ミュージアムの成立(その3)
国立民族学博物館 吉田憲司
博物学の知 18世紀に入つてリンネやビュフォンの手により博物学(自然史)が確立すると、こうした状況に明らかな変化がおこってくる。
先にも述べたように、17世紀以前の珍品の収集は、神の創り出した存在の連鎖を、世界の多様性そのものを写し取ることで証明しようとするものであった。そこでは、一見雑多な事物も、素材の異同によって、たがいにからまりあい、一連の創造の過程の産物として固有の意味を与えられていた。しかし、大航海時代以降、「異文化」との大規模な接触が進行するにつれ、神の意思による存在の連鎖の物語だけでは語りきれない多種多様な事物がヨーロッパ世界へ大量に流入した。そうした未知の事物の出現をまえにして、18世紀のヨーロッパが編み出した新たな世界認識の方法が、ものをその本来の意味から切り離し、目にみえる特徴だけを基準にして分類し、並べ、整理するというものであった。それが、すなわち、博物学である。もちろん、博物学もまた、少なくともその出発点においては、「創造のわざに示された神の英知」の理解を目的とする点では、それまでと同じキリスト教的信念の上に立つていた。
18世紀以降に成立する博物学の革新性は、その「神の英知」を世界の体系性を明らかにすることで証明しようとしたところにある。 フーコーは、「博物学とは可視的なものに名を与える作業なのだ」と述べたが、彼の言うとおり、博物学が世界の体系性を示すのに用いた手段は、何よりもまず命名による分類という作業であった。したがって、そこでは、それぞれのものがもともと属していたコンテクストはすべて捨象される。ヒクイドリは、それが生息するモルッカ諸島の森林のなかに置かれるのでなく、その形態から、アフリカの草原に住むダチョウの隣りに位置づけられる。こうした作業がもっとも徹底したかたちで進められたのが植物の分野であり、ついで動物の分野であった。
動植物界についての体系的な分類をいちはやく完成させたりンネは、周知のとおり、その著『自然の体系』のなかで、生物の世界を、界(キングダム)、綱(クラス)、目(オーダー)、属(ジーナス)と階層的に区分した。リンネ自身は科(ファミリー)という概念は用いていない。科という階級を目と属のあいだに設けたのは、リンネに続くアダンソンの著作『植物の科』が最初である。いずれにせよ、この時期に成立したこうした分類において、キングダムやクラス、ファミリーという、近代の社会組織の用語が用いられていることは、博物学の性格を考えるうえできわめて示唆的である。この時期、生物界もまた、社会の組織に対するのと同じ視座のもとに分類・再編されていったのである。 実際、この時期には、社会のあらゆる場面で、対象を格子状の区画のなかに配列していくという、体系的な整理・分類の装置がいっせいに出現する。フーコーの指摘した、監獄、病院、学校、動物園、植物園、そして百科事典などである。
フーコーによれば、犯罪者というカテゴリーをもうけて監獄に囲い込むこと、病人を健常者から隔離して病院に収容すること、就学者を階層的に区別して学級に配分すること、生物の分類をうちたてて植物園や動物園を整備すること、人間のもつ可能なかぎりの知識をアルファベットという文字の懇意的秩序のうちに配列して百科事典を編むことは、雑然とした、無益な、もしくは危険な多数の人間や事物を表状に「秩序づけられた多様性へと変える」という意味で同じ操作をともなうものであるという。そして彼は、18世紀には、こうした表の構成が「権力の技術」のひとつであると同時に、知の手段のひとつ」であったと明言する。公共博物館もまた、こうした知のありかたをものに対して適用する機関として、18世紀後半に登場してくるのである。

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