長尾義人 兵庫教育大学学校教育学部助教授。
関西学院大学院博士課程文学研究科美学専攻修了、専門は音楽学(音楽美学・音楽史学)「ルネサンス、バロック時代の音楽史的意味」「音環境論」。著書に『音が織りなすパフォーマンスの世界』昭和堂、『音は生きている〈芸術フォーラム6〉』頚草書房、「魔術的バラ十字思想と〈孤独な瞑想〉の音楽」などがある。

引用コード 長尾義人「絵巻物の音風景をめぐって−『信貴山縁起絵巻』を中心に−『芸術と教育』第5号、兵庫教育大学芸術系教育講座、2001、pp37-56 より転載。

絵巻物の音風景をめぐって
−『信貴山縁起絵巻』を中心に−その2

長尾義人

.情趣的気分から音の出来事へ
 『源氏物語絵巻』は、「大和絵」の耽美的世界を雲外の彼方に感性を飛翔させるものとしてあくまで情趣的である。濃彩作り絵形式と流れるような文字の装飾を思わせる詞書が交互に現れるこの絵巻は、すでに知られていた『源氏物語』に漂う雅趣を靄の中に馨しい色彩の香りを伝えてくる。現在は、巻物形式としてではなく、詞書と絵とが切り離されて保存されており、また、徳川本(蓬生・関屋・柏木・横笛・竹河・橋姫・早蕨・宿木・東屋)、五島本(鈴虫・夕霧・御法)併せて12帖から19図が残されている。
 この絵巻は、当然のことながら『源氏物語』54帖を前提としていることは言うまでもない。物語が漂わせる雅趣の香気を感得することによって、観者と絵とが相乗的に特殊な空間を生み出し、独自の感覚的世界を現出するのである。それゆえに全ての感覚は、その色彩と構図の中に溶解し、研ぎ澄まされ、まさに仮想現実的な体験を享受するのである。この享受の背後には、黄昏行く貴人たちの昔日への郷愁がある。それは庶民の想う郷愁ではない。日常のはかなさを情趣をもって生きる宮中にあったものの情感である。
 さて、この絵巻は、「女絵」と呼ばれている。源豊宗は、この「女絵」の特徴として五つの特徴を指摘している。藤原期から現れる女性たちのたしなみとしての物語や絵画への関心が顕著になることに注目し、「女性が描いた絵」であることを先ず挙げている。第二に、彼女たちが描く絵画が物語的情緒を帯びたものであることから、「物語絵」であったこととしている。第三に、「女性たちの物語絵」であったことから「原則的には花やかに彩色を加えた美しい絵」、つまり「作り絵」であり、「作る」ということから「色美しく飾ること」をその特徴としている。第四に、女性の愛玩としての絵画であることから、一つの小品、一枚紙に描かれた絵、「一枚絵」であったということである。この小さい画面が後に冊子絵、絵巻へと展開されていくのである。そして最後の特徴として、『源氏物語絵巻』に見られるユニークな技法、つまり屋内描写における吹抜屋台や人物表現での引目鉤鼻という描法を「女絵」が生み出したことを挙げている[源:1976:74f.]。
 このような源の提起した「女絵」の特徴は、この時期の女性たちの「物語」への嗜好と密接に関係している。この性格の背景には、日本人の世界観が大きく作用しているとして源は、「ヨーロッパの空間的世界観からみれば、人間はたんなる肉体者であるけれども、時間的世界観から見れば、人間は『人生を生きる存在』である」とし、日本人の見る人間は「肉体者」ではなく「人生者」であるとしている。[ibid.:77]しかし、この人生者は、決して庶民ではなく、沈滞にあえぐ貴人たちであった。『源氏物語絵巻』の作者は、現在宮廷絵所の絵師たちによって描かれたとされており、詞書も書風から四人の筆によって書かれたとされているが、宮廷の気風を共有する心情をこの絵巻に込めたであろうことが想像されるのである。
 この絵巻の現出する世界は、それを繰り広げた瞬間に多様な情趣によって観者の感性を捉える。ここには、もはや「音の風景」を超えた「情趣的感覚の風景」が現出されるのである。
 では、『源氏物語絵巻』の「女絵」とまったく異なったダイナミズムをもつ「男絵」と呼ばれる絵巻は、どのような「音の風景」を我々に伝えてくれるのであろうか。
 貞観八年(866)に起きた歴史的事件である「応天門炎上」に関わる劇的な展開を繰り広げる『伴大納言絵巻』(三巻)は、ダイナミックな画面構成と緊迫した事件の展開を見事に描き出している。自由闊達な描線による人物の表情の表現、見事な色彩など、絵巻の中でも傑出した作品(常盤光長筆)であるとされている。
 場面は、人々が左方へと好奇と驚愕の表情を持って向かう姿から始まる上巻は、それを広げた時から、観者は事件の中に取り込まれる。徐々に群集が増え、突然に紅蓮の炎の圧倒的な迫力で応天門の炎上に達する。そして、この炎上をめぐって清和天皇への伴大納言善男の讒言と藤原義房の諫言の場面で終わる。中巻では、冤罪に巻き込まれた源左大臣信が無実の罪であることを天に訴える場面と家中のものの嘆き、そして朝廷から無実であることを伝える使者が登場する。詞書の後、一転して貴族の世界から庶民の世界に場面が転換する。ここで偶然の出来事で真実が暴露するという劇的な場面が描かれている。特に、子供同士の喧嘩に加担した親である伴善男の出納ともう一人の子供の親である舎人とのやり取りによって、応天門炎上の真実が明らかにされることを予想させてこの巻は終わる。そして下巻では、再び出納と舎人の喧嘩の場所から始まる。ここで応天門炎上の真犯人が伴大納言であることが判明し、検非違使の一団が彼を流罪にするために捕縛に向かう場面が続き、彼の家中のものが主人の罪に嘆き悲しみ、連行される善男を門前に見送る使用人たち、そして再び追捕使一行とともに八葉車に乗せられ連行される場面で終わる。
 ここには『源氏』に見られた情趣的感性的な表現はみられない。冒頭の場面から人間の様々な感情によって発せられる声が聴かれる。また、応天門の炎上の表現では、激しく燃える炎のすさまじい勢いが群集の叫びを圧倒するような音の世界を生み出している。冤罪に嘆く貴人たちの嘆きの静謐さとこれら庶民の声の響きが極めて対照的である。『源氏』が静的な情趣を画面に湛えていたことを考えると、極めて動的で賑やかな情景を伝えている。特に、冒頭の人々の生き生きした表情から聞かれる様々な声、また中巻の出納と舎人の子供たちの喧嘩の場面では、庶民の生活の一端が垣間見られるが、激しい喧嘩の推移が「異時同図」の技法によって緊張感をもって描かれている。そこに描かれた庶民の表情や子供たちの動きによって、この場面の叫喚がリアルに聞かれ、噂を伝える場面ではその囁きさえも伝わるようである。また、源信と伴善男の家中の者の号泣がその表情からも聞かれる。さらに、騎乗の追捕使たちによる馬の蹄の音、下郎たちの勝手な会話なども聞き取れそうである。
 この絵巻は、主題の重要事件を克明に追って行くというサスペンス性と緊迫感と期待感が満ち溢れている。宮廷や貴族の館の表現は『源氏』に通じるものがあり、検非違使や追捕使たちの衣装や動きには『戦記絵巻』を伺わせ、庶民の表現には、生き生きとした嗚呼絵の系統を示している。しかし、最も注目すべきは、その出色の場面展開とダイナミズムだけではなく、そこに聞こえる音のダイナミズムの豊かさであろう。冒頭の人々が群集へと成っていく場面での漸強的な効果、そしてそれが応天門の劫火という劇的な音量に向かっていく。その後一転して現れるのは、宮中で天皇に伴善男の讒言の場面であるが、音の世界は一気に静寂となる。場面自体は醜悪なものであるが、宮廷の静謐な環境は、先の喧騒と極めて対照的であり、観者の聴覚は善男の発する言葉に耳を欹てるのである。
 この絵巻のもつ迫真的なドラマは、一種映画的効果を十分に内在しているが、それは観者の想像的聴取によってより劇的な観照を可能にするのである。しかし、この事件の展開の中に聞かれる音の世界は、テーマが歴史的事件であることを考えれば、この絵巻が描かれた時期のリアルな響きであるだろう。それは在りうべき音の風景であると言える。それゆえに、この絵巻は人間世界の事実性を雄弁に伝えることができるのである。
 では、『伴大納言絵巻』の伝えるリアルな音の想像性とは異なり、創造的世界に聴覚を広げるものであると想われるのが『信貴山縁起絵巻』(三巻)なのではないだろうか。(つづく)