージを伝えようとしているの かを推し量る力である。【音楽的意識】は単なる音の羅列をどう音楽として意識するか と言う人間のみが持つ能力である。【音楽的自発力】は誰からの制御や束縛も受けない 自らの自由意志でどのような音楽感とか情感を持つかという意欲や意志に関わる能力 である。【音楽的知識・技術】はスキーマの中核ともなる音楽的経験や学習の結果の有 機的結合能力である。しかし、これらの認知の殆どは専門的学習や訓練によって獲得 される学習成果であることも一方では経験的に知られており、もう少し科学的な研究 をすることで、【音楽的意識】【音楽的自発力】を除けば将来的にはコンピュータの人 工知能の技術で実現できる可能性が高い。
一般的に西洋音楽の要素は@旋律A和声Bリズムの三つであるとされている。しか し、同じ旋律に異なる和声を付けたり、異なるリズムで演奏してもまだ何の曲かはわ かる。逆に和声進行やリズムだけを聴いて何の曲かを推定することは極めて困難であ る。このことから音楽を代表する要素の一番大きなものは@の旋律であると言える。
通常、単旋律と呼ばれるものが音楽の発生の歴史をたどってみても最も初歩的なレ ヴェルであろう。この単旋律と呼ばれるものは@ピッチの変化にAリズムを加えたも のといえるが、B主音や核音を中心とする音階又は旋法と呼ばれる音列の構成音から 成り立つ。歴史的に見て旋法の方が音階より古いことは世界中共通の事実である。ペ ンタトニックやテトラコードなどの音列は現在の12音音階よりもシンプルである反 面、微分音程などの微妙な音程も使っているため変化に富んでいるとも言える。完全 5度や完全4度の固定された協和音程は万国共通であるが、2度や3度については実 に様々なバリエーションがある。読経の時に良く耳にする自然発生的な完全5度や4 度は最も原始的な和声感であろう。スコットランドのバグパイプ等に見られる完全5 度の持続音は古い時代の音楽の調性感の原型であろう。これらの5度音が属音として 主音とセットになったのが調性の始まりであろう。
これら完全5度や完全4度に支配されてきたのが西洋音楽であると言っても過言で はない。我が国の三味線音楽にも見られる完全4度や完全5度の調弦も同じである。
つまり、旋律というものはでたらめにピッチを並べたものではなく帰属すべき音か ら離れたり近づいたりして動くのである。この帰属すべき音を核音と呼んだり主音と 呼んだりするのであるが、終止感を出す場合にはそれらの音に近接した音を用いる。 その音程はほとんどの場合「半音」であり導音と呼ばれる。
全音ばかりの構成では完全4度や完全5度は形成できないので一つのテトラコード やトリコードには自ずと半音が含まれているのである。
ごく初期の単旋律は恐らくこれらの法則を持たない、赤ん坊の歌のようであったに 違いない。同様に音楽的認知の初期段階も極めて単純な旋律認識や模倣から、一定の 情動を喚起する方向へと陶冶されて行くのであろう。
音楽療法の世界では鬱病等の精神的障害を改善するのに音楽を患者に聴かせること をする。経験的にというより施術者の主観で選ばれた曲が用いられるのが普通である が、何故その曲が選ばれるのかという客観的根拠は持たない。SR理論による行動心 理学ではその情動喚起についてはブラックボックスのままである。強いて言えば音楽 を聴く人の【期待値】からの【逸脱】が情動を喚起するらしいことがわかっている程 度である。
この【期待値】が既に学習された認知構造に基づくものであることはほぼ確かであ る。音楽的に優れた能力を持つ人に音楽療法が無効なのでもそれはわかる。人は何故 同じ曲を繰り返し何回も聴くのか、何故結果を知っている忠臣蔵を毎年観るのか。 知っているにも拘わらずあたかも知らない自分を演出し、初めて接するような態度を とるのは何故か。人は自ら情動反応を期待し、常に新たな期待値を設定しているので ある。
旋律はその自然な流れから聞き手に期待値を生じさせる。その旋律が既知のもので
あればあるほど一定の期待値が聞き手に生ずる。優れた作曲家は誰も考えつかなかっ
たような旋律を創造する。その旋律の流れが一定の感情を代表するようなメッセージ
となるように。
コミュニケーションとしての音楽は【メッセージ】を聞き手に運ぶ。そのメッセー ジは作曲家が譜面に書いたもの以上に演奏家の解釈やパフォーマンスによって決定さ れる。このパフォーマンス要素の内、テンポの揺れとダイナミックスの揺れでは、ダ イナミックスの揺れの方が聞き手の心を揺さぶることが実験(前田圭子 1995)によって明らかにされた。
では、このダイナミックスのゆれは認知の結果なのか知覚の結果なのかと言えばむ しろ一次的認知である知覚が重要なポイントとなることは明白である。次第に強くな る演奏は興奮や高揚感を期待値として生じさせるし、次第に弱くなる演奏はその逆で 鎮静感や安らぎを期待させる。もしその時テンポも遅くなれば休止感を期待値として 伝える。音楽は情的行為であるが、その情感を知的に確かな技術により演出するのが パフォーマンスであると言えよう。
このパフォーマンスの要素を正確に受け取る能力はまず知覚のレヴェルである。音感 と呼ばれる音楽的聴覚の問題である。
ゲシュタルトとしての音楽と研究対象としての音楽の間には大きな隔たりがある。 これはあたかもフランス料理と栄養学や食物学の関係に似ている。味覚という知覚認 知を通して、料理を味わう人に、カロリー計算や栄養分析は無縁のものである。音楽 を味わうのは和声学や楽典ではなく聴覚であるという意味で音楽と料理は極めて良く 似た世界である。その意味では料理も芸術であろう。
マーセル(前述)は音楽を「音による詩」と定義づけた。詩は決して具体的ではな い。しかし、詩に用いられる言語には一定のスキーマが要求され、それの欠如した者 には詩は理解できないばかりか味わうこともできない。同様に音楽にも一定のスキー マが存在するはずである。この仮説を検証することが音楽認知の研究の急務であると ともに大きな壁でもある。
個体発生は系統発生を繰り返すというチャールズ・ダーウインの進化論の言葉を 音楽的発達に当てはめると、ひとりの人間の音楽的発達と人類の音楽的発達を相似と 見る考えることができる。この発達の過程をそっくりそのまま一人の音楽的発達に重 ね合わそうというのが筆者の考えである。
音楽史において最初に登場する旋律は単旋律である。例えば子どものわらべうたが 3〜5音の組み合わせであるように音楽史も簡単な音列から複雑なものへと発展して ゆく。単純な単旋律もやがてポリフォニーあるいはホモフォニーという方向に分化発 展し、現代音楽へとたどり着くように一人の人間は少しずつ複雑な音楽を獲得してゆ くのである。これは決して現代音楽を最良最善のものとして「価値」の変遷とは見な さない。それぞれのステップ(発達過程の)がそれぞれ最良最善の価値を持つからで ある。それぞれのレヴェルの人間にとって最も自然な「期待値」を生成することが音 楽の詩的価値であり、芸術的価値でもある。
人間の成長や発達は主として身体的な強度・構造にみられるが、最も人間らしい変 化はその脳細胞に起こる。シナップスの新たなネットワークがスキーマを構成してい ることは既に突き止められている。「カオス」が創造性と関係があることもわかってい る。「心」の働きと前頭葉の間に関係があることもわかっている。しかし、こうすれば こうなるという因果関係や相関関係については認知理論だけでは説明がつかないのが 現状である。