鑑賞教育に熱い視線が注がれていますが、これまで鑑賞教育は、創造的自己表現活動の陰に隠れて、従属的な位置づけにあったといっても過言ではありません。せいぜい授業の終末時に自他の作品の「よさ」を認める相互鑑賞活動や、表現技法上の参考として芸術作品へ向かうことはあっても、「見る」ことを真正面から受け止めた実践事例は少なかったのが実情です。その背景には、言語を主体とした鑑賞は知識学習につながるという狭隘な見方があったでしょうし、鑑賞の質的側面が情緒的で感覚的なものにとどまるという短絡的な認識を示していたと言えるのではないでしょうか。しかしこうした鑑賞教育のあり方についての議論がようやく活発化していると思われます。
 学校における鑑賞教育といえば名画鑑賞といったイメージに陥りやすく、作家の表現意図や心情の感じ取りを中心にした鑑賞教育が方法論の中心として捉えられがちでした。最近の鑑賞教育研究を見ると、作品や作家についての知識や固定化された見方を教え込む従来型の知識偏重の鑑賞教育からの脱却の可能性を探るものが多くなっています。その中で美術館の教育普及活動に由来するビジュアル・シンキング・ストラテジーや対話型鑑賞と呼ばれる方法が注目を集めていますが、同時にそれに対する批判も見受けられます。
 鑑賞の対象を芸術作品だけでなくより広く捉えるべきではないのか、名画の場合には知識・情報をどの程度把握しておけばよいのか、子どもの解釈をどう受け止め評価していくのかなど、鑑賞に対する課題は多くあります。
 今回、敢えて名画と言われるベラスケスの「ラス・メニーナス」(宮廷の侍女たち)を共通の鑑賞対象として、全国の小学校、中学校の先生方にそれぞれの考える鑑賞教育実践を呼びかけ、ラス・メニーナス鑑賞プロジェクトとして鑑賞学習の可能性と課題について話し合ってきました。その実践の概略については、
「ベラスケスの『ラス・メニーナス』鑑賞学習をデザインする」(2006・10月発行・問い合わせ先:日本文教出版社)という冊子の方に載せ、このサイトにはその詳細を紹介するという連携形態をとっております。このホームページと冊子とを活用していただき、鑑賞学習の論議を深める糸口になれば幸いです。

ラス・メニーナス鑑賞プロジェクト代表者  兵庫教育大学連合大学院研究主幹 福 本 謹 一

問い合わせ:fukumo@hyogo-u.ac.jp

ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)について

 1656年にスペインの画家ディエゴ・ベラスケスが描いたラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)は、西洋近世絵画史上の傑作として知られ、世界三大名画の一つともなっている。
時代の背景
 その当時スペインは、フェリペ4世の時代であったが、スペイン領であったオランダの独立戦争(1648年に独立)、フランスとの戦争(1659年にフェリペ4世とフランス国王ルイ14世との間にピレネー条約が批准された)などで国力を消耗しつつあり、植民地も含めて勢力図を狭めつつあった。
バロック芸術
 芸術の世界では、建築を起点としてバロック芸術が誕生しようとしていた。バロックという言葉は、17世紀の芸術に対して後生の人々が与えた侮蔑的な言葉であり、グロテスクで懲りすぎた印象を与えることを揶揄したものであった。絵画においても感覚を圧倒する臨場感を伝える表現、すなわち作品と鑑賞者との壁を取り除く技巧が凝らされた。描かれた人物は鑑賞者自身や鑑賞者の現実世界に視線を直接投げかけているかのような錯覚を覚えさせるものが多く見られ、このラス・メニーナスもその例に漏れない。
ベラスケス
 1632年、24歳の若さでフェリペ4世の宮廷画家となったベラスケスは、宮廷役人として最高の地位である王宮配室長にまで登りつめた。さらに、スペイン貴族の最高位の称号の一つ、サンチアゴ騎士団への入団を欲していた。ラス・メニーナスのベラスケスの胸に輝く称号の十字章は、死語に下賜され、描き加えられたものである。
ラス・メニーナスの謎
 ラス・メニーナスという題名は19世紀に付けられたもので、それ以前は「フェリペ4世の家族」などの名称で呼ばれていた。元々宮殿内のフェリペ4世の夏の執務室に飾られていたものだが、制作されたのは皇太子の間で、作品奥の壁面にもぼんやりと見える画家マーソによるルーベンスの作品模写2点が掛けられていた。
 ラス・メニーナスは王女マルガリータを中心とする集団肖像画であるが、ベラスケス自身が鏡に映った国王夫妻と並び描かれているために「創造者たる画家の尊厳」や「絵画芸術の高貴さ」を普遍的主題としているという見方がされる.一方、国王の執務室に飾られていたことから鑑賞者が唯一国王であることを前提とすれば、国王が絵の出来事をリアルに追体験するためにのみ描かれたという見方もある。
 こうした見方の相違の起点に国王夫妻の写った鏡の存在がある。ラス・メニーナスでは鏡の中の国王夫妻がアトリエを訪問したことを示す出来事を暗示していると理解されるのが一般的であるが、果たしてどうであろうか。
 また、画面の左側に描かれた裏向けのキャンバスに何が描かれていたのかについても諸説がある。ラス・メニーナスそのものであるという説が有力であるが、こうした謎解きを投げかけ続けているのがこのラス・メニーナスの本質であると言ってもよい。ピカソをはじめとして多くの作家がラス・メニーナスを讃えるオマージュ作品を制作していることもそのことを例証している。 

(文責 福本謹一)