アメリカ・イーストバウンド
その6


福本謹一

マンハッタンからハドソン川底を通るリンカーン・トンネルを抜けたジョイスとボクは、ニュージャージー・ターンパイクという日本で言えばバイパスである95号線を南下してフィラデルフィアに向かった。ベガも故障することなく走り続けて、ジョイスのタバコの臭いさえ気にしなければ快適なドライブだった。ジョイスはアンドリュー・ワイエスをとりわけ評価しているわけではなかったので、それほど興味はなさそうだつたが、ボクはペンシルベニア郊外の995号線から少しばかり離れたチャズ・フォードにあるワイエス美術館をめざした。

 アンドリュー・ワイエスは、1917年生まれの画家で故郷のペンシルベニア州のチャズ・フォードやメイン州の郷愁をそそる風景と生活を描く人として知られている。WYETHは、ワイエスともワイイースとも発音されるが、サクサクと音を立てるような写実表現によって描かれる彼の絵は、再現的ではあるが詩情あふれる象徴的なものになっている。
 彼の絵に最初にボクが出会つたのは1974年に京都市美術館で開かれたアンドリュー・ワイエス展であるが、その迫真的な描写力に飲み込まれたその感覚は色腿せることなく再生可能であった。
 彼の父はN.C.ワイエスというブック・アーティストとして知られ、「宝島」「モヒカン族の最後」などの挿し絵を描いていた。N.C.ワイエスは、ソロー、ホイットマン、フロストといった文学者に惚れ込んでいたと伝えられており、その影響もあって反物貸主菱者だった。その父の影響でアンドリュー・ワイエスは素朴で質素な生活の裏に潜む悲哀や自然への霊感を表現する手法を体得した。水彩画家として出発した彼は1930年代にエッグ・テンベラと出会い、彼のイマジネーションを正確にとどめることを可能にした。
 彼の絵の中で有名なのは、「クリスティーナの世界」というニューヨーク近代美術館(MOMA)所蔵の作品で、メイン州のクリスティーナ・オルスンという肢体不自由の女性を描いたものである。丘の上のわが家に向かって草原を這つて進むクリスティーナの姿は、そうと知らなければ硬直した光景としか映らないが、つかの間の情景がもつ意味深さを知らせてくれる。しかし、この絵よりもボクを惹きつけていたのは「1946年の冬」という絵であった。一人の飛行帽をかぶった少年が丘を転がり落ちるように手を広げて走る姿を描いたもので、ワイエスは背景にあるその丘を父の肖像とみなしている。1946年に踏切事故で死んだ父への想いがその丘に託され、少年はワイエスの心の状態を暗示するものである。
 この絵を見たときに、ワイエスが自分を抽象画家であるとみなしていることがそれとなく理解されたような気がした。チャズ・フォードにあるワイエス美術館は、ボクの想いとは裏腹に、それこそ変哲のない道に面した場所にあった。その建物を見たとたんに特別な響きをもっていた「チャズ・フォード」は、チャーチストリートでも、シェルビーでもどこでもよい匿名性を帯びたものに転落する。それに、美術館があまりにも小さく、それこそ設立者の思い入れが感じられなかったせいで、鑑賞者ではなくまるで通行人のようにして館内を回つた。
 ボクはジョイスがなかなか出てこないのにいらいらするほど不機嫌になっていた。その様子を察してか、ジョイスがどこか食べに行こうと気を回した。このワイエス美術館への幻滅はこの旅を終わりにしてしまった。
 ワシントンに入つて、ランディの家に到着したのは美術館を後にしてから3時間ほどであった。翌日、先に帰つていたショーンがアーリントンのケネディの墓に連れて行ってくれた。その夜ジョイスたちに見送られてナッシュビルへの帰路についた。
 スモーキー・マウンテンの静寂を確かめるように何度も休みを取りながら帰つたせいで20時間もかかってナッンュピルにもどつた。南部特有の蒸し暑さが出迎えてくれた。

 終わり