アメリカイーストバウンド
その5

福本謹一


 
 フェノロサがエヴリンの曾祖父だったという事実は、ブラトルボロというヴァーモント州の小さな町で日本の美術史や美術教育を文献的知識から匂いのあるものに変えた。19世紀末の歴史的記述が、「曾祖父」という個人史の文脈で置き換えられることで身近な息づかいを感じさせて迫ってきた。人間の記憶を個人のレヴェルで考えると、家族という社会的単位の中で親や祖父母との対話によって2世代前の記憶を共有することはごく日常的に起こっている。家族内の昔語りによって数十年前の記憶が個人の記憶として保持されていく。フェノロサはエヴリンによって「100年前も前の歴史的人物」から「フェノロサひいじいさん」へ転換した。
 このフェノロサひいじいさんは日本の美術教育の歴史に大きな関わりをもっていた。彼は1885年に文部省の図画教育調査会の委員として岡倉天心とともに図画教育の有用性を説いて日本の美術教育の黎明期に大きな功績を残した。同時期に世界でも美術教育が一つの転機を迎えようとしていた。英国の視学官のエビニーザー・クックは「我々の美術教育と子どもの本質」というロンドンの教育雑誌に載せられた論文の中で、子どもの描画が段階的に発達することを初めて公にして、大人の絵を子どもに押しつけるのではなく自由にまかせることを主張した。また、1887年にはイタリアのコルラド・リッチが子どもの絵を紹介しているが、この本が英語圏でChildren's Artという訳書として紹介され、子どもの絵は単なる稚拙な絵ではなく芸術なんだという意味での「子どもの美術」という考え方が広まっていった。美術教育史の中で子どもの絵が市民権を得たのは、フェノロサが日本に滞在した頃、つまり、我々のじいさまの生まれた時代と考えてみるならば、ついこの間の出来事なのである。
 今エヴリンとフェノロサをつなぐものはわずかに壁に掛けられた3枚の浮世絵だけである。ダイエットコークを手にそれを見せてくれていたエヴリンにとってフェノロサは遠い先祖の記憶でしかない。しかし、その浮世絵の額のガラスに映ったエヴリンの顔にボクはフェノロサを見ていた。「アップルパイはいらない?」という彼女のうながしで我に戻ったぼくはキッチンについて行った。ジョイスはリビングで腕組みをしてコーヒーを片手に相変わらず口元をゆがめてメリットの煙を横向きに吐き出すしぐさを続けていた。彼女はヘビースモーカーでコーヒー好きだった。ボクもフレンチ・ローストのコーヒーをお代わりした。ジョイスが「そろそろ行こうか」と聞いたので、アップルパイを食べ終わらない内に従うことになった。エヴリンのジョイスたちへの「じゃあ、明日」という別れの挨拶がリトリートの予告となった。
 翌日、ショーンとケルステンは旅行に出かけていった。そしてジョイスとロバートはついにリトリートへ行った。「2、3日したら戻ってくるから、好きにしてて」と言われてボクはひとりぼっちになった。そしてロバートがくれた2册の本と犬のクールライトが寂しさを紛らわせてくれることになった。その2册は、カルロス・カスタネーダ本とウスペンスキーの「奇跡を求めて」だった。カスタネーダの本はピーボディーのブックストアでも山積みにされていたので、結構売れていることは知っていたが、どちらも退屈そうな本に見えたので表紙を開くことさえしなかった。クーライトと山道を散策することが日課になった。二日目に3マイルほどクーライトとブラトルボロとは反対の方へ川筋をたどってみた。途中に2、3軒同じようなログハウスがあった。道を下りきったところで農地が急に開け、山奥と思われていたジョイス達の居所も案外平野に近いことがわかった。農地にはタバコの葉のようなものが植えてあり、遠くに農家の家屋が点在していた。何が植えてあるのかを確かめに行ってみると、タバコではなかった。「何だろう」といぶかしんでいるボクの側を赤いピックアップ・トラックが土煙をあげて走り去った。
 クーライトの姿が見えないので「クーライト、クーライト」と二度ほど呼んでから来た森の道を引き返し始めた。クーライトは先に戻りかけていて、あの大きな姿を小さなかげに変えていた。時折ボクの方を振り返ってはちゃんとついてきているかどうか確認しているようだったが、距離は縮まらない。そこで、ボクは道ばたの木の枝を拾ってみることにした。するとそれを見たクーライトは急に身体をゆすりながら走り寄ってきた。その木の枝を道沿いに投げると、クーライトは吠えながらその枝を追いかける。そして、それをくわえるとボクの方へ戻ってきた。ボクが口から枝を取り戻すと、まるでまた投げることを催促するように吠える。これをくり返しながらクーライトと競争するように家に戻った。
 戸締まりは必要ないと言われていたので、鍵をかけないまま出かけていたが、一応家の中を確かめてみた。鍵をしないで寝なければならないのかとちょっと不安であった。庭に出て誰か滝の所にいないか今度は別の期待をもって行ってみたが、誰もいなかった。クーライトは後でボクの背中を見つめていたが、その哲学的な眼とあった時、少しばかり恥ずかしくなった。その瞬間にクーライトがある人格をもってそこにいるような気がした。ボクの「森の生活」は、クーライトの崇高な姿の中で時を刻もうとしていた。
 ジョイスが人間の弱々しさを痛感させると言った冬の凍てついた川の流れを想像しながらクーライトの側で滝を見おろす岩の上に足をたらすように腰を下ろした。そうしていると自分がまるで小さい頃に読んだドリトル先生の航海記にある挿し絵の少年のような気分にもなった。水の音は何かしらノスタルジックな精神の状態へ誘うための鍵を手渡してくれる。ノスタルジーの危うげさには自覚的であったが、それに支えられることを拒否もしなかった。その気分のせいでボクはふと「奇跡を求めて」の本を取りにベッドルームへ戻った。その二階の小さな窓から外を見やると、まるでスフィンクスの後ろ姿のようなクーライトと滝壷が重なって見えた。暗い室内でウスペンスキーのその本の手触りを確認しながら褪せた色調の窓枠の光景の中へ戻った。
 夏の終わりの午後は、本を読むには気怠すぎた。しかし、「奇跡を求めて」がリトリートの手がかりを与えると考えられる以上、水の音のざわめきの上でページをめくらざるをえなかった。青い表紙のその本はペーパーバックながらかなり分厚かった。目次をたどってみると、「Gとの出会い」、「第四の道」、「知識・存在・理解」といった文字がまばゆい光の中で錯綜する。初めから眼がくらくらするようだった。本をそれこそ読むというよりブラウズするといった方が正確であったが、おぼろげながらその本の性格が「感じ」られてきた。Gはグルジェフという人物のことのようであった。グルジェフ(その時はローマ字読みでグルジェフと読んでいたが、後からガージェフと発音するとロバートに教わった)との出会いによってウスペンスキーは人間の存在の謎を解く鍵というかある方法を発見したようであった。グルジェフもウスペンスキーもその発音からしてすでにそれらしい匂いを放っていたが、共に神秘思想家であることは感じとれた。「奇跡を求めて」のページをめくるにつれ難解な用語や記号、図式が登場し、ますます近寄りがたいものを感じさせた。その近寄りがたさは不可解さを増長する。ふと、後ろのログハウスを振り返った。ジョイス達はこうした神秘的なものに関わりがあるのだろうか。リトリートはそうした集まりのことなのだろうか。疑問をログハウスに向かって投げかけるうちにいつしか岩の上で眠っていた。
 うたた寝からさめるとクーライトの吠える声が聞こえた。車が通ることはまれであったが、たまに通る度にクーライトが吠えかかって追っていくのだ。普段はおとなしいが、こんな犬に道ばたで吠えられたら車に乗っていても恐怖を味わうに違いない。クーライトはなぜかロバートの家に来る車に吠えかかることはなかった。一度でも来たことのある車の音を聞き分けているだけなのだろうか。ともかく車は通り過ぎていった。クーライトはボクの姿を見ると一度吠えて散歩した下り坂を10ヤードほど走って散歩をせがむような素振りを見せる。その気にはなれなかったのでボクはクーライトの上目遣いを避けて家の中に戻った。「奇跡を求めて」は結局寝室の机に戻し、ロバートの手前ベッドサイドテーブルに置いておいた。しかし、その後留学中にそれを開くことは二度となかった。夕刻が迫り町へピザを食べに行った。ついでにブラトルボロのダウンタウンを、と言っても小さな店が10軒ほど集まっているに過ぎないが、一周した。中華料理店も映画館も明るい陽の下で見ると、決して寂れた感じはない。ナッシュビルの大学近くの映画館はペンキがはがれ、生まれつつあったショッピングモールに隣接するコンプレックス映画館に客を奪われようとしていることを物語っていた。しかし、こうした田舎町ではまだまだ町の映画館は健在だった。映画館の隣にアーミー・グッズを売る店があり、ヴァーモントの土産にTシャツを買った。
 ジョイス達のいない間は一人ではあったが、決して森の生活ではなく街の生活でしかなかったが、クーライトと滝とロッジがある種の雰囲気作りに貢献していることは確かだった。反物質主義の生活様式をシミュレートしている気になり、それこそソローと共感できるという錯覚すら覚えるのである。ソローは「私は寂しくない。牧場の一本のもうずいかや水仙や、豆の葉やすかんぽや、馬ばえやまるはなばちが寂しくないのと同じだ。水車のある川や風見鶏、四月の雨や一月の雪解けや、新しい家に巣を張る最初のクモと同じように、少しも寂しくはない」という感傷を見せるが、それと同じく、街が近くにあるという安心感に支えられた甘えた状況下での自然との同化意識が生まれる。またソローは、「天候がどうあろうと、昼であろうと夜であろうと、私は瞬時瞬時を捉えたいと思い、私のステッキにも時の刻み目をつけたいと思ってきた。そして、過去と未来という二つの極の出会い、紛れもない現在に立っていたい、その線に刻みを付けたいと思ってきたのだ」とも言っていた。我々が取り巻かれている移ろいやすさに対するその内省的な姿勢は、滝の音を聞くことで沸き上がってくるのだ。ボストン美術館にあるゴーギャンの「我々は何処から来て、何者で、何処に行くのか」の絵が格別な意味をもって迫ってくる。そのことは別にしても、ジョイスやロバートへの興味は以前にも増してふくらんでいった。
 彼らがリトリートから帰っても、彼らは特にリトリートのことを話すでもなく、まるでその時間が切り取られたように出かける前のシーンとつながった。ボクもリトリートのことを迂回するように会話した。別に避けようとするつもりもなかったが、神秘的な匂いのするものに立ち入る心構えはなかった。しかし、時折それらしい断片に触れざるを得ないこともある。近くの農家で見た植物のことを聞いてみると、ジョイスはあれは麻だという。麻はこうした土地でも手っ取り早い収入源となる植物なのと、生産量が見込めるため州も税収をあてにして栽培を奨励するとのことであった。麻はもちろん麻布として市場に流れるが、一方でマリファナの原料でもある。州は売買を目的にしたものを合法的に認めてはいないが、個人が使用するものを禁じてはいないという。マリファナは神秘学など特定の宗教と結び付けられやすいが、実際には心理学者達もマリファナやLSDなどを「アカデミック」な衣の下で用いていたとも言われている。ジョイス達がマリファナを実際に手に入れていたかどうかは分からないが、ロバートは「一般の人はとかくそうしたもので偏見を持ちたがる。一時、自己実現や至高経験といった言葉が流行ったけれど、その言葉が生まれた背景には心理学者たちがそうした麻薬の経験をもっているからなのかもしれない。しかし、自己実現にしてももっと深い精神的でエソテリックなアプローチをした人間は以前からいるんだ」と言ってウスペンスキー、もしくはグルジェフのことをほのめかした。こうした話にボクの中にも彼の言う偏見が生まれ、意識して彼らと距離を置こうとすることになった。しかし、ジョイス達はそうした偏見をごく当然のこととして受け入れているようであった。彼らの姿勢は限りなく自然体であった。
 次の日、ジョイスの肖像画に挑戦することになった。ワイエスの「マガの娘」を意識してジョイスを暗い背景に置いて描いた。しかし、油彩を短時間で仕上げるには限界がある。ジョイスは結構いらいらして会話のないポーズを取ることには我慢できない様子だった。灰皿がすぐメリットの吸いがらで埋まる。わずか二時間ほどのラフスケッチのようなものであったが、最後にカーマインの線を背景に引いて拡がりをもたせた。ジョイスは出来上がった絵をあまり批評しなかった。ボクはその無言の評価を受け入れた。彼らのスタイルからはかけ離れているし、ボクも自分のスタイルがあるわけでもなく、ワイエスやサージェントの後を追いかけたものにしか過ぎなかったからである。しかも、時間がなさ過ぎて完成度を求めることができなかったのである。それでもロバートはほめてくれた。
 その夜はケルステンも帰ってきたので、いっしょに料理をすることになった。ショーンは先にニューヨークの自宅に戻ったということだったが、ワシントンへも後で行ってボクたちに合流するとのことであった。ボクはカレーライスを作ることにしたものの、正式な作り方を知らなかったので小麦粉にカレー粉やブラック・ペパー、タマネギなどを混ぜ合わせそれらしきものに仕立て上げた。ブラトルボロには残念ながら日本食を置く店もなく、韓国人の経営する店もなかったので、ナッシュビルのように国寶などのカリフォルニア米は手に入らなかった。仕方なくインディカ種のテキサス米を調達した。やや細長くて炊きあがりも湿り気がないが、贅沢は言えなかった。
 翌日ジョイスとワシントンに向かうことになった。ブラトルボロにはボストン経由で来たが、ジョイスは「直線で行けばニューヨークはすぐよ。ニューヨークの知り合いの所で一泊してのんびり行きましょう」と言った。マンハッタンの摩天楼が見えると、「ブルックリンの近くに住んでいたの。その辺を案内してあげるわ」というジョイスに従ってブルックリン橋の所を左に折れた。イースト・リバー沿いの所で車を停める。薄曇りの日だったが、西日が摩天楼をくっきりと浮かび上がらせていた。右手にブルックリン橋がかかり、対岸には帆船が停泊したサウス・シーポートが見える。左手には自由の女神が霞む。そこはブルックリン・ハイツと呼ばれる場所で川沿いにベンチが置かれている。流行のウォークマンを手にジョギングする人の姿もある。「そこのアパートにはノーマン・メイラーが住んでいたの」と言ってジョイスは自分の生い立ちを語り始めた。
 ジョイスの両親はイタリア系でニューヨークのホワイト・プレーンズに住んでいた。彼女は1939年そこに生まれ、地元の高校を卒業すると、シラキューズ大学の障害児教育専攻(1956-1960)に進む。二年ほど小学校で障害児学級をもった後、ニューヨーク大学(1963-1965)の大学院に進みそこで障害児教育の修士号を取得した。その時期ロックフェラー・世財団の法律顧問をしていた前夫と知り合って結婚し、それこそ社交界にデビューした。すぐにケルステンが生まれたが、あまりの価値観の違いに結婚生活は長続きしなかった。その後離婚し、自立をめざしてフェアリー・ディキンスン大学(1967)でモンテッソリ・ディプロマを取得した。1967年からブルックリン・ハイツのモンテッソリ・スクール校長に迎えられる。ロバートとはその頃知り合ったそうだ。ロバートはマンハッタンにある中堅の建築事務所に勤めていたが、ビジネスマン生活にあまりなじめず、結局やめてニューヨークのソーホーで画廊を経営するという弟にやっかいになっていたという。ブルックリン・ハイツのアパート暮らしをする間、オフ・ブロードウェイのダンサーと同棲していたロバートは、同じアパートに越してきたジョイスと知り合う。そしていつの間にか交際が始まったのだと言う。ジョイスはモンテッソリ・スクールの経営とケルステンの養育を両立させていく上で、自己とは何か、人生とは何かという問いかけをしばしばするようになり、精神生活の重要さを認識したという。ロバートはそうしたジョイスに対して、ヨガやウスペンスキーの本を通じて知ったガージェフ(グルジェフ)のグループについて紹介し、その後2人でヴァーモントのグループの夏季リトリートに参加する。そこでのワークには自己意識覚醒の瞑想を始め、共同作業が含まれており、多くの有名人も参加していたという。彼らのグループは、決して宗教団体ではなく人間の存在そのものを尊厳あるものとして、自己と他者、自己と自然、自己と社会の融合を図ろうとする高度に精神的でホリスティックな活動だとジョイスは説明した。ボクが「なぜそのグループについて説明してくれなかったのか」と聞くと、ジョイスは「あなたが聞かなかったからよ。それに私たちはグループのことを人にわざわざ紹介したり誘ったりすることはしないの。神秘学とかスピリチュアルなものと聞くだけで人は誤解してしまいやすいし、変な目で見られるのよ」と答えた。ともかくそうした出会いによってロバートはダンサーと別れてジョイスと結婚する。モンテッソリ・スクールはブルックリンハイツの住人の高齢化によって経営難になり、場所を移した。スクールのあった場所は本屋になっていた。ジョイスが1973年にニューヨーク州教育委員会のブルックリン地区障害児教育指導主事になって以後、2人はヴァーモントへの転居を考えるようになる。1977年にマサチューセッツのキーン大学にジョイスは移り、ロバートはブラトルボロにログハウスを建て始めるのである。
 彼女の思い出話が続く間に対岸のマンハッタンが薄暮の中できらめき始めていた。涼しい風がイースト・リバーをさかのぼる。ジョイスが「サウス・シーポートの近くにイタリア・レストランのいいところがあるのよ」と言ってはじめてお腹が空いていることに気付いた。ブルックリン橋を渡る鉄板でできた路面の継ぎ目毎にタイヤがブンブンと音を立てる。その断続的な音が耳に心地よかった。夕食を済ませてから、セントラル・パーク近くのプレイボーイ・クラブに飲みに行った。バニー・ガールを間近で見ることは雑誌以上に刺激的であった。そこでもジョイスの思い出話は続いた。しかし、ボクの興味はすでにバニーガールに移っていて彼女の話はワインを素通りしていった。結局ジョイス達の知り合いのアパートに着いたのは夜中近くであった。アパートはタイムズ・スクエアを南に2ブロックほど下ったところにある。そこはロバートと同じチェコスロバキア系で国連に通訳として勤めるエヴァのアパートであった。アパートといっても50階建てのビルの一部で中が複雑に入り込んでいた。ベッドルームがいくつあったのかわからなかったが、エヴァやジョイスがどこに寝たのかわからなったし、ボクの寝た部屋の位置もよく分からなかった。窓から見えた暗いビル群と屋上からの無数の蒸気が印象的だった。
 翌日、エヴァが国連を案内してくれる。受付でテネシー州の免許証を預けて簡単な手続きをするだけでヴィジターとして観光客ツアーでは入れない場所へ行けた。イースト・リバー沿いに建つ国連ビルの34階にある彼女の事務室は摩天楼を見おろす西向きで絶好の位置にあった。エヴァは「女子トイレの窓は一枚ガラスでそこからの眺めが最高よ」とウィンクしてジョイスと一緒に入っていった。ジョイスが「一緒に来る?」とからかう。エヴァはチェコ語、ロシア語など6ヶ国語を話せるらしく、普段はテレックスや事務文書を翻訳するが、会議の時は同時通訳ブースに入るそうだ。昼食は国連職員専用のカフェテリアで一緒に食べた。場所柄いろいろな人種がいて、職員の家族らしき人も多い。子どもたちも結構混じっていた。職員専用という響きとは裏腹に和やかな雰囲気があった。出がけに地階の国連郵便局で国連切手と絵はがきを買って家に便りを書き送った。
 その晩はブロードウェイで「エレファント・マン」を見た。映画化されていたことやデイビッド・ボウイが主演することで話題を呼んでいたが、残念ながらその夜は主演は彼ではなかった。次の日ワシントンをめざすので早めに引き上げたが、アンドリュー・ワイエス美術館がマサチューセッツにあるものと信じて来がけには通り過ぎていたのが、ペンシルベニア州チャズフォードにあることを知って立ち寄ることに胸を躍らせていた。

続く