辻政博著『子どもの絵の発達過程 〜全心身的活動から視覚的統合へ〜』2003年 日本文教出版
鳴門教育大学院生 井無田浩
19世紀初頭に始まった,子どもの絵の発達についての文献を繙き,それらの先行研究を体系づけていくことにより,これからの造形教育を再構築していく基礎になることを目的とした一冊である。それは著者のねらいどおりであり,そのために,本文96ページ中に,80もの「注および引用」と,50もの「参考文献」を掲載されている努力に脱帽する。また,単に「温故知新」に留まらず,それぞれの研究者を紹介していく過程で,読み手も子どもの絵を見る目を深めていける構成は,秀逸である。
第1章1〜3では,研究の構想や目的が書かれてあり,本書が論文として出発したものであることが分かる。先行研究の成果と問題点を子どもの絵の捉え方の深まりを追って紹介しており,筋の通った構成が分かりやすい。まず初めに,R.ケロッグによる,共通のパターン分類と一定の順序を持った共通の変化を紹介し,その成果を認めつつも,子ども自身の心の構造のあり方を考慮していないことを著者は批判している。次に,G.H.リュケの「実物の描写ではない,自分の心を投影する」という考え方について,鬼丸吉弘が批判していることを採り上げ,知の概念化作用へと導いている。また,R.アルンハイムのゲシュタルト心理学による主知説に基づき,「子どもは見たものを描く」として,G.H.リュッケの見方に異議を唱え,「視覚や描画だけでなく,全心身的な関係」という捉え方に辿り着き,さらに,身体感覚の統合としての描画へと,論理が展開する構成である。さて,造形教育はこれまで「発達」=「表面的な描画の発達」であると捉えられていた向きがあるように思う。本書ではそこに「全心身的活動」や「視覚的統合」という観点を紹介し,盛り込んでいることに意義があると思う。しかし,「発達」の観点はさらに広く,「運動」「精神」「社会性」「認知」「言語」「描画」「脳波」等の各方面から研究が進められている。子どもは未分化な存在で,それらが複雑に影響し合って発達しているからである。本来であれば,それら全てを統合していく研究の必要性があるが,それは途方もなく難しいことであり,造形教育から逸脱してしまうことになるにちがいない。どこまでを造形活動と見なし,造形教育に生かしていくかということを再検討しなければならないのではないだろうか。また,先行研究が幼児期に集中しているため,そちらに重点が置かれてしまいがちであるが,学校教育を考える時,小学生の期間をもっと細分化して検討したり,立体作品の制作と発達の関係にも研究を広げるなどの試みも必要になってくるのではないかと思う。
第1章4では,「発達段階の区分」を提案している。1,なぐりがきの段階(全心身的な活動,原初的な探索性,身体運動の痕跡),2,形の発見と命名の段階(図と地の発見,内を環境から独立したものと捉える),3,図式的な表現の段階(視覚的な思考,図式,対象と他との関係) ,4,視覚的な表現の段階(視覚の分化)とまとめられている。ここまで先行研究の紹介にページを割いてきたことと比較すると,大変にシンプルで,少々拍子抜けする感がある。「子どもの心理的な構造の変化の推移を発達論的視点から考察」しているという裏付けを持っていることが,この「発達段階の区分」の最大の価値であると思う。それは著者独自の考察であり,本書の核心部であるから,さらに詳しく論究していただきたかったと思う。
第2章は,実際の子どもの絵を,発達段階に位置付ける作業を行っている。本書は造形教育の再構築の基礎を目的としているので,典型例を紹介することに徹しており,教育活動にどう活かすかということについては読者に委ねられている。しかし,下記に述べるように,著者は「子どもは環境と共に育つ」という点にも着目し始めている。それを踏まえると,私たちは子どもの絵を完全に客観的に見ることはできないといえるのではないだろうか。私たちもまた子どもと共にある存在だから,見る行為そのものが作品に影響を与えてしまうからである。子どもの絵をどう見て,どう対応していくかということは難しく,受容的態度で見るということだけでは済まないことがある。このことは,先に触れた「どこまでが造形教育か」という問題点にも関わってくると思われる。子どもの絵を見る時,描いている子どもにどう関わってきたかということをも配慮するとすれば,今後は典型例ではなく個別の事例検討という形でしか研究を進められないかもしれないのである。
第3章では,発達のおさらいが丁寧になされている。まとめの後にさらに飛躍して,面白い提案がなされている。先に触れた,「描画の発達と環境について」の項である。著者は分析の過程で,環境が発達に影響を与えることを,下記点について垣間見たと書いている。1,描画活動の条件,2,周囲からの言葉による投げかけ,3,周囲の評価,4,仲間関係,5,学校での教授,6,今日的な視覚メディアの発達,の6点である。着眼点としてみると,これまでにも見られた事柄であるものの,「発達」の観点から提案しているところが面白い。これらの事柄を織り交ぜつつ再度事例を検討していく取り組みが行われるならば,さらに有益な研究になろう。これら意義ある著者の提案を認めつつも,私は「発達には愛情が必要である」と考えているので,第3章のテーマに現れている「子どもと環境」と明確に分けてしまう著者の考え方に違和感を感じる。〈その子が発達していく条件が満たされているか〉という観点で私自身は考えていきたいと思う。つまり,〈環境もその子の中にある〉という視点である。いずれにしても,本書によって私たちは神の視点で子どもの絵を見ることはできないのであり,子どもに寄り添っていく姿勢の大切さと難しさを改めて認識させられたのである。
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