『映画の中の子どもと学校と先生と』 試行前通信/No.6 『アルタミラ通信』No.1号 連載/転載:「映画の中の子どもたち」から 2000,10,12:記 宮脇→発信 ----------------------- 長文なので、途中でINTERMISSIONをつくります。 それでは、、、。 ----------------------- 「友だちのうちはどこ?」 (1993年ユーロスペース配給) Where ls the Friend's Home? Khane-ye doust kodjast? 35ミリ/カラー/1時間25分 撮影 ファルハッド・サバ 録音 ジャハンギール・ミルシェカリ 出演 バハク・アハマッドプール アハマッド・アハマッドプールほか 制作 児童青少年知育協会 *87ファジル国際映画祭・最優秀監督賞+最優秀録音賞 +審査員特別賞 芸術協会賞+国際芸術映画同盟賞+国際キリスト教協会 賞 *89ロカルノ国際映画祭・銅豹賞+国際批評家賞+ *VIDEO & LD 販売 「パイオニアLDC」 ●映画作家から看た教育の現在、、、。 日本の学校教育は八ヶ岳連峰の一つになったといわれています。つまり生涯学習という考え方が次第に制度として定着、学校と肩を並べて「生涯教育」というコードが固まってきたということでしょうか。 しかし学校教育はいずれの国においても「同年齢教育」という特性を持ち、「子ども」と「先生」を中心とした関係がまだまだ続くことは予想されるところです。このことは世界の国々がその国の事情によって教育の営みに様々な形態を採ってはいますが、教える側と教えられる立場との関係が全く消え去ることはないでしょう。ただ両者、つまり子どもたちと先生との関係は多様であり、現在も難問が持ち上がっていることも事実です。そして問題の焦点化が困難であることと、冴えた結論が生まれないのは近代の「子ども像」「教師像」が揺れ動いているからだと思います。 本連載の意図は、(学校の)教員が子どもを看る「子ども観」とは異なった視点を映画を創る人々(作家の目)を通して「映画の中の子どもたち」を考えてみようというものです。それは端的にいって、子どもを対象とする専門家は学校の教員や親だけではないという考えが根底にあります。 ではなぜ映画・映像作家、とりわけ秀れた映画作家に「子ども」を看る眼があるのでしょうか。図式的に云えることの一つには、彼ら作家(達)は不特定多数の庶民を劇場という「場」に引き入れる力倆を常に試されているからです。 一方、学校の教員の場合はどうでしょう。教育営為の成果、つまり入力から出力へと着地するまでにはかなりの時間を要しますし、このことは映画作家に比べてやや緊張感に鈍さを伴います。無論、暗記のようなテストの場合は入力と出力の関係は短時間に結果を生みますが、これは教育の営みとしては極めて部分的な事柄です。子どもの(核心の)変化をうかがい知ることには時間がかかるものなのです。つまり(学校で)子どもを育てるという真剣勝負には長い時間のスパンを必要とするわけですし、その途中では指導者(担任など)の変動があり、なかなか一貫して一人の子どもの全体像を把握するというわけにはいきません。 映画の場合には前述のように庶民の反応は実に直截的です。多くの人々の心を打てば、作為的なプロパガンダなどは吹き飛ばして共感を得ることができますし、逆に内実のないプロパガンダによる動員がなされたとしても大衆の琴線を打ち鳴らすことはできません。つまり「子どもの専門家」を自認する教員や自分の子どもに甘い親たちにくらべて、子どもたちを看る眼力は秀でた映画作家のほうが確かだということです。無論この「確か」という意味には学校の教員が日々の職務に疲れ、瑣末な現実の対応のために磨耗しているのに比べて、学校の外側からの岡目八目的な責任の無さもあるにはあります。ただ学校専門(あるいはオヤ専門)の立場を離れて映画作家からの子ども観にこの際、目を移しては、、、、と云う意味です。 ●『友だちのうちはどこ?』 イラン映画の評判と水準の高さは、この日本においてもすでに知られるところですが、わたしたち日本人の間で急速に話題になった作家は、アッバス・キアロスタミと彼の作品からでしょうか。 彼の三部作といわれる作品には『友だちのうちはどこ?』(87),『そして人生はつづく』(92),『オリーブの林を抜けて』(94)がありますが、配給の(ユーロスペース)がこの国に『友だちのうちはどこ?』を紹介したのが1993年ですから、作品の完成から6年を経て日本にお目見えしたことになります。 次にざっと『友だちのうちはどこ?』のストーリーを書きます。長く引っ張ることの出来ないほど単純な内容です。 ++++++++++++++++ イラン北部の小さな村の小学校。三人掛けの長机を前にギッシリつまった子どもの一人、モハマッド=レザが宿題を一枚の紙に書いてきたことが発端です。 「なぜノートに書いてこなかったのか」と先生の詰問。答えることも充分にできないモハマッド。先生は彼に「今度宿題をノートに書いてこなかったら退学だ」と怒鳴りつけ、彼モハマッドが書いてきた「紙」を破り捨てます。彼は泣き出し弁解する気力もありません。先生の思考の展開は一方的に進みます。 隣席のアハマッドは「友だち」のこの窮状を見てもなす術(すべ)もありません。授業が終わりアハマッドが家に帰り着いた途端、「宿題をしなさい」と母親の畳み込むような声が飛び込みます。彼女に云われてカバンの中を開けて「友だち」モハマッドのノートが入っているのに気付く彼:アハマッド。「そうだあのとき・・・・・授業が終わり、隣席の「友だち」モハマッドが駆け出して転んだそのとき、自分のノートとよく似た「友だち」のノートも一緒にもって帰ってきたのだ、、、、、、。 次々に帰宅後の宿題、そして手伝いのノルマを云い渡される母親の目を盗んで、住所も定かでない「友だち」のうちに彼のノートを返すべく遅い午後の時間(ノートを抱えて)家を出ます。たったこれだけの前段の展開の中にイランの「学校」「教室」の佇まい、「先生」「友だち」「クラスメート」の表情、「主人公」そして「母親」の声が躍動を伴って進行します。良質のサスペンス映画を観るようです。 そうです。この映画では子どもの気持ちとおとな(先生)の考えはそんなにたやすく交錯することのない、ズレの構造によって創られていることに観客は気付くのです。 「友だち」のノートを抱えたアハマッドは、わずかな手がかりや人物とすれ違ったり、はぐらかされたり・・・・、 夢幻的な風景が時にリアルに変貌するのは、主人公の不安げな、心もとない表情によって左右されるからでしょう。結局は「友だち」に会えずじまいが中段。 翌日の教室の描写は実にスリリングです。自分と「友だち」の宿題を別々のノートに仕上げた彼はそっと友だちに「ノート」を渡します。くどくどとした云い訳は画面には顕れません。先生の巡回指導が近づきます。「これは君のではないね」と云われた主人公、急いで「友だち」に自分のノートを渡してしまったことに気付く彼、しかし冷静に交換する主人公。先生の合格のサインを受けるシーンが終わり、取り替えた「友だち」のノートに先生の手と眼が移る。バレやしないかと息を呑む観客。見る方はあたかも自分がその場にいるような「当事者」の気持ちへと持ち込むキアロスタミの「術」はまさに冴えています。言語や造形では表しきれない映像世界の特性が編み出した瞬間です。 ●おとな向けの映画なのか?子ども向けの映 画なのか? −−−交わることのない「子ども」と「おとな」−−− 子どもを対象にした絵本を手にしたとき、「この本はいったいおとな向け?あるいは子どものため・・・?」などと戸惑うことがありませんか。そんな想いをさせてくれるのがキアロスタミのこの作品です。 映画の全編を通じて「子どもの目」と「おとなの思考とコトバ」は交わるところ無く進行します。そして1時間25分という上映時間の中で観る側に子ども、学校、先生、家庭、教育の未来など、あらゆる問題解決を迫るのです。 普通のリアリズム映画でしたら大抵の場合、一本道を上り詰めるように単純な選択肢が用意されているに過ぎませんが、『友だちのうちはどこ?』ではイランという国の近代化と子ども観、近代教育と教師像、生活と生産の現状、そしてイランの経済、伝統、因習、年代差を、、、、。恐らく観客は見終わった後の帰途、あるいは暫く時間をおいてから日本の教育、学校教育や生涯教育そして子どもの教育へと想いを馳せることでしょう。 この映画には、映画はプロパガンダの為にあるなどと云う、時折り浮上する映像非難論とは対極にあることを示しています。映画・映像は近代の人間が創り出した「技術」の一つです。そして媒体技術は利用する側の意志に左右される「両刃の剣」になるものですが、その使い方についての決定的な選択を見せてくれたのがこの映画なのでしょう。 いま一度、冒頭に近いシーンに戻ってみます。教育機器と呼べるのは、教室の前面にある小型のブラックボード一枚とチョーク、粗末な机と椅子、そして教師の指導法は読みと書き、そこから必然的に再生産として生まれる宿題。 当然のことですが教師はまさに確信を持って厳然としています。そこには「教員」などという「ニュアンスのある」言い廻しが皆無なほど、先生はまさに「師」として描かれています。そして一方の子どもは宿題をチェックされる対象者としてそこにあります。「子ども」は学校という同一年齢の「輪切り装置」の囲いの中で、先生からの下降的な「教え」を待つという図式です。 キアロスタミの両者への視点の当て方は、両者ともに公平に扱われていることです。そこには両者の「対立止揚」などと云う欧米的(葛藤)解決の方法は見られず、さらに子どもの「目線に合わせて」などの児童優先?の思わせぶりな論理の無いことが、かえって子どもが置かれているイランの現在を観客に投げ出していることに気付きます。強いて「教師」と「子どもたち」の違いを感じるとすれば、緊張した子どもたちのエネルギーと教師の生物的停滞の差に時代を象徴させているようにも見えます。 増量されそうなリアリズムを彼岸としているキアロスタミの演出は、リアルタイムのフレームの中に「子ども」「教師」「風景」、そして「音」のそれぞれに独自の主張をさせ、ダイナミックな空間を観る側に押し出しています。 ●ゆっくりと一元的アンサンブルがつづく 主人公のアハマッドがわずかな情報しか持たぬまま、「友だち」のうちを探し歩く様は夢の中の出来事のようなもどかしさを感じさせますが、切り取られたように顕(あら)われる人々の会話、そしてアハマッドの気持ちとは別世界の老人たちの会話、どこかで見たような・・・。ああ、小津安二郎の映画に登場する人と人とのトークに似ているな、と感じたものです。小津映画の影響があるのかないのか、不勉強の筆者には解らないのですが、なにか日本人の琴線を震わす感情が満ちているのを感じます。 一方、子どもの感情とおとなのそれとが別々の世界を歩きながらも僅かですがおとなの側が主人公に歩み寄る場面がありますが、その場面、老人の想い出話をアハマッドに聞かせる展開には、そうです・・・・、すでに亡くなった関西喜劇の藤山寛美の語り口がスクリーン一杯に拡がったようにも感じましたが、そんな時には中東に遠いイランとその国の人々の感情の吐露が筆者にも伝わったことを今も思い出します。 異世代、異年齢、異なった要因を安易な方法によって繋ぐという表現を採らないキアロスタミの演出には、西欧流の問題解決の一つでもある対立止揚という解決方法よりも、アジア、それも日本人の思考や伝統に近いものを感じたのは、この映画への筆者のオマージュが強かったせいかも知れません。 日本と云う島国が外来文化を取り入れ、混在させ、独自の思考や文化を生み出した歴史に対して、近代の日本がどこかに忘れてきた何か?を指摘をして呉れたのは、旧ソビエトの映画作家エイゼンシュテイン(Sergei Mikhailovich Eizenshtein 1898-1948 )であったと思います。 エイゼンシュテインは1925年に『戦艦ポチョムキン』の演出家として夙に知られていますが、日本の歌舞伎の場面、場面を「一元的アンサンブル」と呼んでいます。そして『友だちのうちはどこ?』のすべてのシーンにもこの「一元的アンサンブル」がつづいているように思える事に気が付いたのです。その本とはエイゼンシュテインによる著作『映画の弁証法』です。 ●エイゼンシュテインの『映画の弁証法』 『映画の弁証法』が日本で翻訳されたのは1953年(昭和28)9月が初版(佐々木能理男訳編.角川文庫)ですから敗戦後8年を経た頃です。ちょうど日本が高度経済成長期にさしかかる少し前です。 『映画の弁証法』は1955年(昭和30)には三版を重ねていますが、そこに収録された論文は、1935年までに発表された氏の論考から重要なものを集めたようです。当時は英国人:H.リードの 『 Education through Art:芸術による教育』が教育のプラットフォームになり得るか・・・・という論理が拡がり、斯学・斯界の皆さんが意気盛んであったことを今も想い出します。また、敷衍して登場した羽仁進さんの『絵を描く子どもたち』が街の映画館で上映され、児童画を理解するためにというサブタイトルのついたこの映画が、市井(しせい)の中に躍り出たのも丁度その頃(1956年<昭和31>)のことです。 筆者に限っていえば、旧制中学の3年のときに敗戦を迎え、価値の180度転換を自認した時、亀井文夫、山本薩夫両氏の演出になる『戦争と平和』(1947)に共鳴し、無力感に満ちた時代に新しい方向を見出したのも事実でした。しかし180度転換の安易さに不安を感じたときに、1955年に見たエイゼンシュテインの『映画の弁証法』、その核をなす「一元的アンサンブル」、、、、異質な、独自の要因が相対化されつつその緊張感がダイナミズムを生んでいく、無論、聞いたふうな「清濁併せ飲む」などというノウテンキなことではなく、異なった価値への冷静な観察と相対化への示唆には開眼の響きを感じたものでした。 エイゼンシュテインのいう一元的アンサンブルについて彼の本から引用します。「……日本人がわれわれに見せてくれたのは、これとは別な、きわめて興味ある形式のアンサンブルであり、それは一元的アンサンブルである。音と、動きと、空間と、声とは、歌舞伎においては相互に付随するのではなく(また並行さえもするのではなく)、それぞれの平等の重要さをもつ要素としてわれわれに作用するのである」と、、、(PP.12-13)。ここでいうエイゼンシュテインの云う平等の重要さの断片を、彼の文章から簡単に取り出すことは誤解を生ずるので避けますが、彼が連想として挙げているのがサッカーなのです。つまり歌舞伎の要素にある「声」、「拍子木」、「身ぶり」、「動作」、「謳い手」の張り上げる大声、折りたたみのきく「幕」をあたかもバック、ハーフバック、ゴールキーパー、フォワードに重ねており、「劇というボールを相互にパスし、観衆というゴールを目指し」「観衆を茫然とさせる。」としています。 (歌舞伎にみられる)「一元的アンサンブル」に賛辞を贈る理由には、先に彼が注釈を付けたモスクワ芸術座の「情緒的アンサンブル」を念頭に置いて比較をしているからです。 エイゼンシュテインはこの情緒的アンサンブルについて「いわゆる<綜合的>という垢じみた言葉によって呼ばれるが、この<動物的>なアンサンブルは<舞台全体が鳥の啼き声や野獣の咆吼や牛の鳴き声を発して>・・・・」とあるように、単なる集合的な「再経験」のアンサンブルに過ぎないとしており、歌舞伎のアンサンブルの要素一つ一つが「付随の部分」に位置することなく、全体の中で張り合いつつダイナミズムを創り出していること、その様(サマ)を高く評価しているわけです。 『友だちのうちはどこ?』はまさに異なる要素、つまり「子ども」と「おとな」「風景」「音」「土の壁」のそれぞれが緊張しつつ連続していることは安易な綜合でもなく、楽観的な有機的展開でもないことは明らかです。一つ一つの要素に独自の品格を持たせていることは、近代子ども観の特性でもある「子どもの目線にあわせて・・・・」などの子どもに媚びる態度を少しも見せてはいません。しかしそれでいて「子どもへの優しい視線」が画面にあふれ出るのは、彼キアロスタミが人間に対して品性のある立場で対象と対峙しているからでしょう。映画評論家の皆さんがリアリズムとフィクションの境界を外していると評しているのはそんなところを見ているのかも知れません。 日本人一般がこうしたことに気づかなかったその原因が、奈辺にあるのかと想い起こしたとき・・・・、近くは日本の敗戦後、つまり1945年以降、日本人が直線的にひた走りに走り、何処かでつまづけば都合の良い哲学もどきのスローガンを掲げることにより、突如として急旋回を行い、これまでに積み上げてきた思考や思索を捨て去って来たのではないか?そういう思いが、キアロスタミの映画によって観る人々にカタルシス現象を起こさせたのではないかと思うのです。 日本の人々が直線的に行動しては崖から転落してしまうのは、1945年以降のことだけではなく、日本の近代化の始まりである明治の初期からのことであることを多くの人々は知っている筈なのですが、それにストップをかけられず、1991年8月以降、東側の崩壊が起こってからも未だに加速が静まらない今日、『友だちのうちはどこ?』はこの国にとっても貴重な映像と思えます。 この辺りで映画ライターの篠崎誠氏がキアロスタミ氏とインタビューの一コマ、極めて隠喩に満ちた一コマを若干引用させてもらいます。(『アッバス・キアロスタミ』−−真実は現実と虚構のかなたに−−〈ユーロスペース1995年7月29日発行:編集人/土肥悦子〉) ●最後の質問です。大袈裟に聞こえてしまうかもしれませんがキアロスタミ監督にとって映画とはなんでしょうか? ◆あまりに大きな質問なので答えられません(笑)。でも以前、テヘランで同じ質問を受けた時にはこう答えました。映画とは、映画館があって、スクリーンがあって、後に映写機があって、映写技師の人がいて、そして暗闇が必要です、と。−−−−中略−−−−−−−つづけてこう聞かれました。ではフィルムとは何か?そこでさらに答えました。フィルムとはセルロイドで、まわりにパーフォレーションがあり、見るものです。 −−−よくわかりました(笑)。 ●・・・・監督が映画を作られる時にいちばん大事にされることは何なのかということです。もちろん、すべての要素が大事だとは思うのですが・・・・。 ◆今は何が大事だったかよく思い出すことはできませんが、次に映画を作る時には何がいちばん大事なことなのかをよく考え、覚えておいて今度会った時にお答えします(笑)。 −−−−−後略−−−− ----------------------------------- INTERMISSION 休憩:5分 ---------------------------------- ●難問をブレ−ク・スルーする インタビュアー篠崎誠さんとの応答はまるで禅問答を見ているようです。アッバス・キアロスタミの発言は、一見、子どもの無邪気さにも似ていますが、子どもそのものの無邪気さを現出させているわけではありません。造形の世界に引き寄せて譬えれば、子どもの絵に魅せられた優れた画家が、子どもの気持ちを大人の手法によって表現する行為に良く似ています。そこから大人の思考を眺めたり、風景に視線を転じたり、先生に視点を移したり・・・。 重要なことは「子どもの目線まで・・・」などという、いまや風化しつつある表皮的な子ども尊重論を彼方へ押しやり、子どもへ媚びることなく、しかも子どもに対し限りない優さしい眼差しを注いでいるのです。それは子どもと距離を置いているように見えるおとなに対しても同じです。冒頭のシーンで「友人」を叱る先生の存在にもけっして意地の悪い視線を当てているわけではありません。「いま、あなたが当然であると思っている教え方や考え方も(時)が移り遷れば古くなっていくのですよ」という「順送りの時」を淋しく告げているようにも思えます。大仰に云えば世代と(時代)が移動する無常感とでも 、、、。 日本という国も沖縄に象徴されるように、国の「うち」「そと」に多くの難問を抱えていますが、同様にイランという国とそこに住む人々も多くのアポリアを抱えています。日本が少なくともイランに比べれば無秩序に近い自由があるのに比べて、イランの場合は多くの規制に囲まれています。状況は全く異なるにもかかわらず共通にあるものは「閉塞」という状況認識でしょうか。ここではどちらが複雑であるかなどという問題ではなく、「閉塞」をいかにブレーク・スルー(中央突破)できるかどうかということが重要な課題だと思います。 イラン映画はブレーク・スルーの方法としていずれの国の人々にも共鳴可能な、人間として最も品性を備えた単純さ、それによって誰にでも解る「品性・品格を維持するには・・・・」というテーゼを提出したのだと思います。『友だちのうちはどこ?』では、偶然にせよ自分の誤りには自分が決着をつけるという、教育が「至上のねらい」とする品性の在り方を示したことでしょうか。夾雑物に身をまとい過ぎた私たちがある種のカタルシスを感じるのはこのことなのでしょう。 イランと云う国とそこに住む人々をごく端的にみれば、2500年続いた(抑圧の)王制。1979年2月11日、市民蜂起の中で王制最後の内閣が崩壊し、革命が成立。ホメイニ師を頂点とするイスラム法学者が統治する体制では、欧米の文化や価値体系は排除の対象となり、アメリカ合衆国は大悪魔と呼ばれ、ネクタイをしめる姿は西洋かぶれの象徴となり、しかもイスラム共和党の単独体制が固定する前にイラン・イラク戦争の開始、1990年9月停戦。前年の夏、ポストホメイニ時代の開幕。そして1997年、ハータミー新大統領が選出され次なる変革にさしかかっています。 不思議なことに革命後、それまでの文学の多くが否定的な刻印を押されたのに対して「映画」だけが一躍、世界の脚光を浴びたことです。 なぜでしょう。それはすべてのイデオロギーを削ぎ落としていることに最大の理由があるようです。それはシナリオと表現がシンプルであり、政治と一線を画しているからでしょう。 イランにおいては、映画は革命後もそれまでと同じく厳しい検閲の下に置かれていますが、新聞・書物・テレビ・ラジオなどの他の媒体に比べてはるかに自由な待遇を得ているのは、あらゆる検閲や宗教的規制をくぐり抜ける人間の「品位」に焦点を合わせているからだと思います。 また、1980年代後半以降、イラン映画がフランスを始め欧米において高い評価を受けたことも、イラン国家にとっては「実のある芸術」であるとの認識を得させたことも確かでしょうか。日本はイランの国情や状況とは異なりますが、閉塞の現代を突破する示唆をイラン映画、キアロスタミから受けたことになります。 ●「生存の原点」の行方はどこに? いま、日本の教育は市場経済をプラットフォームにして「生きる力」、さらには「自己実現」のスローガンが掲げられています。それがどれほど非情な世界であるかは追々明らかになってくるでしょう。 世界は1991年の東側の崩壊によって西側の代表でもあるアメリカ合衆国の一人勝ちが続いています。しかし資本主義社会において自由、権利(人権)など民主主義の核心に迫ることは実に困難なことです。 いまここにFelix Guattari <1930-1992>やGilles Deleuze <1925-1995>の言説を披露するまでもなく、自己調節機能を全く持たない資本主義社会がますます拡大することは予想されるところです。その最中、「生存の原点」なるメッセージ、人間の品格についてを発信したキアロスタミが、一段と高みへと向かって試みた「他者への想い」、それが『白い風船』のシナリオです。ここでの演出はジャファール・パナヒに任せていますが、今夜の宿もない白い風船売りのアフガン難民の少年が、自分の悩みで心が一杯のイランの少女のために手を差し伸べるという筋立ては、「人は果たして他者の立場に立つことができるのか」というルソー(Jean Jacques Rousseau 1712〜1778)の教育小説『エミール』以来のテーマに踏み込んでいます。 (1999年12月1日) −−−−−−−−−−−−−−−− ■写真提供:【ユーロスペース】 ■参 考 ●上岡弘二氏によれば(『アジア讀本:イラン』1999 年,河出書房新社)「石油がイラン人の心を荒廃 させてきた。、、、」と氏の教え子のFさ ん(パフラビー大学:現・シーラーズ大学)の発言を紹 介しています。労を得ずしての「遺産」が人々生活に如何なる結果をもたらすかは、 近時の日本人にとっても他人事ではない歴史を経験していますが、Fさんもイランの 歴史は、石油以前、石油時代、石油以降の三つの時代区分に分け、最後の石油以降が イランの未来であるとしています。イランの若い人々の当事者意識としては理解出来 ます。ただ日本人にとってのイラン理解は、ペルシャと云われた時代の正倉院の御物: 切子装飾を施したカット・グラスであり、ペルシャ絨毯、シルクロード等など、つま り遠い国だったのです。しかし近時は一転して1979年のイラン・イラク戦争辺り から髭の労働者、変造テレカの立ち売り人として、この国の人々と身近な存在になっています(日本との間に1974年に発行した査証相互免除協 定は1992年4月に停止)。そしてイラン映画がイランのイメージを再び旋回させた一つが『友だちのうちはどこ?』なのでしょう。 ●イランならびに中東関係の「読書案内」「インターネットで見るイラン」「年表」は前述の(『アジア讀本:イラン』1999年,河出書房新社)に記載されている。親しみやすい編集。 ●イラン(Iran):豆知識10件 1地理/アジア南西部,カスピ海の南,ペルシャ湾の北にある共和国。国土のほと んどが山脈,高原,砂漠,鉱産資源は豊富。 21930年まではペルシャとして知られ、世界最大の石油産地の一つ。国土は日本の 4.3倍,人口6,113万人(1996年推計), 3首都はテヘラン。人口:675万43人 (1994年推計) 4言語は現代ペルシャ語(インド・ヨーロッパ語族の一派)。 5宗教は国教としてイスラム教のシーア派、 95%がシーア派教徒。国内にシ ーア派の聖地がいくつもある。 61979年の革命後、国内の教育機関、文化 生活はシーア派イスラムの教義によ る。 義務教育は6〜9歳だが、教員不足と80年代のイラン・イラク戦争に よる政情不安が伴い徹底してはいない。『友だち のうちはどこ?』の教育条 件が理解される。 7石油産業による巨額な収入が1960〜70年代のイラン経済を成長させた。しかし7 0年代のイラン革命は外国資本の流入や新しい産業の振興を著しく停滞させる。 818歳以上の男子には2年間の兵役義務がある。国際連合の加盟国。OPEC(石油 輸出國機構)の一員。 9石油を巡る戦いは、イランの国際関係を実に複雑にしている。特にアメリカ、周 辺諸国と。 10【イラン映画】の出発は、1928年に最初の国産映画『アビ・ラッピ』が。1979 年の革命後は厳しい検閲制度が課せられたが、その壁をアッバス・キアロスタミ は国内だけではなく、世界中を駆け抜けて 見せた。見事なブレーク・スルー 。 ●(Sergei Mikhailovich Eizenshtein)につ いては、『大辞林』『広辞苑』『ぴあ 』ほかにも略記されているが、生誕日に違いが あるので留意。本稿では、上の 三書によった。ミドルネームについての記述は、先述 の『映画の弁証法』に依拠 。 ●インターネット上の検索からは、第5回 「イラン映画の魅力を語る」篠崎 誠( 映画 監督)&市山尚三(プロデューサー)の記事(199 9年/1月9日・土)が面白い。特に 【イラン 映画の歴史】,【検閲問題】,【おすすめ のイラン映画】,【イラン 映画の主要な受賞歴】は、博覧強記願望の方々には最適の資料。 ●本稿は次の著作物を参考にしています。 1.上岡弘二編『アジア讀本:イラン』1999年,河出書房新社。 2.村田信男編『白い風船:パンフレット』1996年,コムストック・ ジュニア。 3.伊藤聡子他編『運動靴と赤い金魚:パンフレット』1999年,潟t ジテレビジョン。 4.濱口幸一他編『〈逆引き〉世界映画史』1999年,フィルムアート 社。 5,八尾師誠著『イラン近代の原像』1998年,東京大学出版会。 ●アッバス・キアロスタミ作品群 *出典:『アッバス・キアロスタミ』編集人:土肥悦子+山崎陽一/1993.ユーロスペース発行.& 『アッバス・キアロスタミ』−−真実は現実と 虚構の彼方に−−編集人:土肥悦子/1 995.ユ ーロスペース発行&インターネット・ホームページ. 『パンと裏通り』 (1970) 監督:10分45秒 『放課後』 (1972) 監督:14分 『経験』 (1973) 監督:1時間 『トラベラー』 (1974) 監督/脚本:1時間12分 『一つの問題への二つの解決法』 (1975) 監督/脚本:4分45秒 『できるよ、ボクも』 (1975) 監督/脚本:3分30秒 『結婚式のスーツ』 (1976) 監督/脚本:59分 『色』 (1976) 監督/脚本:15分/実写+アニメーション 『レポート』 (1977) 監督/脚本:1時間52分 『休み時間をどう過ごそう』 (1977)(詳細不明):7分 『先生への賛辞』 (1977)(詳細不明):20分 『解決T』 (1978)(詳細不明):11分・16o 『最初のケース,次のケース』 (1979):53分・16o 『歯科衛生学』 (1980):23分・16o/実写+アニメーション 『順番を守る、守らない』 (1981):17分・16o 『コーラス』 (1982):17分 『歯が痛い』 (1983)(詳細不明):25分 『市民』 (1983):50分・16o 『1年生』 (1984):1時間24分・16o 『友だちのうちはどこ?』 (1987) 監督/脚本 :1時間25分 『ホームワーク』 (1989) 監督/脚本:1時間26分・16o 『クローズ・アップ』 (1990) 監督/脚本:1時間37分←? 『そして人生はつづく』 (1992) 監督/脚本:1時間31分 『オリーブの林をぬけて』 (1994) 監督/脚本/製作 :1時間43分 《白い風船》 (1995) 脚本のみ 『桜桃の味』 (1997) 監督/脚本/製作 『風が吹くまま』 (1999) 監督/脚本/製作:イラン&フランス 『クローズ・アップ』 (1990) 監督/脚本:1時間37分 30分の記述もアリ、ドチラ?不明。 |