「鑑賞」に思う

兵庫教育大学 米澤 有恒(美学)


 一昔前というと私が学生の頃だから、四十年の余も前のことになる。その頃、学校には「映画鑑賞会」があり「名曲鑑賞」の時間があった。一学期に一回くらいだったろうか、団体で「文部省推薦」の映画を見に行ったり音楽会で「交響曲」のレコードを聴いた。楽しかったり、退屈でうんざりしたりしたものだ。最近のことは分からないけれども、その当時、「御趣味は?」と問われて、映画鑑賞、音楽鑑賞などと答えるのが通例だった。今思えば、自分で「鑑賞」というのも少し気が退けるいい方である。ただ単に「映画を見る」とか「音楽を聞く」のと違って、鑑賞という言葉で、自分の趣味の高尚さとそれを持つ自分の精神的ステータスの類を示そうとする、聊の気負いがなくはなかっただろう。勿論、趣味の高尚下卑といった区別自体、明らかに過去のもので、今日、人は己が自身自分の趣味を誇って能いのである。それは兎も角、鑑賞、それは作品を見分け聴き分けて味わい評価することである。芸術作品に目が利き耳が利くということだが、目利きconnaisseurであるためには、当然、何らかの判定基準がなければならない。この基準を「鑑・かがみ」という。かがみ、ものをかんがみる際の拠り所のことである。これに照らして、照らされたものの意義や価値を判定する、鑑とは、丁度、その金属が金か金でないかを判別する「試金石touchstone」のようなものである。だから例えば、趣味を映画鑑賞や音楽鑑賞というとき、暗黙の裡に、自分は名画や名曲を判定するそれなりの基準を持っている、その方面に多少の造詣がある、という自負があった筈である。何でも彼でも手当たり次第に楽しむというのであれば、趣味は「映画鑑賞」、「音楽鑑賞」で能いではないか。音楽を楽しむことに「観賞」の字はいかにも不吊合いだが、要するに、それが英語でいう"adomiration"であって"appreciation"ではないということである。
 扨て、鑑賞を横文字で考えてみると、どんなことになるだろうか。英語の「鑑賞appreciation」、多分、この語は同根の仏語の"appreciation" がイギリスへ移入されたものだろう。仏語のそれは物理的価値を鑑定したり評定したりすることを指した。鑑定や評価を意味する"appreciation"は、十七世紀頃に、ラテン語の成句"adpretium"、値踏みをするとか、値をつけるという意味から生まれたらしい。それ迄、ラテン語では概して"aestimatio"、即ち"estimate"の語が用いられていた。この語には人間の行いに対する尊敬や敬意の意味が含まれていて、端的にものの物質的価値だけを示す言葉ではなかった。人間に対する人間的価値づけと、ものに対する人間的価値づけを区別する必要が生じたとき、"appreciation"と"estimation"を差当たり使い分ける方が便利だと考えられたのだろう。尤も、ほどなく両者が同じ意味で使用されることになる。
 因に、"appreciation"の元になるラテン語の"pretium"は価格や値打ちの謂だった。そしてこの語を更にギリシアに溯ると「売買」の謂に発している。"appreciation"の語が生まれる十七世紀といえば、ルーヴル宮のサロンで美術品の鑑賞会が始まった頃である。仲々に興味深い「暗合」ということもできるだろう。
 鑑賞が「値踏み」を語原としているとすると、西欧にあっても、やはり鑑賞に基準がある訳である。その際、その作品に具体的に幾らの値がつくかは第二義的なことで、ここでいう基準とは、その作品を作品として認知させる文化水準そのもののことである。鑑賞というのは、人間的所産に対して、文化的な評価をする人間的営為といって能いだろう。正当な鑑賞が為されるためにはそれ相当の文化的意識、学識や知見が求められるのである。
 こう考えるとき、学校で行われている「鑑賞教育」の狙いが今一つ判然としない、このことが気になってくる。意気込んで「鑑賞教育」などといわず、精々、「観賞の時間」ではいけないのだろうか。