川俣正 『アートレス マイノリティとしての現代美術』 2001年 フィルムアート社

鳴門教育大学 谷口幹也

 アートレス,この不思議な言葉は一体何を意味しているのだろう。そして私は,この本の魅力,いや川俣の仕事の魅力をどう伝えたらいいのだろうか。
 この本において,川俣は自身の仕事の変遷を実直に述べている。
 評論家でもなく,美術の研究者でもない彼の実践者としての言葉が,そこには存在している。そしてそれは,見栄や功名心とは無縁な,作家の欲望の変遷の記録といってもいいだろう。川俣は,何に興味を覚え,何を不思議と思うのか。そして何を行ってきたのか。川俣は,アートレスという言葉を手がかりに,自身の制作について語り出すのである。
 まず第一に,私が注目するのは,川俣の「普通なこと」に対するまなざしである。彼自身の言葉でいうと「普通なことを普通にやっていながら,すごく普通でない感じ」である。
 それはすでに川俣が学生であったときから抱いている興味である。学生時代の川俣が,当時住んでいた立川の中央線から見える多摩川の河川敷に,何かを仕掛けようと思いつき,そこで作品を制作したという逸話は,とても興味深い。そこには,芸術を信じ,享受することとは違う,表現の出発点,芸術の在り方を問う姿勢を見出すことができる。そして,自身の存在と生きる空間へのつきない興味を見出すことができるのである。やがてその表現者としての欲望は,川俣の代表的なプロジェクトとされる『プロジェクト・オン・ルーズヴェルト・アイランド』(1992)につながっていくこととなる。
 その後,川俣の制作における興味は,微妙にその焦点をずらしていくこととなる。第2章では,『アルクマー・プロジェクト』(1996,97),『コールマイン・プロジェクト』(1998,99)が紹介されている。『アルクマー・プロジェクト』は,彼がオランダの麻薬やアルコール依存症患者との共同作業をもとにしたプロジェクトである。以前までの仕事との違いを,川俣は,作品を「つくる」ということから,制作がどう「転がっていく」のかへと興味が移っていったと,率直に述べている。そして,この章において,川俣が強調することは,エスノメソドロジーでよく使われるリフレクシヴィティ(reflexivity:相互反射性)という言葉である。
 科学的な知識に裏打ちされ,分析・研究された現象は,現実の「生きられた現象」の中ではつねにずれていくことでしかない,というエスノメソドロジーにおける提言を,川俣は自身のテーマの微妙な移行について振りかえる際の補助線として利用する。そして,リフレクシヴィティと呼べる実践的な場におけるさまざまな活動が,たんなる個人の発想を超えて,その場にかかわる人々が相互に関係するものとして,新たな認知論,コミュニケーション論を形作る一つのヒントになり得るのではないかと,川俣は語るのである。
 その実践を,川俣は「ワーク・イン・プログレス・プロジェクト」=「成長するプロジェクト」と名づけ,試みていくこととなる。相対化された現実の中で,改めてそれらを相互にコミュニケートしながら構築していく方法論。制作する現場とそこでかかわる人たちとの関係性の中から,またつねに揺らぎを持った相互行為活動の時間軸を大幅に緩めることで,一過性ではなく継続性を維持することによって,新たなかかわりが見えてくるような,制作の在り方。それを,川俣は「ワーク・イン・プログレス・プロジェクト」と想定するのである。
 第二に,私が注目することは,川俣が自身の仕事を,「クリティカル」という言葉を通して語っていることである。
 川俣は,山田富秋によるエスノメソドロジーの成果を引用しながら,日常の中の感覚,特に視覚的なものに潜む「モラルの権力性」を指摘する。そしてパブリックな中にある「現代美術」というだけで顔を背ける多くの人たちの中に見え隠れする,組織され構造化されたモラルを指摘するのである。それは第一に述べたような「普通なこと」に対する鋭い指摘である。私たちは,普通に生活している限り,さまざまな影響を空間から受けている。そして当たり前だと思っていることの中に多くの奇妙な現実を抱えていたりする。川俣は,「常識」とされていること,「普通」とされていることそのものに,クリティカルな作品行為を仕掛け,それを如何に継続していくのかというテーマにおいて,実践し,その問いへの答えを模索するのである。
 また,現在,美術教育を考えていく場においては,「鑑賞」,「批評」の問題が話題となっている。
 川俣は,「鑑賞者」と「表現者」という二項対立の構図においては,もはや芸術の可能性は語れないのではないかと語っている。普段の生活の中で浮かび上がる当たり前な感情として,既存の美術に対し違和感をおぼえ,自分の生きる世界に対し「何か違う」という感情を心に宿すのであれば,「鑑賞」と「表現」という言葉では捉えきれない,表現することの契機をすでに,私たちの誰もが持っているといえるのではないだろうか。つまり,その「表現する」ことの中に「批評」という言葉のアクティブな意味がすでに存在している,といえるように思えるのである。私は,「批評としての表現」という表現の在り方を,考える必要があるのではないかと考えている。なぜなら,私は,川俣の中に“現在”に対するもっとも能動的な批評家としての表現者の姿を見出すからである。そしてもっともアクティブな表現者は,鑑賞者でもあるということに気づくからである。
 また,その表現者としての心情を,川俣は,「現在ということを肌で考えたいと思っている。」という言葉によって表明している。そして川俣はこう語るのである。「きわめて日常的に,そしてそれが普通のことを普通に行っていながら,すごく普通ではないこと。意図されたドラマティックさより,限りなく普通なことの中に潜むもの(アートレス)をとらえる。」「そのためには,とりあえずの自由度をいつも持ちつつ,しかし限りなく普通のことを行っていくセンスを持つことが現在重要なことのように思う。」これらの川俣の言葉は,美術教育の今後を考えていく上で,今後,もっとも重要な言葉となるのではないだろうか。「批評としての表現」,それは「鑑賞と表現」という軸では見えてこない,もっとも,重要な芸術の在り方を示しているのである。
 第三に,私が注目することは,芸術のモノローグ性と,そのモノローグを如何に他に開かれたものにするか,という川俣のテーマである。
 私は,幸運なことに,川俣があとがきでふれている美術教育実践学会に参加する機会に恵まれた。学会において川俣は,出発としてのモノローグ,モノローグでしかない表現について何度も言及していた。しかし,そのモノローグでしかない表現を,どう開かれたものにすることができるのか。そのことに自分は興味があるのだと語っていた。川俣の知性,その在り方は,この学会の場においても開かれていたということだと思われる。そこでなされていた山田富秋氏の報告に,はじめとまどいながらも,自身のこれまでの仕事に対する山田氏の解釈を,こんな風に読み解くことができるのかと,おもしろがっている様子がとても興味深かった。それはサイト(現場)にゆだね,新たに意味形成されることを楽しむ,川俣の仕事そのものと同じ在り方だったように思われる。
 また,川俣は,端的に美術教育の課題を以下のように述べている。
「閉じたモノローグ的な従属性が支配する場での作品制作行為に,開かれたコミュニケーションの場と,受動的理解から能動的理解に移行するための,新たな方法論が望まれるべきなのではないだろうか。このことは,日本における美術教育のレベルまで広がる問題を含んでいる。美術を教育することの難しさを現在,あらためて考える必要があるように思う。」 
 この川俣の提言を私たちは丁寧に検討しなければならないだろう。現在,教育の課題として掲げられている「他者理解」や,「コミュニケーション」の問題に川俣の仕事に接続し,美術教育の展望を述べることは今後より必要なこととなるだろう。だが,そこで細心の注意を払わねば,それは川俣の要請から,ずれていくものになるのではないだろうか。確かに,個から他へという構図は明らかに,現在もっとも重要な課題である。しかし,その個が,他の中において,如何に輝くのか,つまり存在意義を見出せるのかということを私たちはもっと丁寧に,美術教育の場において語るべきだろう。個が他者とどう関わりうるのか。それは個が他者の中に溶解していくのではない。溶解せず,常識にからめとられない“何か”から,私たちは語る必要があるのではないだろうか。当然,川俣のこれまでの仕事が,この問いを軸にして行われてきたことはいうまでもない。私はただ,ポリティカル・コレクトとされるテーマに飛びつく美術教育での課題の揚げ方に注意を喚起したいのである。
 私たちは当為として美術を示すのではなく,川俣のように,内在から出発すること,つまり普段の生活の中で自身が感受していることがらに耳を澄ませ,そして外へ開かれていく道筋について考える必要があるのではないだろうか。いうならば出発としてのモノローグである。このモノローグ性を,私たちは現在の常識に頼らずに,一度しっかり語る必要があるのであろう。そしてもし,教育が現実を変えていく力を養うものであると規定できるのなら,美術教育はこの力にどう寄与するかを考えねばならない。川俣の言葉の中には,この力を考えるための道筋が示されているようにも思える。そして,川俣の仕事は,実践としての芸術と,教育の可能性を示してもいるといえよう。
 以上,私は三つの観点から,川俣の著書について述べてきた。
 この本において掲げられているテーマは多岐にわたるものである。そしてその一つ一つが,丁寧な検討を要請するものであった。故に,また違った角度から,この本について論じるられる必要があるだろう。だが,アートレス,この言葉から,私たちは美術教育を考えてみる必要があるのは明確なようである。つまりそれは,美術や芸術,アートという言葉を使わずに,私たちが何を大切に思い,何を次世代に伝えようとしているかについて考えてみるということだ。そして次に,私たちは,各々それぞれが,問いを掲げ,出発することを考えるべきだろう。その出発を足がかりとし,私たちは対話を行い,川俣が注目するところのリフレクシヴィティが成立する関係を,私たち自身で作り出さなければならない。
 それが,私が川俣から受け取った,最大のメッセージである。