『まなざしの共有』 アメリア・アレナス(Amelia Arenas)の鑑賞教育に学ぶ
高知大学 上野行一

1 横浜の夜
 「レオナルドのモナリザが、今夜、私のモナリザになりました!」
 映画プロデューサーのS氏がワインの入ったコップを手に、興奮した口調で私に話しかけてきた。こころもち顔を上気させ、少年のように佇む彼の周りには、同じような思いであろう観衆の姿がみてとれ、ホールは笑顔と歓声と熱気にあふれていた。
 2001年9月2日から11月11日までパシフィコ横浜と赤レンガ倉庫を主会場として開催される国際現代美術展「横浜トリエンナーレ」に向けて、市民にアートについての理解を促進するためのイベントが、昨年7月15日に開催された。私は、現代アート講座の講師として、NHKエデュケーショナルの番組制作のために来日中のアメリア・アレナスとともに招かれていた。冒頭のシーンは、その会場となった横浜シンポジアでの一場面である。
 この夜つどった200人あまりの観衆は、アレナスに導かれ、レオナルド・ダ・ヴィンチの[モナリザ]について語り合った。およそ1時間にわたって[モナリザ]に向けられた熱いまなざし。誰しも一枚の絵にこれほどの時間をかけて見た経験はなかったに違いない。とりわけ[モナリザ]のように著名な作品の場合はなおさらだろう。世界の名画は、もはやシンボル化している。視覚像が象徴化されて知識として蓄えられ、一瞥しただけでそれとわかるようになっている。[モナリザ]はまさにそうしたシンボルの代表格だろう。しげしげとシンボルをみつめる者はいない。私たちはふだん[モナリザ]そのものをみるのではなく、そのシンボルをみてしまう。しかし、今夜ばかりはちがっていた。

2 アレナスのトークの特色
 アレナスのトークは、エンターテイメントとして人々を魅了するだけでなく、わが国の教育が直面しているさまざまな課題から見るとき、いくつかの点で非常に現代的な価値と魅力を備えた優れた方法ということができる。彼女のトークには、大きく括って次にあげるような三つの特色が見いだせる。
 まず、もっとも特徴的なのはその形式だろう。アレナスのトークは対話形式でおこなわれる。この対話による美術鑑賞という形式を、風変わりに思う人も少なくないだろう。美術館でよく見かけるギャラリー・トークや学校の授業では、美術館スタッフや先生が中心となって作品について語り、観衆や生徒はそれを聴くという形式がとられることが多いからである。
 アレナスは美術作品の意味や価値を解説するのでなく、質問を投げかけて観衆や生徒に思考と対話を促す。作品の意味はその場で創りあげられるのであり、その主役は観衆や生徒たちである。対話形式の美術鑑賞は、教える者と学ぶ者とが分離している知の伝達という形式ではない。美術館スタッフや学校の先生は教える人ではなく、対話の進行役の役割を果たす。彼らはリーダーとしてではなく、学びのファシリテータとして機能している。このことを教育という側面からとらえると、しばしば学校教育の悪弊として批判の対象になる一方的に教え込む指導、画一的な一斉集団指導の対極にある形式ということができる。
 二つ目は内容の特色である。アレナスの方法では、美術の教科書やガイドブックに載っているような作品の意味や解釈を教条的に教えない。子どもや市民などその場に集まった人々が作品に対して関心をもったこと、話題としたことを中心に掘り下げていく。アレナスは話題の広がりと深まりに応じて、そのつど専門的な補助や付け加えを適切におこなう。先に述べたように、内容はそのときその場で即興的に生まれるのであって、このことは対話という形式と表裏一体である。同じ作品を鑑賞しても、そのときその場に応じて対話の内容は変わり、二度と同じ内容のトークはできない。一度限り、そのときだけの解釈や味わい方を生みだすことに内容の特色がある。
 これも教育という側面から見ると、非常に現代的な知識観・教育観ということができる。簡単にいうと現代的教育観の大きな特徴のひとつは、学習者を知の創出の場に居合わせるようにするという点にある。鑑賞に即していえば、一人ひとりが自分の考えを語り、それを互いに受けとめあう中で、美術作品の意味や価値、おもしろさを発見し、それを味わいながら世界をとらえ直す経験の場を準備することとなる。このことは、今わが国で進行している教育改革の中心課題である、自ら学び自ら考える「生きる力」の育成と密接な関係があることはいうまでもない。
 そして一番大きな特色は、三つ目の鑑賞の目的にある。一般的には、美術鑑賞の目的は市民や子どもに美術作品の良さをよく知らしめるとか、美的感性を豊かにし生活に潤いをもたらすというような点にあると考えられている。文部省の学習指導要領をみても、「〜鑑賞の活動を通して〜豊かな情操を養う」(小学校)「〜鑑賞の幅広い活動を通して〜美術を愛好する心情を育てるとともに、感性を豊かにし〜豊かな情操を養う」(中学校)などと記されている。
 もちろんそれはそれで大切なことだけれど、さらにアレナスは、作品の解釈を通して見る力を育てるとか、考える力、判断する力、考えを言語化し表現する力などの知的側面を重視している。
 対話形式、意味生成そして知的発達という三つの特色。
 これらの特色は非常に現代的で魅力的だ。20世紀後半めざましい発達をみせた認知科学は、美術が他の教科と同じように認知性を持つという見識をもたらした。つまり美術は一般に思われているような情緒や感性などの非認知的な問題としてではなく、知性や思考力に関わる問題として認識されはじめている。この「美術は認知的活動になる」という信念をもとにスタートした(1967)ハーバード大学のプロジェクト・ゼロは、ガードナー(H.Gardner)の提唱する多重知性理論と結びつき、視覚によって学ぶ知性や、対人関係を通して学ぶ知性など多様な知性を考慮したカリキュラムの必要性を促した。
 人間の知性は複合的であり、数学のように記号を操作する能力とは別の意味で、美的シンボルを読み書きする能力は人間の発達に重要な役割を果たすという考えが広まり、ヴィネマ(S.Veenema)の調査(1997)によれば全米の小学校教師の一割近くが多重知性のカリキュラム実践をおこなっているという。80年代、ハウゼン(A.Housen)やパーソンズ(M,J.Parsons)らによって、認知発達を基盤にした美的感受性の発達研究が相次いでおこなわれたこともこうした動向と無縁ではない。
「美術作品の中になにが見えるかを語ることで知的発達を遂げることができる」とアレナスが語るとき、その背後にはこのような状況があることを忘れてはならない。

3 まなざしの共有
 私たちはふだん[モナリザ]そのものをみるのではなく、そのシンボルをみていると述べた。だから、おおかたの観衆は[モナリザ]をみるとき、「あぁ、あの有名な世界の名画ね」とか「なるほど、謎の微笑みだ」などと反応するに留まる。彼らは目の前にある作品を自分のもっている知識や情報と照合したり、確認しているかのようだ。鑑賞という行為が現実と知識とを照合する行為に留まるとき、知的発達はもちろん期待できず感性の陶冶すら疑わしい。
 作品を自分の目で見て自分の頭で考え、それを言葉で表現するという経験が鑑賞ではまず必要なことだろう。作品の評価や価値、意味などの知識的なものは歴史的につくられたり、社会的、時代的な変動を受けて再構築されているのだが、そうした知識の海に飛び込む前に、自分と作品との関係を自らの言葉で語れるようにする必要があるのではないだろうか。自分は作品のどの要素に関心をもってみているのかとか、どこまで作品を読み解くのかといった鑑賞の個々の過程で生じた、個人の欲求によって必要とされてくるのが知識本来の姿であるはずだ。
 社会や時代が作品の意味や価値を創りあげてきたと述べた。いま[モナリザ]に関して一定の見方・味わい方があるとしても、それはこの時代この社会のものでしかない。言い換えれば、私たち一人ひとりの解釈や反応の巨大な総和が、今の時代今の社会における[モナリザ]の見方・味わい方を構成している。アートに向けられた大衆の素朴なまなざしを陳腐な解釈、幼稚な見方、奇妙な味わい方と貶めてはいけない。それこそがこの時代この社会におけるアートの価値を特色づけているのだから。
鑑賞教育が、単なる知識の伝達と蓄積や、その対極にある放任的な感動体験に留まっていた時代は過ぎ去った。これからの社会や文化、教育のあり方を展望すると、一人ひとりが作品をめぐる対話に参加し、個々の思いを交流しあい、意味や価値の創出を担う参加体験型の創造的な鑑賞教育に期待が寄せられる。そしてこうした経験は、すべての人が文化を享受する市民社会という理想の達成にもつながっていく。対話を通して人々がまなざしを共有しあうことはその出発点なのである。

〈参考文献〉
・上野行一『まなざしの共有−アメリア・アレナスの鑑賞教育に学ぶ−』淡交社2001年