『映画の中の子どもと学校と先生と』
試行前通信/No.10 2000,10,31:記 子どもに降りかかる不条理な暴力 『初恋地獄篇』(一九六八)と 『スリーパーズ』(一九九六) 宮脇 理 つい先ほど(二〇〇〇年四月二二日)八八歳で亡くなられた原子核物理学者の武谷三男(たけたに みつお)さんが、四四年前に羽仁進さんによって創られた『絵を描く子どもたち』の短評に、「創造することと暴力」とは背中合わせになっていることを指摘しています。そして暴力にはエネルギーを内在させており、それをどのような方向に向かわせるか、それこそが教育(者)の課題であることを示唆しています。(これについては筆者も教育雑誌『リニューアルひと』二〇〇〇年三・四月号:栗原彬責任編集)(註一)に分担執筆していますが、そのことつまり「創造することと暴力とか背中合わせになっていること」の指摘は、武谷さんが一九三〇年代後半から湯川秀樹博士らとともに、原子核内で陽子や中性子が結びつくしくみの研究に、端を発していると思われるのです。 そして武谷さんが一九四五年以降の原水爆禁止運動の前面に立って「死の灰」の恐怖さを訴えてきたのも「自然認識」についての精緻な思想があったからと思われるのです。ですから美術教育にかかわる人々がやや気楽に 、創造力がすべて「善」のように語ることについても、創造力と表裏の「暴力」について深く吟味する必要があることを、武谷三男さんは『絵を描く子どもたち』の短いパンフレットに載せたのでしょう。 ●『初恋地獄篇』が生まれた時代 さて「暴力」については、筆者は『アルタミラ通信』2号でも、「大衆民主主義時代のアメリカの憂鬱」というサブタイトルのもとに、『KIDS』をめぐる拙文の中で示してきましたが(註二)、現実社会の「暴力」は、武谷さんが示した自然(科学)認識のように現象論、実体論、本質論を経て発展するという、明快な「三段階論」の筋道を期待するわけにはいきません(註三)。 子どもたちを覆う「暴力」は、国家・政治・イデオロギー・経済・民族主義、そして、例えば親子関係などが絡んでいるなど極めて複雑です。したがって「子どもたちの立場からは何事も選べない」のです。それではまず羽仁進さんが一九六八年(昭和四三)に創った『初恋 地獄篇』に目を移したいと思いますが、その前にこの映画が生まれた時代とは、いったいどんな時代だったのでしょうか。そちらへ眼を向けてみます。 『初恋 地獄篇』は前述した『絵を描く子 どもたち』(一九五六年)から十二年ほどを経て創られています。『絵を描く、、、』がいわゆる戦後日本の十年が過ぎた頃、ちょうど日本が高度成長期にさしかかる頃でしたから、その後の十二年はこの国が次第に過誤を溜め込んだ歳月ともいえそうです。事実、東京大学において大学紛争が開始された年(一月二九日)でもありました。その二年後の六〇年代を越えた一九七〇年には大阪にて日本万博が開催(三月一四日)、日航「よど号」ハイジャック事件(三月三一日)、三島由紀夫が陸上自衛隊東部方面総監部で割腹(一一月二五日)(註四)へと続いていますが、この国の六〇年代の後半から七〇年代へかけての時代には「うたかたの光と陰」が交錯していました。 羽仁さんは『初恋地獄篇』に至る七年前に『絵を描く子どもたち』1956年(昭31)、『不良少年』1961年(昭36)を発表していますが、両者にわずかな希望を託しています。しかし『不良少年』を創った年、六〇年代の始まりは深沢七郎さんの『風流夢譚』に激昂した右翼少年が中央公論社社長宅を襲撃した年でもあり、それまでのしきたりや倫理が大きく崩れ始めた頃でした。いうなれば日本を覆う複雑な圧力が急速に加算されつつあったといえます。 ●『初恋地獄篇』制作:羽仁プロ・(註五) 脚本が羽仁進さんと寺山修司さんの共同であることが如何にも不条理な現実の物語を象徴させます。チラシ風にいえば、「失語症的な疎外の現代に生きる、少年と少女の不安定な愛をシネマ・ヴェリテ的手法を導入して描いた作品」となります。 ここでの「暴力」の発端は「子どもは親を選ぶことができない」という圧力です。それは避けることのできない運命と連動した暴力といえるでしょう。 主人公の俊一(呼び名はシュン)が七歳のときに父が死亡、母は再婚。教護院に入れられたシュンは子どものいない彫金師に引き取られ、そこで成長しますが、始めからごく普通の親子関係の元で育てられた子どもたちとは大きな違いから始まります。 シュンはある日、集団就職で上京し、いまはヌードモデルをやっているナナミという少女と知り合います。現在では死語ともいえる「集団就職」、金の卵と囃されて日本の各地から都会に集められた中学を卒業したばかりの子どもたちが、経済の浮沈によって切り捨てられていく一瞬のフレームがここにあります。 ささやかな二人の(愛ともいえる)行為が安ホテルで進みます。が、うまくいかない 。当惑するシュン。 映像は理由のすべてをシュンの過去と現在を交互に交錯させながら、グロテスクに肥大化する現実を対置させますが、シュンやナナミとは別立てに進行するヌードモデル撮影会に集まる人々とのインタビュー、同年代の高校生が学園祭で若い時代を楽しんでいる彼等への視線、隠し取りなどで世間の暗部を比較として雁行させます。 ここにはアメリカ映画『8o』(註六)を先取りしたような情景が描写され、そしてラストの不条理の死へと進みます。寺山修司さんの世界が、羽仁さんの子どもへの眼差しと重なって旋回に旋回を続ける現実が、都はるみ さんの演歌と欧風のクラシックによるBGMにうまく重なって、寺山さんの短歌を思い出させます。(註七) 子供の頃、ぼくは 汽車の口真似が上手かった ぼくは 世界の涯てが 自分自身の夢のなかにしかないことを 知っていたのだ 『初恋地獄篇』のシュンとナナミの二人の世界は現実の怖さと、何ものにも譬え(たとえ)ようのない沈痛さに満ちて、寺山さんの最晩年「詩」にダブって観る側に迫ります。 ●ふたたび「暴力」について 暴力については『アルタミラ通信』第3号においてもすでに触れましたが、そのとき、「暴力をめぐる解釈は半世紀前とは格段の複雑さを増しています」と述べました。そして暴力をめぐる絡みや不条理を知ること、理解することにより、暴力に対してより単純な報復への道を超え、その先を考えたいというのが『初恋地獄篇』から『スリーパーズ』へと繋げた趣意でした。 明快な暴力についての説明とそれへの対抗手段は、たしかに前回にも述べたソレル言説の中に単純に示されています。そこには階級闘争という図式が厳然とありますから、その入力と出力の関係は実にわかり易いのです。 若干ですが戻ってみますと、一九〇八年にソレルが書いた『暴力論』では(註八)、マルクス,プルードン,ベルグソンらの政治思想を背景として、世界の近代史に登場したブルジョアジーの政治支配&議会制民主主義のセットを批判したその具体的な行動として、プロレタリアートの直接行動の正統性、妥当性としての「暴力」こそがブルジョアジーの暴力(権力)に対抗できるとしていますが、まさに「暴力」対「暴力」、目には目、歯には歯という対立抗争の図式です。しかし現在の暴力(論)の実態はこれほど単純ではありません。 『初恋地獄篇』では、主人公の俊一:シュンは七歳の時に父を亡くし母の再婚という・・・・・、そのこと自体がシュンにとっては運命というよりは不条理な出来事であり、自分が選ぶことのできない仕組み、暴力であったということでしょうか。そして寺山・羽仁さんの共同シナリオでは、それを直ちに社会の責任としないところ、むしろ不条理としたことが人々の共感を生むのでしょう。 集団就職で上京し、いまはヌードモデルとなったナナミとの初体験の不首尾から連鎖したある日、シュンは、公園で幼女に会い、柔らかい皮膚の感触に自分の幼い日の郷愁を重ねたとき、物陰でシュンと幼女を見ていた男に変態扱いをされてしまったという経過は、これも被虐の立場に置かれた者の不運な結末なのでしょうか。観客にはわかる物語の展開が、登場人物の間では全く異なった展開となっていく・・・。世間ではよくあることですが、これもシュンにとってはいわれのない暴力です。 精神病院に連れて行かれたシュンは医師の暗示と催眠によって過去を思い出させられるのですが、シュンにとってそれは忘れてしまいたい記憶、そしていまも続く現実、養父による幼児虐待の連続があきらかになります。 安ホテルでの不成功の思いを打ち消すために、シュンは優しかったナナミをヌードスタジオに訪ねるのですが、そこで女同士で身体を絡ませ、闘わされているナナミの(仕事)を見てしまった驚きの中段は、政治闘争のような図式では示すことができない捻れた暴力の実体です。そして後半はシュンの心やナナミを打ち砕くのに充分すぎる展開となって、映画は破局へと進みます。 ヌードスタジオを訪れた翌日、ナナミがスタジオで撮影に来ていた中年男と連れだっているのを見たシュンは、その男を殴ろうとしますが、ナナミへの歪んだ愛について語る男の話を聞いているうちにシュンは怯みます。一方、海辺でのヌード撮影会の日に、ナナミは「その男」が妻と小さな子どもたちとピクニックに来たのに出会って顔が青ざめていくのを感じます。観客だけが知るおとなの身勝手な行為です。 シュンとナナミの二人が掴もうとした「初恋」は次々に立ち表れる事件によって砕かれていきますが、さらにナナミのかつての友人であり、勉強ができるので「代数君」と呼ばれた彼が通っている高校の文化祭を訪れた二人は、「代数君」が創ったという8ミリ映画『初恋の記録』を観ることになります。シュンとナナミとはまったくちがった生活の場、二人が選ぶことのできなかった別世界、いや階層。「代数君」が一度も口をきいたことのない少女への一方的な恋を綴ったこの映画にシュンとナナミは強く打たれ、二人は感動します。 心が通いながらもスレ違う結果に終わってしまうシュンとナナミの現実と友人の片思いの「記録」。共に実らない現実ながらナナミのかつての友人「代数君」には夢がある・・・。それは自分達が選ぶことができなかった運命の展開だ、・・・どうして・・・。 翌日、二人はホテルで会う約束をして別れます。その日、シュンは自分達の「初恋」を手に入れるためにナナミが待っているホテルへと急ぎます・・・。だがホテルへ向かう途中、ヤクザに追われて逃げるシュンは自動車に跳ねられます。それとも知らずホテルの窓から外を眺めてシュンを待つナナミ。 ----------------------- INTERMISSION 休憩:5分 ----------------------- ----------------------- INTERMISSION→→→:再開 ----------------------- ●暴力の深みを覗く 幼児虐待がストーリーの核となっているアメリカ映画『スリーパーズ』(一九九六年)は『初恋 地獄篇』に重なる映画です(註九)。そして『スリーパーズ』が示す暴力は、人間の恥部を政治や社会の歪みや、ねじれが触発したとみたほうが良いかも知れません。 ただ『初恋地獄篇』の主人公シュンが「暴力」に落とし込まれ、為す術を知らない悲劇に進んだのに比べて、『スリーパーズ』のほうは子どもたちが成人してから、かつて受けた「暴力」に対して反撃に転ずる・・・いわば「報復」が物語の核になっています。あの政治力学が生む暴力対暴力の図式です。『初恋地獄篇』も『スリーパーズ』も共に悲劇的なのですが、前者『初恋地獄篇』が深く心に残るのは暴力への洞察に巾と深みを持たせているからでしょうか。 つまり『スリーパーズ』が世間への訴求という点では観る側の正義感を満足させはしますが、観終わった後の想いは復讐の完成度があっても空しさに満ちており、不条理の部分を除いた限られた部分的解決だと思うのです。 ストーリーの発端で、子どもたちのふとした集団の行動が無関係の人を害してしまうというのは、確かに教訓的な物語です。これはアメリカ合衆国という巨大な国が取りこぼし、生み落とした社会的な恥部が表面に出たときの出来事でもあり、前号の『KIDS』と同一線上の現象なのでしょう。さて、ここまで『スリーパーズ』に入り込んだので、ストーリーのあらましを次に述べます。(註一〇) ●『スリーパーズ』のあらすじ 物語の舞台は「へルズ・キッチン」(地獄の台所)と呼ばれるマンハッタンの犯罪多発地区。映画好きの皆さんなら歩道の路肩に設けられている消火栓を外して盛夏をすごす、アメリカの下町の子どもの昼下がりの時間を思い起こすことでしょう。 『スリーパーズ』(SLEEPERS)という題名は、少年院に九ヶ月以上収容された子どものスラングの事ですが、その下に「議論の余地のない程のベストセラー」と書いてありますから、一九五四年生まれで、元新聞記者のロレンツォ・カルカテラが書いたこの実話小説は、「議論を起こさせるほど大衆の関心を引いた内容」なのでしょう。しかし亡くなった淀川長治さんは、この作品(註一一)は一九三七年にウィリアム・ワイラーが創ったリリアン・ヘッセの原作をもとに、ハンフリーボガード主演の『デッドエンド』から思いついた作品であり、「・・・役者たちも揃った。でもどこかに不満がある。アメリカ映画は悪にもっと深みが欲しい」と「淀川長治の新シネマトーク」にて触れています。 つまり「不満」「深み」への願望は「裁判を利用した復讐劇」がジャーナルそして社会科学としての視線に満ちてはいるものの、「文学」に追いついていないからでしょう。そこが日本の『初恋地獄篇』との差でしょうか。 ストーリーを端折(はしょ)りますと一九六七年、先述したように「ヘルズ・キッチン」で生まれた四人組の仲の良い少年たちがある夏の暑い日に、子どもたちにありがちな「いたずら」によって傷害事件を起こし、一年間あまり少年院に送られ、看守たちによる暴行とレイプの毎日を送る・・・。少年虐待によって深い傷を負った四人が、その後、成人してから看守たちに復讐を遂げるというのが「あらすじ」です。 裁判によって合法的に復讐するために、子どもたちを常に見守っている神父(ロバート・デニーロ)が偽証し、アル中のダメ弁護士(ダスティ・ホフマン)が、とぼけながら「偽証」を見逃していくという展開こそは、「法」をも個人が替えることができるという現代的民主主義(古典的な法を尊守する民主主義に比して)の「法と大衆の権利」との葛藤が原作者のもう一つの意図だったのでしょうか。そこからの視点に比重を移してみるとやはりこの角度は日本では見られない興味の起こる内容です。 『スリーパーズ』は裁判の理詰めの展開をキッチリみせるというよりも、挑発的なジャーナルからの起爆剤として、社会科学上の論争を生み出す傾向は、やはり興味に満ちています。 ●暴力を見つめる「眼差し」に変化 アメリカ合衆国の凄いところは、何によらず理詰めによって事実への追求と、そこから未来を展開していくことでしょう。『スリーパーズ』に流れる少年たちへの人権擁護と現代的民主主義がセットされれば現行の「法」が漏らし、解決できない欠陥を合法的な攻撃によって処理してしまうというその問題提起と実行力です。 内容は異なりますが、三一年前に名作『明日に向かって撃て!』(一九六九年)を創った輝かしい演出家のジョージ・ロイ・ヒルが『スラップショット』(一九七七年)というアイスホッケー映画の中で、最下位チームを暴力的方法で勝利へ導きつつも、大衆(観客)を喜ばせた直後、実に「さわやかに」一転して暴力否定を行うという、一九七〇年代後半のアメリカの憂鬱を見事に吹き飛ばしてしまうのを観ると、アメリカ合衆国的優性さを見せつけるために、映画・映像のもつ「力」を活用したと感ぜざるを得ない程に、アメリカ合衆国という国には骨太い神経があるのでしょう。 ●日本の暴力映画の旋回 さて日本の暴力をみつめる映画・映像の眼差しは、『初恋 地獄篇』からどのような変化を見せているのでしょうか。 皆さんもご存知の映画『仁義なき戦い』(一九七三年)によって一世を風靡した深作欣二さんが一九九四年に創った『忠臣蔵外伝 四谷怪談』には(註一二)、暴力を見る眼に大きな飛躍を感じることができます。この映画の特徴は何といっても「忠臣蔵」と「四谷怪談」が一本にまとめられていることです。この二つの事件は、日本人ならほとんどの人々が知っているように前者が仇討ち、後者が怨念物語として途絶えることなく、正月前と夏のお盆の定番映画や演劇として毎年マスコミやさまざまな媒体によって流されており、水戸黄門のシリーズと同様に日本人・世間の琴線をがっしりと掴んでいます。 その両者がいとも容易にこの国の人々の心に住み着き、続いているのは、前者がいわば固定した上下関係を当然とする「義」にかかわる報復劇であり、後者がこれまた怨念を正当化する感情が日本人の根底あるからでしょうか。『スリーパーズ』における報復の論理が現代的民主主義の特性に合致させるべく展開した、それがアメリカ合衆国特有の現象などと思う反面、個人の心のプラットホームを抑圧する事件が起きた時、国や時代の差などとかかわりなく、自由な感性を求める人間なら誰でもが持つ、圧迫からの離脱感情であるとすると、それが表面に浮上するのは、抑え込まれていた自由な個人の意志や感情が、人間としての権利を自覚したときに、あるいは外から煽ふられたときに、さまざま形態をもって発火し、捻れて進んでいくのかも知れません。 ●暴力は変容して登場する 「忠臣蔵」や「四谷怪談」は、抑圧された日本人の情感のモロさに付随して、「正義」とか「公正さ」という衣を纏いながら展開してきたと思うのです。 深作さんのこの映画は、現在は分裂してしまった両者、独り歩きをしている両者を一本に繋げ、その根本の原因が実は両者のキィパースンである民谷伊右衛門の失職、いま風にいえばリストラされたサラリーマンが「忠臣蔵」の義士になり損ねたというエピソードがまずは一方にあり、他方に仕官への道を願望する民谷伊右衛門の就職先が、実は吉良家の家臣であるという二重の裏切りが、初めて深作さんによって鶴屋南北の原作に(一元的に)たち戻り、そして繋がったということなのでしょう。 小さな暴力の上には大きな暴力が存在することが見えた時、正義に結果した「義」という行為が、実は瑣末な次元のことであった?……、との示唆を深作さんは彼の作品で示したことになります。この国が置かれているさまざまなアポリア(難問)を解きほぐす接近手段として、深作さんのこの作品は実に貴重だと思うのです。 いま、日本に限らず現実や将来の展望を見据えるために、社会科学的な分析によって人々と世間を納得させることに力点が置かれています。そして上記の深作さんの映画もそれを映画・映像によって解明したことは大きな進展といえます。しかし社会学的分析をもう一歩進めて文学・芸術の域に昇華させることが、相互啓発へと向かう大衆民主主義の質を深める道なのだと思います。そういう意味では羽仁さんの『初恋 地獄篇』は32年前という時間差にもかかわらず、すでに文学・芸術の域に達しており、だからこそ今も人々の心に強く刻まれているのでしょう。 2000,05,10 --------------------------------------- 註一 数学者遠山啓氏を編集代表として一九七三年『ひと』として創刊。一九九九年九月リニューアル『ひと』に改名 註二 『アルタミラ通信』3号に「大衆民主主義時代のアメリカの憂鬱」と題して記述 註三 朝日新聞,二〇〇〇年四月二二日夕刊,参照 註四 東京都写真美術舘編『さよなら二〇世紀展』美術出版デザインセンター制作,二〇〇〇,参照 註五 『初恋 地獄篇』 〔'68・羽仁プロ=ATG〕 監督:羽仁進 脚本:羽仁進&寺山修司 撮影:奥村祐治 出演:高橋章夫/石石くに子/満井幸治/湯浅実/福田和子 キネマ旬報ベストテン六位(1968年) 註六 『8mm:EIGHT MILLIMETER』 (1999) 上映時間 123 分 製作国 アメリカ合衆国 初公開年月 1999/05 監督:Joel Schumacher ジョエル・シューマ カー 製作:Gavin Polone ギャヴィン・ポローン Judy Hofflundジュディ・ホフランド Joel Schumacherジョエル・シューマカ ー 脚本:Andrew Kevin Walker アンドリュー・ ケヴィン・ウォーカー 撮影:Robert Elswit ロバート・エルスウィ ット 音楽: Michael Danna マイケル・ダナ 出演: Nicolas Cageニコラス・ケイジ Joaquin Phoenixホアキン・フェニック ス James Gandolfiniジェームズ・ガンド ルフィーニ Peter Stormareピーター・ストーメア ■Joel Schumacher ジョエル・シューマカー 生年 1942〜 出身地 アメリカ/ニューヨーク州ロングア イランド 代表的な作品 ・カー・ウォッシュ (1976) 脚本 ・縮みゆく女 (1981) 監督 ・ロストボーイ (1987) 監督 ・今ひとたび (1989) 監督 ・依頼人 (1994) 監督 ■「ポルノ映画界のジャームッシュ」と呼ばれるアングラ・ポルノの監督をペーター・ストルマーレが演じていますが、歌舞伎町にも存在しそうな気がする情景を良く出 していますが、映画のあらすじよりも、いつ日本がアメリカ並みになるのか?。3 2年前の『初恋 地獄篇』(68)では、すでに羽仁進さんは今日の状況を予知していた ことになります。 脚本を書いたのは、『セブン』のアンドリュー・ケビン・ウォーカー。この映画で も、平凡な主人公が次第にアンダーグラウンドの世界を探るうちに、主人公自身が その空気に染まっていくという展開は、現世的日本の世情に重ねられます。 註七 寺山修司 他著『寺山修司の世界』新評社,一九八三,参照 註八 『アルタミラ通信』二号に記載ズミ,参照 註九 『スリーパーズ SLEEPERS』(1996) 上映時間 一四七分 製作国 アメリカ合衆国 監督:Barry Levinsonバリー・レヴィンソン 製作:Barry Levinson バリー・レヴィンソン Steve Golinスティーヴ・ゴリン 原作:Lorenzo Carcaterra ロレンツォ・カルカテラ 脚本:Barry Levinson バリー・レヴィンソン撮影:Michael Ballhaus ミヒャエル・ バルハウス 音楽:John Williams ジョン・ウィリアムズ出演: Jason Patric ジェイソン・パトリッ ク Brad Pitt ブラッド・ピット Ron Eldard ロン・エルダード Billy Crudup ビリー・クラダップ Robert DeNiro ロバート・デ・ニーロ Dustin Hoffman ダスティン・ホフマ ン Kevin Bacon ケヴィン・ベーコン 註一〇 webmaster@magazine.co.jp参照 Copyright (C) 1996 MAGAZINE HOUSE, Ltd.参照 註一一 前項及び註一〇&淀川長治の新シネマトークを参照 ■『デッドエンド:DEAD END』(1937) 製作国 アメリカ合衆国 製作会社 UA 公開情報 劇場公開 初公開年月 1939/06 上映時間 92 分 監督:William Wyler ウィリアム・ワイラー製作:Samuel Goldwyn サミュエル・ゴールド ウィン 原作: シドニー・キングスレー 脚本: Lillian Hellmanリリアン・ヘルマン 撮影:Gregg Toland グレッグ・トーランド 音楽:Alfred Newman アルフレッド・ニュー マン 出演: Joel McCrea ジョエル・マクリー Humphrey Bogart ハンフリー・ボガート Sylvia Sidney シルヴィア・シドニー Wendy Barrie ウェンディ・バリー Claire Trevor クレア・トレヴァー 関連資料 (Copyright (C) 1996 MAGAZINE HOUSE, Ltd.) 註一二 監督 深作欣二 1930年7月3日〜 茨城県生まれ 製作=松竹 1994.10.22 106分 カラー ワイド 製作 ........ 櫻井洋三 プロデューサー 佐生哲雄 齋藤立太 原克子 脚本 .............. 古田求 深作欣二 撮影 .............. 石原興 音楽 .............. 和田薫 美術 .............. 西岡善信 丸井一利 録音 ................ 広瀬浩一 調音 .............. 鈴木信一 照明 .............. 中島利男 編集 .............. 園井弘一 出演 ............. 佐藤浩市 高岡早紀 津川雅彦 荻野目慶子 渡瀬恒彦 蟹江敬三 渡辺えり子 石橋蓮司 真田広之 田村高廣 ■鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の初演は文政八年(1826年)の七月。「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演されるという形式。つまり、「四谷怪談」は「忠臣蔵」と表裏をなし、同時進行の物語なのです。深作欣二監督の「忠臣蔵外伝 四谷怪談」では、いわば初演の構想に戻ったわけです。 ■和田薫の音楽はカール・オルフの「カルミナ・ブルナ」とグスタフ・マーラーの「巨人」。江戸時代の物語に宗教音楽を組み合わせたことは、『初恋 地獄篇』に演歌を挿入することよりも凄く、しかも違和感を感じさせない。 ■キネマ旬報1994年度日本映画 ベスト10 第2位, 日本アカデミー監督賞 主な監督作品(1995.04.07現在) 仁義なき戦い/完結編 (1974) 新・仁義なき戦い (1974) 新仁義なき戦い/組長最後の日 (1976) 新・仁義なき戦い/組長の首 (1975) 北陸代理戦争 (1977) 赤穂城断絶 (1978) 柳生一族の陰謀 (1978) 復活の日 (1980) 魔界転生 (1981) 青春の門 (1981) 蒲田行進曲 (1982) 里見八犬伝 (1983) 人生劇場 (1983) 上海バンスキング (1984) 火宅の人 (1986) 華の乱 (1988) いつかギラギラする日 (1992) 忠臣蔵外伝/四谷怪談 (1994) 他 (みやわき おさむ、博士/芸術学、 中華人民共和国 華東師範大学顧問教授/中華人民共和国 厦門大学客座教授) (元 筑波大学) ----------------------- ------完---- ----------------------- |