アメリカ・ウェスト -3-
ホットスプリングスからグランドキャニオンへ

福本謹一

 西部では、大抵の都市が地平線上に忽然と現れる。しかし、オクラホマシティーには、そうした突拍子さはなく、都市の輪郭にいつしか吸い込まれていた。オクラホマシティーには、高層ビルも少なく、都市にありがちな仏頂面をした趣がないのである。H氏が「オクラホマに来たらここしかないでしょう」と言うので、まず最初にNational Cowboy Hall of Fame &Western Heritage Center(カウボーイの殿堂・西部文化センター)を訪れることにした。入り口を通り抜けると正面に高さが4,5メートルもある石膏像が来館者を威圧する。「エンドオブトレイル」と名付けられたその像は、馬上のインディアンを表したものだが、いずれも疲弊し、首をうなだれている。その様はネイティブ・アメリカンの過去を如実に反映している。もともと、1915年のサンフランシスコで開かれたパナマ運河記念万博で展示されたものであるが、その後このセンターに引き取られたものである。館内には、カウボーイの偉業を称える絵画や生活用具の展示もさることながらこうしたネイティブ・アメリカンの歴史を伝えることも忘れてはいない。白人のネイティブ・アメリカンに対するカタルシス的で行政的な臭いもしないではないが、展示方法に手抜きをしないところに好感がもてるし、博物館におけるパブリック・ディスプレーを考える上でも興味深い場所であった。
 次に訪れたのは、インディアン保留地の各部族の民芸品を売るコミュニティーセンターである。インディアンの小学生の絵も廊下に展示してある。パタン化された模様や生活の記録が描かれたものが多いが、色彩が赤茶色のものが多く、民族的な嗜好を反映したものと考えられる。そこのギフトショップでホピ族のカチナドールに魅せられてしまった。かつてのホピ族の栄光を象徴するかのように様々な姿を象った木彫りの人形のカチナは、蒐集家も多い。彼らの作り出す造形世界は、アメリカ・フォーククラフトとは違った文脈において生き続けているし、スピリチュアルな光彩を放っている。ボクがカチナドールにこだわっている様子を見てHさんが「先を急ぎましょう」と促す。まだ旅が始まったばかりだというのに、$240ドルもするカチナに手を出してしまった。彼らの民芸品は、全体的に高い。古いカチナはそれこそ手が出ないが、現代のものでも、ネイティブ・アメリカン支援金に回されるらしく金額の設定が高いと感じられる。ともかく、ボクには民芸品であれ何であれ、すぐ欲しくなって衝動買いをしてしまう癖がある。Hさんにはそうしたモノフェチな部分がない分、情報収集は多面的だし、行動的である。
 カチナドールのせいか、ミュージカルのイメージとは異なった印象をもってオクラホマシティーを後にすることになった。40号線の周囲は次第に荒れ野になると同時にパノラミックになる。道が地平線に向かってフェイドアウトしていくようになってきた。いつの間にかオクラホマ州を超えてテキサス州に入っている。アマリロまであと80マイルの表示が過ぎる。途中から白地に黒文字の傷んだルート66の標識と青と赤の40号線の標識が縦に並んで表示されるようになる。ルート66は、シカゴとロサンゼルスをかつて結んだ道で1926年に誕生して以後The Mother Roadという愛称で親しまれてきた。全長2448マイル(約3940km)、道沿いには廃業したガススタンドやモテルそしてレストランなどか゛時代の面影を伝えている。ルート66は、1970年代にインターステートが導入されてからその役目を終え、1985年にはアメリカの公式地図からRoute66の文字は消え去っている。寂れた農家の庭先で朽ちた風車が時を刻むように回っているのを目にして、荒涼とした土地にも時代の変化が音を立てて通り過ぎていることを実感するのである。
 スペイン語で「黄色い土」を意味するアマリロで早い夕食を取ることにした。ゴールデンドラゴンと表示された中華料理店に入ることにした。中国系の顔をしたウェイトレスがてきぱきと注文を取る。客もメキシコ系か中国系が大半のようで、白人は少なかった。アマリロを過ぎると、ニューメキシコ州アルバカーキ216、フラッグスタッフ535、ロサンジェルス1007マイルの表示が見えた。言葉を交わすことも少なくなっていた単調なドライブの中でロサンジェルスの表示は達成目標を確かめたような気分にボクたちをさせた。アルバカーキに入る頃には、夕闇が迫ってきた。途中コンチネンタル・ディヴァイド(分水嶺)の大きな看板が立っていた。その巨大な看板に書かれたコンチネンタル・ディヴァイドの文字はあまりにも投げやりに描かれたもので、記念撮影の背景にはふさわしくない代物であったがそれでもシャッターを押さないまま通り過ぎることはなかった。周辺はなだらかな荒れ野が続いているせいで分水嶺であることがピンとこない。地図で見ると確かに北はコロラドのロッキー山脈へつながっている。空気のせいか、夕焼けが複雑な階調でゆっくりと変化する。その夜は、そこから40マイルほど先のギャラップに泊まった。
 翌朝、車もまばらな道をまた西へ向かう。ノースアメリカンという大きなロゴのトラックを追い抜くと、道路の両側がせり上がって壁のように黄色い土盛りがしばらく続く。その壁に朝の光を受けた車影が投影されて、形と大きさを変えながら併走する。その陰の動きにある種の感慨を覚えた。前方の地平線に放射状の雲が広がる。あたりは黒褐色の土色に変わっていた。古ぼけたトラックが我々を追い抜いて行くが、その後しばらく他の車を目にしなくなって空もどんよりとしてきた。ステップ草原という形容が正しいかどうかわからないが、枯れた低木が広がった荒野の途中で運転を交替した。気温も前日までと違って低くなって、ようやく冬らしさを感じるようになった。地平線まで続く道が起伏を繰り返し、辺りに西部らしい光景を見せ始めていた。60年代頃の赤い車にカウボーイハットの男がこちらを見向きもせず追い越していく。雪が薄く積もった草原を抜けると急に晴れてきて、両側に土壁のある家並みが点在するようになった。インディアン保留地であることはすぐさま見て取れたが、緑もない貧しい光景である。そして、その無秩序な家並みは雑然とした日本の市街を連想させた。その先に目線をやると、貨物車両が遠景を区切るように横切っていた。その連結車両の長さに驚かされた。サンタフェ鉄道に違いないと地図を確かめることを忘れて、29、30、31…とひたすら数えることになった。光景から消えそうになって、Hさんがスピードを落とすが、結局何両だったのだろう。信じられない長さだった。驚愕は旅行を価値づけていく。
 「アリゾナ州にようこそ」の表示からしばらくして「ペトリファイド・フォレスト国立公園」の案内が見えた。Hさんが「まだ早いしちょっと寄っていきましょうか。あまり知られていない所ですけど」と言う。グランドキャニオンまでは2、3時間で行けそうだし、何も思わず従ったが、この化石木森林公園は記憶に鋲を打ち込むほど印象的なものになった。
 40号線はペトリファイド・フォレスト国立公園を横切っているために降りてすぐの所に入り口がある。そこから案内所までそれまでの光景とは違った風景の中を走る。まるで塗り分けられたように様々な色味の地層が露わになった丘陵が周囲を取り囲み、予想もしなかった異次元の空間が広がった。ペインテッド・デザートと呼ばれるその場所は見渡す限りその塗り分けられた丘陵が拡がり、我々以外に訪問者を見ることはなかった。一部にはプエブロ・インディアンの住居跡や彼らの絵文字が岩場の奥に残されていたりする。また洪積世の化石木が岩間からのぞく箇所や、岩と岩の間に橋のようになった場所が、非日常的な感覚を増幅する。Hさんもボクも無言のまま感激を共有していた。車を降りて足を伸ばすと、化石木の破片のようなものがあたり一面に散りばめられている。しかも地面は柔らかく感じた。その地面に残された自分の足跡を見てどこかの惑星に降り立ったような気分になった。
 森林公園から1時間少々でフラッグスタッフという街を抜ける。そこから40号線を降りてグランドキャニオンへ向けて北上した。途中アリゾナの隕石クレーターに寄る。直径が1マイルほどもある巨大なクレーターである。このあたりには土産物屋も何もないところがいい。クレーターを出発すると、グランドキャニオンまで54マイルの表示が見えた。次第に険しい岩肌が露出した森の中を進む。午後4時頃になってリトルキャニオンという峡谷に達した。「リトル」と名付けられていることで過小評価している部分もあってかこんなものかという思いはあるが、それでも結構深い谷間にリトル・コロラド川が流れる。グランドキャニオンまでもう少しである。
 ようやく、グランドキャニオンの端にたどり着いたが、100マイル近く東西に広がっているので、ビューポイントはいくつもある。国立公園のゲートを過ぎるが、無人であった。午後5時を過ぎているので、それ程のんびり回る時間はない。コロラド川のくっきりと見えるポイントに立って初めてグランドキャニオンを追体験した。追体験したというのは、小学校6年時に人から借りたグロフェの組曲「グランドキャニオン」を聞いて以来、グランドキャニオンの視覚情報に汚染されていたせいでその情報を確認する程度のものになったからである。ベール上の冬の雲が広がる下をいくつものポイントを西へ移動するが、その感覚は変わらなかった。ペトリファイド・フォレストの感激の余韻が、クレーターもその後のグランドキャニオンさえ色褪せたものにしてしまったのである。
 ギフトショップに立ち寄ったが、グランドキャニオンのキーホルダーなどより、メキシコの工芸品に惹かれた。ギフトショップを出ると峡谷に満月が昇り始めた。暮色が深くなってきたので、グランドキャニオンを後にした。
 フロントウィンドウに見え隠れする月を眺めながら、何となく感じていたことがある。アメリカの国立公園に共通するのは、整備が行き届いていることと、環境への限りない配慮である。国立公園という制度は一面でネイティヴ・アメリカンを都合よく移住させ、ヨセミテ国立公園のように金鉱の権益を政府にもたらすものであったかもしれないが、環境を保全するアメリカ型の優れた様式の面も併せ持っていると言ってもいいだろう。環境は日本では「鎮守の森」という宗教的な呼称によって人の出入りが制限され、結果として保全された面はあるが、近代的な意味での積極性はそこにはない。
 コロラド峡谷を西へ向かうが、辺りは真っ暗である。標高はまだかなりありそうであった。1935年ミード湖に建設されたフーバーダムを過ぎるが、照明が暗くてその実感さえない。ライトに照らされた周囲だけが左右に動く。エンジン音が乾いた音を立てていた。
 その時である。Hさんとボクは同時に声をあげた。暗闇の中に忽然と煌めく光の集合体が遙か彼方の下方にまたたくのが見えたのである。ラスベガスに違いなかった…。

つづく