アメリカウェスト

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福本謹一

 

 留学をして2年半が経とうとしていた1980年の冬休み、Hさんといっしよにナッシュビルから西海岸まで車で旅をすることになった。Hさんは、28歳の外務省の2等書記官で経済学部の修士課程に派遣されていた。ボクとはナッシュビルの日本人会を秋に組織して活動をいっしょに始めたばかりの間柄であった。彼がクリスマス休暇を利用して西海岸まで車で旅行しようという。彼と違つてわずかばかりの奨学金で食いつないでいたポクには結構きつい申し出だったが、彼の車で行くことを条件に結局行くことになった。ルームメイトのジョンも一週間前にニューヨークへ帰っていたので、ナッシュビルで一人過ごすよりはましかなという思いもあった。  
 町のどこかしこもクリスマス一色の12月19日の朝、Hさんがヴァンダービルトの学生アパートの前に迎えに来てくれた。神学部の博士課程に在籍していたYさんも見送りにということで駐車場に来てくれた。Hさんの車はフオードのミッドサイズだったので結構楽賃であった。カーステレオが付いてないので、彼はラジカセを持つてきていた。12月にしては暖かい日差しに送られるようにナッシュビルから最初の町メンフィスに向かった。
 メンフィスまでは4、5時間の距離である。学生がよくやるように車の後ろの窓ガラスにもVanderbilt Universityのシールが貼られていたが、そのシール越しに冬枯れの色の中を道が真っ直ぐに流れていった。
 メンフィスは、ミシシッピ河の川縁に位置する。メンフィスは人口60万程なので、小さな都市である。ピーポディー教育大学(ヴァンダービルト大学教育学部)も鉄道で財をなしたピーボディーの名を冠しているが、メンフィスの中心にあるピーポディー・ホテルもその名にちなんだものだ。さほどアイデンティティ一を感じられない土地ながら、二人でひととおり名所を親光した。
 最初に市民権運動家の一人、マーティン・ルーサー・キング牧師が1968年に暗殺されたモーテルに立ち寄る。結構迷つたあげく、ようやくたどり着いたものの、あたりに人影もなく、案内の表示すらあまりに小さかった。何の変哲もないモーテルの駐車場からその場所は見通せた。2階のそのドアのベランダはアクリル板で囲われ、その内側にキング牧師を弔うリースがかけられていた。色褪せたリースを見ていると、人々の記憶の風化を眼のあたりにするようであった。公民権運動そのものへの関心はなかったが、黒人が過半数を占めるというこの閑静な町で彼らの思いを察することは難しそうであった。
 遅い昼食をマクドナルドのオリエンタル・サラダで済ます。以前メンフィスには、グローバル教育の学校巡りで同じ院生のキャロリン・ホルトと一度訪れたことがあった。その時は発表の準備やら雑務でどこにも行けなかったが、ケイジュン料理で知られるレストランでスパイシーな料理を楽しむことができた。今回の旅行はファースストフードが多くなりそうであった。
 メンフィスに限らず南部の町では、サザン・コンフオートやサザン・ホスビタリテイーという言葉を耳にするように東部とは違つた時間の流れや雰囲気を感じることができる。それでもカーター以来サンベルトという南部の経済開発の動きが活発で、宅配便会社フェデラル・エクスブレスもこの町を拠点にして発展した。
 メンフィスの観光ではずせないのはエルビス・プレスリーの住んだ家である。彼は、音楽活動の中心をここにおいていた。彼の家はグレイスランドと呼ばれているが、その家の金属製の門扉には、エルビスのギターを弾く姿や音符などがかたどられた飾りが付いていた。1977年に死去して間もない頃であったためか、庭に設置された墓石は輝いていた。その側にギターの縁を花で覆つた花飾りが立てられて、彼を偲ばせていた。彼の乗っていた車はナッシュピルのカントリー・ミュージック博物館に置かれていたが、それ以外彼の使つていた家具やピアノなどはそのままに保存されていた。 メンフィスを後方に見ながらミシシッピ川を渡るとその広さが実感された。対岸の木立にそれこそ黒い塊のように舞う無数の烏が見えた。ニッサンのフェアレディZ(あちらではZ-300と呼ばれていた)が側をすり抜けるように追い抜いていった。南北戦争の頃から綿花の流通で栄えた町を日産の車が走る。(ナッシュピル近郊スマーナに日産の米国工場が立ち上がったばかりであった)80年代に突入して緊密さを増した日米の経済関係が薄暮のメンフィスを背景に浮かび上がった。

つづく