近代日本における美術鑑賞教育方法論の発生と展開(戦前編)

(その2)

金子一夫(茨城大学教育学部教授)

2. 明治後期・大正前半期(明治35年〜大正6年)
鑑賞教材の出現と初期研究期

2.1. 普通教育ニ於ケル図画取調委員会明治30年代に教育的図画が登場して、表現と鑑賞が分化する。明治37年12月発行の図画教育会『図画教科書』は教育的図画の理念を初めて具体化した教科書であった。
 そこに初めて鑑賞教材が登場する。教育的図画は専門的でない普通教育用図画という意味の命名で、何かに役く立つと性格づけられた非美術的図画である。この教育的図画概念によって手本から美的要素は排除されてしまった。それを補うのが鑑賞であったというのが、筆者の美術教育史的見解である。
 明治中後期の毛筆画教科書も鉛筆画教科書もかなり絵画的・美的な性格のものであり、いわゆる正確な認識や技能といった概念だけでは捉えきれないものである。ところが非専門的な普通教育用図画が推進されることによって、各題材は単なる散文的な技術練習になり、美的要素は駆逐されていった。実習題材から排除された美的要素は鑑賞教材に特化していったと言える。
 明治後期の教科書には参考画という教材がよく載つている。参考画は模写の対象ではなく、実習上の参考資料である。この参考は鑑賞に当たるかどうか問題になる。これは昭和50年代の学習指導要領で表現に付随して行うのが原則とされた鑑賞規定と似ている。参考用に極端に変形されたものでない限り、様々な要素複合体である絵画から必要元素の抽出・理解が求められているので、参考画を鑑賞の一形態と位置づけてよいであろう。
 明治33年に公布された小学校令施行規則で「図画八通常ノ形体ヲ着眼シ正シク之ヲ画クノ能ヲ得シメ兼テ実感ヲ養フヲ以テ目的トス」と図画科の目的が定められた。この「実感ヲ養フ」という文言が、後々まで鑑賞指導の法的根拠として使われていく。
 この明治30年代、1900年前後から欧米、特にドイツとアメリカで美術鑑賞教育が盛んに研究実践されるようになった。これが日本にも伝わり鑑賞教育研究が始まった。大正昭和初期の鑑賞教育論が参考書目に挙げた、1900年前後の欧米鑑賞教育研究書を発行順に挙げておく。

LichtWark,A. Die Kunst in die Schule. (1887)
Lichtwark, A. Uebungen in der Betrachtung vonKunstwerken. (Hamburg:l897, Berlin: 1909)
Lange, K. Die Kunstlerische Erziehung der Deutschen Jugend. (Darmstadt: 1893)
Turner, A. et. al. Art in the School Room - pictures and their innuence. (Boston:l893)
Emery, M.S. How to Enjoy Pictures. (Boston :c1898)
Witt, R.S. How to Look at Pictures. (New York:1902)
Hayward, F. H. Lesson in Appreciation. (New York: 1907)
Caffin, C.H. A Child's Guides to Pictures. (New York: 1908)
Dow, A. W. Theory and Practice of Teaching Art. (New York: 1908)
Hurl, E.M. How to Show Pictures to Chydren. (Boston:l914) 

 欧米の鑑賞教育研究を参考にしたことが最初にうかがえるのは、教育的図画の概念を提示した普通教育二於ケル図画取調委員会の調査報告である。その内容は『官報』第6338号、明治37年8月15日に公表される。これは社会に公表されたという意味である。委員会は明治35年に設置され、同年2月からずっと審議を続けて明治36年7月に終わっている。それゆえ報告自体は明治37年に提出されたと思われる。その報告の各学校種毎に記された「教授上ノ注意」の中に鑑賞に関する内容が明記されている。該当部分を抜粋する。小学校図画科教授要目
「教授下[教授上の誤植?]ノ注意」
十三、美術作品ノ閲覧及講話
凡ソ図画科二於テハ教員ハ成ルヘク多クノ機会ヲ利用シ児童ヲシテ美術及工芸二関スル作品若八其ノ正確ナル複製物ヲ閲覧セシメ又ハ美術二関スル極テ平易ナル講話ヲナスコト必要ナリ
(中略)師範学校図画科教授要目
 教授上ノ注意
十一、美術作品ノ閲覧
 図画科ニ於テハ実技ノ練習卜相挨テ艦賞ノ能力ヲ養ハシムルヲ要スルカ故ニ教員ハ成ルヘク多クノ機会ヲ利用シ生徒ヲシテ名画及其ノ他ノ美術作品若ハ其正確ナル複製物ヲ閲覧セシメ之二就テ通当ノ説明ヲ為スヘシ
十二、講話
 図画実習ノ間ニ教員ハ時々図画ニ関係アル学術上ノ講話ヲナスヘシ例へハ着色ヲ授クルニ際シテ色彩配合ノ法則ヲ語り図案ヲ授クルニ当りテハ図案法ノ要義又ハ其ノ歴史ノ概要ヲ説キ手工ヲ授クルニ当りテ材料ノ性質用途工作法等ノ大要ヲ語リ其ノ他時宜ニ応シテ一般美術ニ関スル平易ナル講話ヲナスカ如シ 中学校及び高等女学校の「教授上ノ注意」中の「美術作品ノ閲覧」「講話」も同じ文面である。以上のように小学校では中等学校の閲覧と講話をもっと未分化の形で行い、中等学校では鑑賞の能力を養うために名画等の美術作品を見せ適当な説明をすべきと明言している。
 公表の一年前の明治36年8月に文部省主催図画教授法講習会が東京美術学校で開かれた。委員会結審直後である。取認委員の白浜徴が同講習会での講師になった。その講話は『(文部省講習会)図画教授法』(大日本図書、明治37年3月)として出版された。白浜は「美術作品の閲覧及び講話」という見出しで、委員会報告の該当項目と同内容を話した後に次のように続ける。「西洋の画手本には、巻末に古さ名作品の複写したるものを附けあるもの多し。艮き方法と言うべし。クロス氏曰く『古人の傑作の複写したるものを児童の画手本に載するは大いに価値あるものなり。仮令三角や四角を画き居る程度のものにても、之を見るときは、刺戟せらるゝものなり』と。
 世に、粉本と称え、粗雑なる印刷画、又は如何はしき写しを参考として集めるよりは寧ろ価格廉にして正確なる名作品の鮮明なる写真版を集むる方得策ならん。兎に角、学校にて理化学の標本を購求すると同しく、図画教育のために以上の設備をなすは至当の事にして、其の術に当る諸君の勉めなるべし。」

金子一夫(かねこかずお)
 茨城大学教育学部教授。美術教育学専攻。
1950年茨城県生まれ。茨城大学卒業後、東京芸術大学大学院美術研究科美術教育学専攻修了。博士(美術)(1993年、東京芸術大学)。
 1978年より現職。大学院在学時より、近代日本美術教育史を研究。1995年より、鑑賞教育方法論についても発表する。
 主要著書に『近代日本美術教育史の研究 明治時代』(中央公論美術出版、1992年)、『美術科教育の方法論と歴史』(同、1998年、2003年新訂増補)、『近代日本美術教育の研究 明治・大正時代』(同、1999年)がある。