近代日本における美術鑑賞教育方法論の発生と展開(戦前編)
(その1)
金子一夫(茨城大学教育学部教授)
I 序論
1.本研究の目的
本研究の目的は、近代日本の学校教育の図画科における美術鑑賞教育の発生展開過程を明らかにすることである。近代日本における鑑賞教育史の学術的先行研究としては、大正期の堀孝雄の鑑賞教育論に触れた佐々有生氏の論文以外に無いと思われる。鑑賞教育の発生展開過程を検討した研究はさらに無い。そのため、本研究はまず文献および鑑賞資料を発掘し、それらを時系列に整理し、時期区分をし、検討を加えた。当然ながら、鑑賞教育論や教材中心の歴史となった。実践史は次の課題である。個別的事象の丁寧な検討も今後の課題とした。
鑑賞教育の概念は多様な広がりをもつ。本研究では授業で美術作品(の複製)を見せて鑑賞ができるようにする教育、すなわち美術鑑賞それ自体を目的とする指導過程を基本型とした。児童作品や自然を鑑賞させる教育や、美術鑑賞以外の目的をもつ鑑賞教育を特殊型とした。筆者の鑑賞教育の立場は「美術の方法論の理解を目的とする鑑賞教育」であるが(註1)、そのために資料選択や検討の際、対立する鑑賞教育論を軽視したことはない。
2.本研究の対象範囲と時期区分
本研究の対象時期を明治初期の学校教育の出発時から昭和20年までとした。鑑賞教育が発生した明治35年から昭和20年の敗戦まで、本稿筆者による図画教育全体の時期区分(註2)とほぼ一致させることができた。
a.明治前・中期(明治5-明治34)鑑賞教育の素地形成
絵図の教育的利用はあったが、美術作品を鑑賞することの教育的意味が明確に意識されていなかった時期。ただ、その素地は形成されつつあった。
b.明治後・大正前期(明治35-大正6)鑑賞教材の出現と鑑賞教育研究の出発
明治35年に設置された普通教育に於ける図画取調委員会の審議のなかで鑑賞教育の必要が指摘され、明治37年の図画教育会編『図画教科書』、明治41年の白浜徴『新式中学校図画帖』等に鑑賞教材が登場した。広島高等師範学校の原貫之助や東京府女師師範学校の谷鉄太郎の実践と研究が始まった。
c.大正後期(大正7-15年)鑑賞教育研究の完成
広島高等師範学校附属小学校の堀孝雄が大正7年の『学校教育』誌上に「図画科に於ける鑑賞教授」を発表し、翌大正8年には原貴之助と堀の共著『小学校に於ける絵画鑑賞教授の原理と実際』が刊行された。これ が鑑賞教育研究最初のピークを示すものである。以後、稲森縫之介、霜田静志、関衛たちの研究が続く。
d.戦前昭和期前期(昭和2-12年)鑑貰教育研究の発展
多くの鑑賞教材集の刊行と鑑賞教育研究がなされた。東京高等師範学校附属小学校は美術作品の鑑賞教育に消極的であったせいか、小学校国定図画教科書には教 師用書に文言規定だけしか入らなかった。
e.戦前昭和期後期(昭和13-20)鑑貰教材の国定化
国民学校令案が出された昭和13年頃から鑑賞教育研究は下火になる。しかし、昭和16年発行の小学校国定図画教科書に合わせて鑑賞用掛図が発行され、さらに一種の国定となった昭和18年の中等学校図画教科書にも鑑賞教材が導入された。美術鑑賞教育が民間研究の段階から国定化にまで進んだと言える。
3.本研究における問題の所在
戦前の日本における美術鑑賞教育の発生展開過程を明らかにするというだけでは、漠然としているので、以下のような研究上の具体的問題を設定した。
a. 鑑賞教育発生の素地は何であったか。
近代日本の鑑賞教育が欧米の影響で発生したとしても、その発生を準備したり、受け入れ可能にした日本の教育的素地は何であったのか。
b.鑑賞教育への欧米の影響はどのようであったか。
明治後期に鑑賞教育は欧米図画教育を参考に発生した。その参考にした欧米図画教育の理論や実践は特定 できるのか。また、参考にした研究は、変遷したのか。
c.鑑賞研究の中心は、中等教育から初等教育へ、民間から国定教育内容へ推移したのか。
検定制下の中等学校図画教科書には鑑賞教材があり、国定制下の小学校図画教科書には鑑賞教材はない。やっと昭和16年になって小学校の観賞用掛図が製作された。美術鑑賞研究は中等図画教育から初等図画教育へ、民間から国家へと推移したのか。
d.美術の理解享受を目的とする鑑賞教育と、それ以外の鑑賞教育との関連は、どのように意識され展開したか。
美術の理解享受を目的とする鑑賞教育と、道徳教育を目的とする鑑賞教育、美術作品以外の児童作品や自 然を対象とする鑑賞教育、両者はどう関連したのか。
e.鑑賞教育の授業方法研究はどのように展開したか
鑑賞教育は主に授業の中で行われる。その場合、鑑賞教育の授業方法はどのように考えられたのか。そしてどのような方法モデルが作られ、展開したのか。
f.鑑貰対象作品群の内容はとのように変遷したか。
美術鑑賞教育の対象は、どんな美術作品でもよいわけではなく、相応しいとされた作品があったはずであ る。その基準や該当作品群はどのように変遷したのか。
II 本論
1.明治期前半 鑑賞教育の素地形成期
1-1教育への絵図利用及び美育論
図画教育は明治初期の学校教育に導入されてから明治30年代まで、手本の模写が基本的な教育方法であった。この手本の模写は、鑑賞と表現が未分化な方法と言える。手本の模写が揺るぎ始めるまで、美術鑑賞は教育問題にならなかった。ただ絵図の利用は、博物教育や道徳教育の方法としてあった。それは沢山の掛図や挿絵入り教科書が発行されたことからも裏付けられる。それは江戸時代の『訓蒙図桑』等の図入事典以来の伝統とも言える。
元田氷李起草「教学聖旨」(明治12年)目二件」の第一は次のように記されている。(註3)
「仁義忠孝ノ心八人皆之有り然トモ其幼少ノ始二其脳髄二感覚セシメテ培養スル二非レハ池ノ物事巳二耳二入り先入主トナル時八後奈何トモ為ス可カラス故二当世小学校二絵図ノ設ケアルニ準シ古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ画像・写真ヲ掲ケ幼年生入校ノ始二先ツ此画像ヲ示シ其行事ノ概略ヲ説諭シ忠孝ノ大儀ヲ第一二脳髄二感覚セシメンコトヲ要ス」
明治12年に既に画像・写真といった視覚的媒体の効果が明確に意識されているのに驚く。また、明治22年から24年にかけて小山正太郎や岡倉覚三が編集した褒賞画が発行された。その効果のほどは疑問であるが、絵図の教育的利用を明確に意識していたと言える。 また散発的ではあるが、絵図の見方指導の記事が雑誌にある。例えば明治20年の『教育報知』にアメリカの雑誌記事の翻訳紹介「図画読方」が載っている(註5)。少女と鹿の図について教師と児童の問答の実践報告である。その最初の部分を引用する。
教、この画に何が画かれて居りますか、
生、小い女が居ります、
教、此の外に何が見へますか、
生、鹿児(かのこ)が居ります、
生、私は大きな木があるかと思ひます、
教、女子と鹿児と木の外に何が見えますか、(此の時板上に界線を画し此の三語を書し此の三諸を書して題目とす)(中略)
教、それなら此の品々について又何があるか一つ一つ尋ねて見ませう、先ず女子の体には何な者が見へますか
このような調子で進み、最後に草の生えている所は歩かないようにと教師がまとめ、「草の歌」を聞いて終わる。このような問答法はペスタロッチの開発教授法の一環であり、明治前期でも珍しくはない。図画読方という概念と問答法の実践経験が、大正期の美術鑑賞指導方法の原型になったと思える。明治30年代にも絵図についての問答の実践報告が発表されることがある(註6)。
もう一つ美術鑑賞教育導入の素地になったのは、明治初期から沢山発表された美的教育論(実育論)であろう(註7)。それらは実利的、理知的価値以外にも美的・芸術的価値があることを指摘し、それらを味わい感情を美化することが人間の品性をよくすると主張した。ただ、それらは知育・徳育・体育と並んで、実育の必要の理論的考察を欧米の書物を参考に述べる論説がほとんどで、具体的な教育方法を提案するものではなかった。美術作品の美的性格にも言及するが、その鑑賞による美的教育の提案もほとんどなかった。それでも、これら実育論が実利教育論や理知的教育論に対抗したことによって、美術鑑賞教育の発生素地をつくったとは言えるであろう。
