アメリカ・イーストバウンド
その1

福本謹一


ミニュウ・マドジャメリのアパートへ彼女を迎えに行ってからボクたちはナッシュビルを後にワシントンへ向かった。
クローガー1)でコーヒーの50倍のカフェインが入っているという「ノードーズ(眠気知らず)」という名の薬を買った。夕方の6:00をまわっていたが、1979年の夏を探す日差しはまだ鋭角によぎっていた…。 


ミニュウはピーボディー教育大学の修士課程で美術を専攻するイランの留学生であった。ナッシュビルにはイランからの留学生が結構多く、ジョージ・ピーボディー教育大学と21stストリートを隔てて隣接する南部の名門ヴァンダービルト大学には経済学部が知られていることもあって、その大学院にはイランからの留学生が20人あまりもいた。その多くはイランの大蔵省や外務省の中堅管理職で30台後半から40台であった。修士号や博士号をとって帰ればパーレビ国王のもとで彼らの将来は明るい、いや明るいはずであった。しかし、1979年1月に国王がフランスに亡命して以後彼らの未来は暗転した。ピーボディーのウエストホール学生寮でボクと同じ階にいたマムートは文部省高等教育課の係長で派遣留学生として在籍していたが、イラン革命のお陰で国からの給付金は途絶えた。以前から彼の部屋には人柄のせいか、ヴァンダービルトのイラン人たちがいつも集まってきていたが、78年から79年にかけて、革命が噂される中、彼らの顔つきが険しくなっていくのが読みとれた。「ファッキン・コックローチズ!(くたばれゴキブリ)」と叫んではいつも人を笑わせていたミヤーンもジョークを飛ばすこともなくなっていた。マムートにとってイラン革命は二重の痛手であった。同じ78年から79年にかけてピーボディーは、経営困難を理由に身売りを考えていた。経営陣は隣のヴァンダービルト大学に「マージ(提携)」することを当初からもくろんでいたようだが、ヴァンダービルトにとっては瀕死のピーボディーを丸抱えにすることは得策ではなかった。しかし、ピーボディーがテネシー州立大学との交渉が成立しそうだという情報を地元紙のテネシアンにぶちまけ、最後のカードをちらつかせたことで、ヴァンダービルトは教育学部としてピーボディーを組み入れることをしぶしぶ決定した。ピーボディーの思惑は当たったのである。ヴァンダービルトはピーボディーの心理学及び特殊教育の研究部署であったケネディー・センターだけに触手を伸ばしていた。全米で6大学にあるケネディの名を冠するセンターの一つをヴァンダービルトの傘下に収めるだけでよかったのである。しかし、ピーボディーは心理学のオレゴニアン2)を多く擁する心理学や特殊教育で知られていたが、他の学科を見捨てることはできなかった。少なくともヒューマニスティック・エデュケーションを標榜するピーボディーは、教員の人事措置においても研究より教育を重視していたし、立場上も切り売りすることはできなかった。100年の歴史をもつ私立教育単科大学のピーボディーのプライドを捨てることはできなかったのである。対等な取引であることを強調するかのように「マージ」という言葉を最後まで使い続けたのもそのプライドがあってのことなのだろう。しかし、ヴァンダービルトは経営権を引き継ぐ代わりに学科を統廃合し、教員には徹底した業績主義を要求した。学部・現職に対する「教育活動」よりも「リサーチ」志向の業績を求めたのである。そのため「ヒューマニスティックな」、つまり人間的だが、言葉を返せば「やわい」教育実践主義の教員は首を切られた。このことはしかし、学生の間にちょっとした運動を引き起こすことになった。ピーボディーの学部生や大学院に在籍する現職教員たちは毎日のように学生会館前をデモした。「ヒューマニズムよアカデミズムに屈するな」「教育はどこへ」というプラカードを掲げた学生たちのシュプレヒコールは3月の「マージ」まで続いた。このピーボディーの身売りによってもマムートは行き先を失ったのである。家族とも連絡の途絶えた彼はガソリンスタンドで生計を維持する羽目になった。


この騒動はボクの予定も変えた。ピーボディーの修士課程の美術教育専攻に在籍する途中で進路変更を余儀なくされたのである。幸い日本で修士課程を修了していたこともあり、ヴァンダービルト大学教育学部大学院博士課程の教育課程論専攻を受け直すことができたが、クラス討論やデモでクリスマス休暇の明けた期間は授業はほとんど行われなかった。しかし、どこか白々しい学生運動に付き合いたくもなかった。同じ「グローバル教育」の奨学金をもらっていた院生のキャロリン・ホルトに相談してグラデュエイト・アシスタントの仕事を休ませてもらって、残りの学期をジョーダン小学校で、教育実習させてもらうことにした。そのレポートを提出することでインディペンデント・スタディーの単位として認めてもらうことにしたのである。


このジョーダン小学校での教育実習は、大学の暗い雰囲気をぬぐい去ってくれる転機となった。4年生担任のロイ・ストンブルック先生と32人の子どもたちは日本人の教育実習生を手放しで歓迎してくれた。図工の授業をもたせてもらったわけだが、グローバル教育の関連で社会科のアジアや日本のことについての単元もやらされることになった。グローバル教育のグラデュエイト・アシスタントをしていたこともあってこれとは別にCBS系列のナッシュビル局で子ども番組の「ファン・シティー・ファイヴ」にだされることにもなった。30分の放送でボクが出演するのはわずか5分ばかりなのにもかかわらず、メイキャップに30分、全体のリハーサルに2時間もかかった。市内の小学生数人を前に絵を通じて日本の紹介をするという内容なので、日本の子どもたちの描いた正月、節分、節句、七夕などの行事の絵を選んで持参していた。リハーサルでうまくいったのが、本番になって雛祭りの紹介の場面で一瞬言うことを忘れてしまった。とっさに子どもに向かって「これは何を描いたものかな?」と質問してその間に落ちつきを取り戻すことができた。子どもたちはリハーサルと違うのでちょっとびっくりしたようだが、雛祭りの説明を一度聞いているのでうまく答えてくれたのである。お陰で一回でOKがでた。         


教育実習をした4年生のクラスにはいろいろな子どもたちがいた。人種的にもヒスパニックや韓国系、日系、ユダヤ人、メキシカンなどもいたし、家庭も様々であった。養子ばかりを兄弟にもつメアリー、再婚同士の両親のいわゆる「ブレンド・ファミリー」のジョン、モルモン教徒のコニー、情緒不安のカーニーなど。しかしそうした子どもたちが家庭にまで招待してくれた。


マージ騒動のおさまった5月、無事に卒業式・修了式は行われた。学生寮の友達も無事修了して各地へ散って行った。ストレートマスターのラリー・スパークスはケンタッキーに戻り高校の教師をすることになったし、ジム・ホーキンスはデューク大学の博士課程に進んだ。そして、敬虔なプレスビテリアン派のグレッグ・ホールはアラバマのヘレン・ケラーの生地へ帰っていった。


卒業式が済むとすぐに夏期講座が始まる。そのひとつにエスセティック・エデュケーション・ワークショップがあった。まるで化粧品か美容の講習会の様な響きがあるが、そうではない。訳せば「審美教育」とか「美的教育」とでもなるのだろうが、いずれにせよ美術、音楽、演劇、ムーヴメントなどを統合した総合芸術教育のことである。芸術教科の弱体化を救済する一つの方向性として打ち出されていた動きの一つで、芸術教科統合をねらったものであり、同じ戦略ながら学問性を前面に出したDBAE(学問に依拠した美術教育)の流れとは色合いを異にしていた。

      
このワークショップには様々な人たちが参加していたが、その中の一人にジョイス・レイチトがいた。彼女はマサチューセッツ州のキーン大学の障害児教育専門の助教授でPhDをピーボディーで取得して教授への扉をたたこうとしていた。彼女はワークショップの同じグループにいてどことなく不可思議な雰囲気をもっていたが、東洋人に対する冷たい視線は感じられなかった。ピーボディーは、オフ・キャンパス・カレッジという州外の現職教員のための講座を開設して学位取得の道を開いていた。そのサイトには、マサチューセッツや海外ではロンドン大学、神戸のカナディアン・アカデミーが含まれていた。ジョイスもマサチューセッツの講座を受講していた一人だが、博士号を取得するためには、2学期以上のオン・キャンパスでの単位が必要であった。彼女がエスセティック・エデュケーション・ワークショップを受講していたのはそうした理由からであった。コーヒーブレイクに彼女はぼくに向かっていきなり「あなたはどこか自分から壁を作ろうとしている人だわ」と話しかけてきた。内面を鋭くえぐるような言葉にボクはすくんだ。続けて彼女は「家の敷地の中を小川が流れているの。休みになったらヴァーモントの家に来ない」と誘った…。

ミニュウは派遣留学の他のイラン人とは異なり、イランの石油会社社長の令嬢として姉妹共々米国に遊学していたが、革命は彼女たちに帰国の道を閉ざした。ミニュウは、ピーボディーを中途退学し、妹のいたカリフォルニア大学サンタクルーズ校へ移ることになった。彼女はイランを逃れる家族を迎えにワシントンまで迎えに行くと言う。ヴァーモントに行くことになったボクは彼女を連れてワシントンまで送ることになった…。

(求心遠心1996)