ヨーロッパの青い空
その1
Europe in Retrospective


福本謹一
1993夏



いまから20年前の1973年の夏、大学のサイクリング同好会の先輩に誘われてヨーロッパを巡ることになった。先輩はインド系の混血で風貌はアラブ人そのものであった。その先輩の義兄が国営エジプト航空の社員であったつてで、特別格安料金でヨーロッパ往復の航空券を手を入れ、50日間のヨーロッパ・サイクリング・ツアーを組むことになった。結局同好会のメンバーは、先輩とボクの二人だけで、後は先輩の親戚やら知り合いやらで総勢10名。自転車をもっていくのは、5人。後の連中は、バックパックやバス旅行を計画していた。最初の5日間と終わりの5日間は全員一緒に行動するが、残りの40日は自由である。サイクリングの他の4人はベルンから北へ向かうという。ドイツ人のペンパルに会うことになっていたボクは、彼女たちの都合で、一人で旅をすることになった。


雲海の上をかすめるように月が飛ぶ。時折、鈍い光のベールに隠れながらダイヴするのだ。朦朧とした心の状態に次第に輪郭が与えられていく。耳元を「ディナ」と食事を知らせるステュワーデスのフランス語訛りの英語が流れていった。彼女の彫刻的な瞼には、ターキッシュ・ブルーのアイシャドウが厚くほどこされ、クレオパトラの化身であるかのようだ。エジプト航空は国営なのでステュワーデスは、国家公務員ということになる。上流家庭の出身でなければなれないと聞いた。夕食のプレートが置かれたのを見届けながら、再び寝入ってしまったようだ。
白い布を頭に巻いた猫背の小男が、何か得体の知れない白い霧を撒き散らしながら近づいてきて、いきなりボクの顔にその霧を吹き付けた。そしてフッフッと声を発しながら影だけを残して走り去った。「おい、起きろ。アフリカだぞ。」聞き慣れた先輩の声がした。経由地のボンベイ空港で給油中に、機内に昔なじみの噴霧器をもった白いターバンのおじさんが入ってきて、シュッ、シュッと天井に向けて何かを撒き始めた。そのおじさんの夢だったのだ。消毒をする行為であることはすぐに見て取れたが、その噴霧器が昔、家で使っていた殺虫剤を撒くものにそっくりで、その時は自分が害虫になった気分になった。それにしても、それ以来噴霧器がインドのシンボルとしてボクの頭にインプラントされたのである。噴霧器といえばインド、インドといえば噴霧器と可逆反応が起こり続けている。
エジプト航空MS865便の背景には、薄茶色の世界が下からせりあがってきた。まるで、海底に沈んでいくかのような錯覚に陥った。羽田を7月 14日午後2時45分に発ってから22時間が経とうとしている。形としては近代的な建築物も茶系のモノトーンの中でくすんで見える。入り組んだ駅の操車場や迫りくるアラブ寺院が、これから 入り込む「世界」を予感させる。

エジプト市内のカン・カリリ・ホテルに一泊して次の朝ギゼへのバス旅行。蝿が同じ食事をうるさくつついていた以外、ホテルの食事に何をとったかは覚えていない。朝出がけに廊下の窓から外を見やると、
向かいのアパートのような階段を降りかけたおばさんたちと眼が合った。手を挙げると、二人とも顔に精いっぱいの笑いを浮かべてエキゾチックな挨拶を返した。投げキッスもおまけについてきた。
ボクの自転車の入った輪行袋を運んでくれた若いボーイは16、17で屈託がない。外に出ると物売りがしつこく金色の腕輪と絵はがきを売りつけにくる。観光客から覚えたのか、「絵はがき5枚1ドルか3円」と日本語で叫びながら、バスが出発しても外にぶら下がって結局ピラミッドまでご同行となった。3円の方が安いに決まっているのにと思いながら、ピラミッドの下でついに彼に1ドルを差し出した。
ギゼから帰って空港までのバスを待つ間、ホテルのバーでコーラを注文した。金髪のフランシスというカウンターの女の子は、アルバイト。エジプト人の顔立ちとはほど遠いものがあったので「エジプト人に見えないね」と尋ねたら、「先祖はフランス系。北部は、私のような金髪も多いわ」と優しい声で答えた。自転車を入れた輪行バッグを見て「それなあに」と不思議そうな顔をするので、「明日からヨーロッパをバイシクリングするんだ」と言うとコーラをもう一杯おごってくれた。
 飛行機は黄色いアフリカ大陸と紺色の地中海の湾曲を後にしつつあった。ナイルが下にある。ボクは記号をもたない地図を眼にしながら、感激していた。
しばらくして唐突に「アルプス山脈を通過しています」というアナウンスに乗客の頭が規則正しく窓に向いた。細かい傷が無数についたプラスチックの二重窓の向こう側で突然のように雪をまとった岩山が上下し始めた。グレーと白の斑模様の山間に羊の群の動きがある。
そのうちジュネーヴ上空に達して深緑の森に点在する白い家々が見えてきた。時間がもたらす変化をこれほど急激に感じたことはない。もう一度、「クレオパトラ」と名付けたステュワーデスの顔を見つめた。アフリカとヨーロッパ。何という色の対比。先ほどまでの黄色い大地と緑の世界。緯度的には、北極と南極は対極をなす。バイポラリズム(bipolarism)という言葉もあるくらいである。しかし、黄色と緑、砂漠と森、薄黒い肌と白い肌、色味から文化まですべてここが極地のようだ。レマン湖の噴水はまるでここが地軸だと主張するかのように白い弧線を吹き上げていた。頭の中でいろいろなことが同時にコトコト音を立てていた。
3日間は、ベルンで宿泊予定だったので、ジュネーヴからベルンへは列車を使うことになっていた。空港からジュネーヴ市内に入ったのが昼前。ベルンへは3時12分発の普通で行くことにして、それまでは各自市内観光をすることになった。ボクは自転車のことが心配だったので、駅前で輪行袋を一人解き始めた。ごつごつとした感触が手に伝わってくる。まるで死体袋のようだ。袋のジッパーを開けると赤のメタリック・カラーが光った。周りでスイス人が物珍しそうに足を止める。飛行機で運ぶために空気圧を押さえていた3/4インチ幅のタイヤや大阪の小さな自転車専門店トモダが作ったクロモリブデン・フレームをチェックした。北陸や東北の雪道を経験しているもののフレームには、まだわずかな傷しかついていない。スポークも曲がってはいなかった。ポタリング用のハンドルをつけた後、車体をひっくり返してタイヤを装着し、ウィングナットを締めた。島野製作所製の変速機にチェーンをかけようとしたが、辺りの眼を気にしているせいか、どうもうまくいかない。やっとの思いでかけた後ギア・チェックをする。ドライバで微調整をするが、異常はないようだった。最後にフランス製で女性用の皮のサドルを取り付ける。長距離を走るのには、幅広の女性用の方があっていた。組み立てに10分もかかっている。いつもなら5分足らずでできる作業だった。ペダルのハーフクリップに左足をかけてけり出したが、スイス人の視線をまだ背中に感じていた。
足慣らしと、ドイツ語で道を聞く練習をしておく必要がある。「グンターフラ・クンツェ」だの「ケンジーミーア・スプレッフン・アウフ・イングリッシュ」などテープで覚えたドイツ語の復習を口をもごもごさせながらした。教科書だと「グーテンターク・フラウ・クンツェ(こんにちわクンツェ夫人)」だし「ケネン・ジー・ミーア・・・(英語で話していただけませんか)」なのだが、何度聞いても「グンターフラ・クンツェ」だし、「ケンジーミーア・・・」なのである。一応はテープで聞いた方を信じてトライしてみることにした。市庁舎をちょうど曲がった所で、「クンツェ」らしきおばさんを見つけて、来たばかりのジュネーヴ駅へ行く道をわざと聞いた。駅への道を聞く場面は「ベイシック・スポークン・ジャーマン」のテープ10巻の旅行編の最初にでてくる。自信を持って聞いたボクは予想もしなかった展開に唖然とした。そのおばさんは、にこやかな笑みを満面に浮かべて、「ボンジュール・・・」ときたのである。基本的にドイツ語圏を回る予定にしていたボクは最初からずっこけることになった。
女性の二人組が集合時間になっても現れないので、ベルンへの列車を遅くすることになった。ボクの持ち物は、輪行袋に入れた自転車、フロントバック、サドルバック。中には、着替えの下着一組、単パンとポロシャツ一組、カーディガン、カメラ、シャンプー、パンク修理セット、そして丸善で購入したヨーロッパ列車時刻表一冊。自転車を除けば、50日の旅行にしては身軽といえる。ヨーロッパは乾燥しているので、下着は毎日夕方に洗えば翌朝には乾いているとふんでのこと。シャンプーは、頭だけでなくボディーシャンプー兼洗濯石鹸の役目ももっている。列車の時刻表は、彼の有名なヨーロッパ旅行者必携の「クックス・コンチネンタル・タイムテーブル」である。ちょうどその年は、クックス旅行社創業100周年にあたり、創業以来続けていたオレンジ色の表紙をシルバーのものに変えた記念号を出していた。横16センチ、縦24センチ、厚さ2センチの時刻表は他の荷物とのバランスからいって結構かさばった。
人の心配をよそに「ごめーん」で戻ってきた女性軍のせいで、ジュネーヴ17時14分発ベルン18時58分着の特急でいくことになった。驚いたことに、何人かの乗客が自転車でホームにまで乗り込んでいる。ボクらのように分解しているのではなく、完成車のままである。その謎はすぐ解けた。待っているホームに入ってきた列車のボクらの目の前で停車したところには、自転車を専用のハンガーに吊るして運ぶことのできる貨物車が連結されていたのだ。フェリーボートの自転車版である。ボクらは、「オー」とうなった。ヨーロッパでは自転車は珍しくない。駅前で覗き込んでいたのは、自転車が珍しくてではなく、分解・組立をわざわざすることが珍しかったのだ。その後、列車を何回か利用することになるのだが、結局その貨物車を利用することはなかった。ヨーロッパでは、行き先の違う客車同士が連結されていることもあって、自転車が目的地とは違ったところへ運ばれる心配があったからである。
ベルンではホテル・シュバイツに三泊した。ベルンは、首都なのに静かでこじんまりした町であった。市電の走る町にボクは魅了された。特に交通整理の婦人警官に。彼女のえんじ色の制服と肘まである白い手袋がまぶしかった。時計台、壁絵のある家、日時計、何もかもが珍しかった。熊の紋章のベルン市の市旗があちこちにはためく。巻き舌で発音するベルンは、思い出の発信地になっていく。
ベルンに滞在した間、ユングフラウヨッホやグリュンデベルクなどおきまりの観光コースを一応押さえた。そこで、大きな驚愕があった。風景の存在である。日本に風景は不在であることを否応なく意識させられたのである。絵はがきがそのことを象徴する。日本の観光絵はがきは、限られた美しさを強調して化粧され、はかなく過ぎ去った美の「遺影」であることが多いのに気づいたのである。スイスの絵はがきは実際の風景のカタログでしかない。しかも印刷の悪いカタログである。それほどスイスの風景にはすっぴんで美しさが遍在していた。誰もが京都の美しさを詠う。しかし、日本人は古都の描写に酔い、日本的なるものの美しさを一つの神話として受け入れている。それならそれで、本当に風景としての美しさを保持しているだろうか。五重の塔ならその塔だけの一点豪華主義的な美しさではないのか。カメラのファインダーを覗いて写る日本の風景には、電柱や電線がトリミングを強制し、調和という言葉とは無縁の住居や構造物が延々と続く。西欧の風景画は、17世紀頃確立されたが、その風景は元々荒野を前提としていた。その荒野の近景には整然とした建物や人間が配置される。「荒野」は、荒れ地ではなく手つかずの自然を意味していた。絵の中だけでなく、風景に対する慄然とした態度が西欧にはある。人間の住処は、その風景の従属物である。飼い慣らされることのない自然の一部として、人間も調和を求められる。遠景から人の息づかいの聞こえる近景までが連続したパースペクティヴをもって風景を形成しているのだ。一方で、日本の風景は、人間の従属物として所有され、私物化されているかのようである。もし、「鎮守の森」でしか自然をあるがままに残せないとしたら、あまりにも悲しい。
スイスの観光地への主要アクセスとなる鉄道は、ほとんどが私鉄であった。そのため料金も割高になる。ユングフラウヨッホへは、72スイスフランもした。登山列車のはるか下方に、虹が見えた。しばし虹を渡る気分に浸った。3千メートルを超えるユングフラウ駅は岩盤をくり貫いた中にある。駅を出ると外は一面の雪山である。透明感のある空の青と白いアルプスの稜線が地平まで眼を誘う。写真のシャッターを押すのを頼まれたシュレーターというケルンから来たドイツ人父子がケルンの自宅に寄ってくれと住所をくれた。
 ユングフラウヨッホの帰りの電車では、向かい合ったイギリスの老夫妻とよもやま話をした。血色の良いご主人はアランドロンと三船敏郎の出演したハリウッド映画「レッド・サン」を見てサムライに興味を覚えたとかで、映画の話になる。「バトル・オブ・ブリテン」を見たと言ったら、大戦中は、ケンレー飛行場で哨戒機のパイロットをしていたとか。レーダーで発見したドイツ軍の機影、特に爆撃機を確認するのが主な任務だったそうである。ドイツの戦闘機は航続距離が短く、大抵はフランスの海岸からすぐのところで引き返したそうだ。子どもは、15歳で家を飛び出しオーストラリアに渡ったきりだとか。孫ができた知らせがあったので、翌年は行ってみたいと言った。奥さんの方は、物静かで、どこかしら陰があった。日本人に対する違和感からかともとれたが、その時は意外な事実が隠されていることに気づくはずもなかった。数年して、ご主人から奥さんを亡くした知らせが届くことになる。スイス旅行中はすでにガン告知を受けており、その気晴らしであったとのことであった。彼女にとってのスイスはボクのものとは大きな隔たりをもっていたのだ。ユングフラウヨッホは、こうして人々の様々な思いを静かに包み込んでいた。