米国における美術鑑賞教育の史的展開

兵庫教育大学大学院 荒田美玲


 欧米諸国では19世紀末から20世紀初頭にかけて、「芸術教育運動」が起こる。この運動は、「芸術活動を人間完成の重要な手段と認め、これを教育のなかに取り入れようとする」ものである。そのなかで、鑑賞の必要性が位置付けられていく。
 米国における20世紀初頭の美術鑑賞は、「ピクチャースタディー」(作品研究)が主流であった。そこでは鑑賞教育において芸術作品の複製画を使用した。ピクチャースタディーの教育目的は、道徳的要素を重視したようだ。美・愛国心・宗教的な価値観といった要素に重点がおかれ、批評家や教師は絵画作品に描かれた人物の私生活に関する文献購読、ストーリーテリングなど言語的な分析を優先した。
 
 1920年代に入ってもピクチャースタディー運動は続けられた。アーサー・ダウ(Arthur Dow)は美術科の組織化・系統化を唱道したことで知られる。彼は、鑑賞に関してピクチャースタディーとは異なる見方を与えた。ダウは教師に構図の原理を与え、どんな絵にも適用することができるような形態についての専門用語を体系化しようとした。その結果、それらが作品の出来不出来を決定するための評価基準としても機能した。彼の絵画構成の基本原理は、線と濃淡と明度と色相であった。1899年に発行されて、1913年に改訂された「構図」(Composition)によって、実践に直結する方法を教師に提供した。ダウの構造分析は以前のピクチャースタディー運動とはアプローチが異なった。それは「生きた絵」(Living Picture)と呼ばれ、有名な絵画を劇化するもので、学校の合科的教授においてできるだけ忠実に照明を施したり、衣装を再現するものであった。また、脚本を書いたり劇的な構成を考えたり、詩を作ったり演奏をすることも行われた。絵画と劇のこの融合は1940年代まで続き、ある場合には絵のジオラマ化が行われた。
 1920年代の著しい変化は、鑑賞の対象が芸術作品の枠を超えてより広い鑑賞の視点に移行したことである。対象があまりに広範囲であったため、生活用品や大量生産品まで含まれるようになった。したがって、鑑賞教育の唱道者たちは消費者の一般的な嗜好を発達させる支援をすることを示唆するようになった。また、子供の環境への関心が絵画作品からの脱皮を促進した。
 このことは、鑑賞対象への関心が「純粋美術」から後に「応用美術」と呼ばれる領域に移行しようとしていたことを例証するものである。

 1920年代と1930年代の間の芸術教育はアルバート・バーンズ財団発行「美術と教育」におけるジョン・デューイ、トーマス・マンローらの著述から啓発されている。心理学者と同様に哲学者と美学者も、学校の美術教育へ関心を向けるようになった。デューイもマンローも芸術家でなかったが、両者は表現と鑑賞の両側面を重視した。デューイは創造が「アクティブ」であり、鑑賞は「受け身」であるという一般的な考えを拒否して、前者を「芸術的」と、そして後者を「美的」と呼ぶのを好んだ。彼は、双方とも教育に不可欠な部分であると感じて美術と応用美術の区別を拒絶したのである。
デューイの美的経験の概念は広範であった。彼の、芸術作品を超えてすべての芸術体験が重要であるという考えは小学校より大学レベルで受け入れられた。

 1930年代の芸術鑑賞に関するプログラムは、ミズーリ州のクレイトンおよびニューヨーク市において、中学校よりも小学校で多く試みられたようだ。それ以前は表現が重要視されていたのである。ニューヨーク市の学校で使用された教科書の鑑賞プログラムでは、「Everyday Art」(生活芸術)すなわち、地域環境、家、服装、という応用美術が重要視されていたのがわかる。
 小学校の子どもの鑑賞能力に興味を持っていた研究者の一人がM.D.フォスである。彼は、30年代後半に小学校段階でも芸術の原理と美術鑑賞が教えられるべきであると主張し、この考え方は小学校教育で、主題の意味や作品の構図に眼を向けさせることとなる。
 1930年代には、様々な研究者が芸術に対して興味を高めた。鑑賞に対する調査研究も盛んになった。芸術は美的なものであると同様に社会的なものでもあるという考え方が浸透していく背景には、ルーズベルト政権下における芸術プロジェクトの政府支援、進歩主義的な教育に芸術を取り入れようという動き、教育力としての美術館の機能重視、及び心理学者や哲学者の関心の高まりがあった。
 学校における美術鑑賞への影響力として博物館が果たす役割には大きいものがあり、この点に最初に着目したのは米国である。1920年代には早くも、博物館の役割についての議論が盛んになった。博物館(美術館)が専門的機関であるという見方と、地域サービスの機関であるという見方があった。美術館における教育普及プログラムは、学校と一般大衆の両方に向けられるべきであるという考え方が形成されるようになる。1930年代には、公教育と同様に専門的機関の新しい方法が開発された。メトロポリタン美術館、ロサンゼルスのサウスウェスト博物館、およびシンシナチ博物館は大人達と同様に子供のための芸術鑑賞関連の新プログラムを開始した機関のわずかな例である。その内容には土曜日午前プログラム、講習会、制作のクラス、直接的な学校との連携を含まれていた。

 1940年代の主要な芸術鑑賞問題は分析か総合かの間を揺れ動いたが、この論議は、その後幾度となく定期的に現われてきている。
 デューイは中学校で盛んであったデザイン構成要素を学ぶというような、当時一般的だった分析的方法に反対した。内容、意味、またはメディウムなどの要素は個別に扱われ、これらを総合した方向性は考慮されなかったからである。デューイは意味のある全体を切り離し、それを最後になって統一することは無理であると主張した。有機的な連関を失った分析には意味がないと彼は主張したのである。
 1940年代には普通教育における芸術の役割は、進歩主義的な立場から主張され、鑑賞対象としては、ポストカードよりむしろ実際の美術品の使用が推薦されるようになった。写真技術と印画技術の改良によって、1960年代半ばには芸術鑑賞教材が開発され、特に発色のよいスライドフィルムの導入をみた。教育資料もテレビ利用も可能になり品質は向上し続けた。地域そのものも資料になって、地域の美術館へ校外学習することが一般的になっていた。

 1950年代と1960年代は美術教育の過渡期であった。1930年代以降、美術教育は芸術作品を生み出すことが中心と考えられていて、様々な画材を使ったり技法を使うことを教えることが美術教育の成果とされた。しかし1960年代になると、教科のディシプリンが美術の経験だけでなく広く知識を形成することに関わるとみなされるようになった。1968年の美術教育会議の指針のなかで「学校の美術は一連の知識と活動の両方である」と示されている。すなわち、美術の教科内容は、子どもが自立的に発達する活動であるという考え方から美術カリキュラムの内容構造であるという立場に変わったことを表している。マニュエル・バルカンは、その委員会において活動の焦点が子どもの特性から美術の特性へ変わるべきだと主張した。バルカンの考えは、スプートニクショックからの学者の考えを反映し、美術教育が内容重視の立場への変更を示すものであった。彼は、美術の授業の内容は作品制作と現代および歴史的作品に現れる特質を考察、分析するものとを含むべきであると提案した。美術の学習課程は複雑であり子どもが成長すれば自動的に成果が上がるものではないとアイスナーも賛同した。ローウェンフェルドや発達心理学者たちが唱導した児童中心主義から離れることは、美術鑑賞にとっても変革を促した。その変化が全体的な美術課程に鑑賞を含めることを正当化したからである。その結果、美術のカリキュラムに主要な以下の3つの成果を含めるようにバルカンは提案したのである。
1美術作品を制作すること(美術経験)
2美術の歴史的事柄について知ること(美術史)
3美術批評的分析を行うこと(美術鑑賞)

 70年以降、DBAE運動(Discipline Based Art Education 学問に依拠した美術教育)が起こる。これは、60年代のディシプリンの考え方を進めたもので制作、美術批評、美術史、美学という4つの学問をバランスよく統合し鑑賞や創造する能力を目的とするカリキュラムである。このDBAEは、その後米国の美術教育の主流として教科書などにも反映されて、美術館教育との連携も視野に入れながら実践されてきている。