柳の樹の下には…
2006.1.10
福本謹一

 柳の下には…どじょう? いやいや、柳の樹の下には…死体がある? それは梶井基次郎の「櫻の樹の下には」のことである。実は柳の樹の下にあるのは悲恋である。このことについて触れる前に今から40年ほど前のことをたどってみたい。
 1962年。この年に起こったことといえば、世界では、米ソの冷戦を象徴する出来事が頻発した年である。米大統領がソ連のミサイル基地設置を理由に、キューバへの武器禁輸のため海上閉鎖を宣言したいわゆるキューバ危機があり、マリリン・モンローが急死。これにもCIAがかかわったという説さえある。ソ連が米国のU2型スパイ機の飛行士であったパワーズを釈放、米もソ連の原子力スパイを釈放した。
日本では、戦後復興を象徴する技術力の高度化が国産のYS-11初飛行や世界最大のタンカー日章丸(13万重量トン)の進水という形で証明された。堀江謙一青年が小型ヨットで太平洋単独横断に成功、サンフランシスコに到着し、国内的には無視されようとした小さな出来事が、彼の地での歓迎振りが伝わることで一変して英雄扱いされることになった。個人の成果が社会的なものとして認められる契機となった彼の功績は大きかった。
文化面では、可愛いベービー(中尾ミエ)や遠くへ行きたい(ジェリー藤尾)がヒットした年だ。映画007は殺しの番号が冷戦を反映してその後のスパイブームを牽引することになった。

 その同じ年、私は小学校の4年になっていた。祖母に連れられてディズニーの「101匹わんちゃん大行進」を観にいった。ディズニーのアニメを見たのはこれが最初だったが、周りの子どもたちに合わせてわざとらしく笑うことはできなかった。はっきり言ってつまらなかったのである。
岡山で開催された国体秋季大会では我が家で民宿を提供することになった。京都の短距離100m、3000m障害、マラソンの3選手が宿泊した。彼らの黄土色のベレー帽とユニフォームはスポーツ選手への憧れを醸成した。
またこの年、外国に対する漠然とした興味を形成する個人的な出来事が二つある。その一つは前年から62年にかけて、石井桃子が彼女の下訳を井伏鱒二に洗練してもらうよう依頼したドリトル先生シリーズ全12巻が岩波書店から隔月で2冊ずつ刊行された。クラスメートから紹介されたのをきっかけに「ドリトル先生のアフリカ行き」「ドリトル先生航海記」に魅了されたボクは、父親の知り合いの書店から届けられるのを心待ちにした。ドクター・ドゥーリトゥルという主人公は、井伏鱒二によってドリトル先生という親しみ深い響きをもった人格に姿を変え、日本中の子どもたちをとりこにした。そして私の中では、ドリトル先生の住むパドルビーをはじめとする英国の地名が、夢を掻き立てる外国の代名詞にもなった。著者のヒュー・ロフティングが第一次大戦中に自分の息子に当てた手紙の中でドリトル先生の物語が生まれたというエピソードにも心を打たれた。
 もうひとつの出来事で外国、それもドリトル先生と同じ英国と関係するのは、あるコーヒー碗セット(カップ&ソーサー)を両親が地元の商店街で見つけて接客用として購入したことである。このコーヒーカップの彩とデザインは小学校4年の私には不可思議なものであった。濃紺で引き締まった中国風の模様はどこかしら魅惑的であったが、「輸入物」とされるそのコーヒーカップの取っ手は指を通すことが困難で、子どもの手にもつかみにくいものであった。親指と人差し指で取っ手をはさんで持つしかなく、大人たちがそれを何ら使いにくいとは意識せずに使うことも理解できなかった。しかし、そのコーヒー碗セットは裏にはDouble Phoenix であるとかimportといったアルファベット表示によって外国製であることを納得させるものであった。そのせいで、両親によれば結構安かったというそのコーヒーカップが何となく「上等の」あるいは「有り難いもの」と感じさせるものがあった。当時は、輸入物に外国への憧れが投影された時代であった。
 この「輸入物」のコーヒー碗セットのデザインが実は、ブルーウィローという有名な模様であることやDouble Phoenixが日本のニッコーという陶磁器メーカーの輸出用ブランド名であることを知ったのはずっと後のことであった。
ニッコーは1961年に現在の本社所在地である石川県白山市に陶磁器工場を建設し、主にアメリカ市場の需要に対応して輸出用の陶磁器を生産していたことがわかった。そうすると、我が家で購入したセットにimportとあった表示はアメリカ向けに日本から輸入されたものであることを示すためのものであったのではないか、つまり元々輸出用として生産されたものが何らかの理由で国内市場に出回ったものであったのではないかと思われた。そして何らかの理由のひとつにひょっとしたら取っ手のつかみにくさがあるのではないかとも感じられるようになった。
 柳の樹(ウィロー)と楼閣からなる模様の方はどうであろうか。それがブルーウィローと呼ばれる由縁を紹介することにする。ブルーは皿色のことで青と白で描かれたものをブルーパターンと呼ぶということである。ブルーウィロウは18世紀中頃に英国で発達したもので、その中国風の模様は当時の東洋趣味(シノワズリー)の流行に乗って、中国から英国へ渡った陶磁器の楼閣山水図に由来するものだと言われる。
 このブルーウィロウと総称される模様をもつ陶磁器をいち早く生産しはじめたのはスポード社という陶磁器メーカーである。リバプールのジョン・サドラーという人間が発明した銅版画を転写する技法に改良を加えて発展させたのがスポード社の創始者ジョサイア・スポードやトマス・ミントンであった。こうしてブルーウィロウは手描きによる生産ではなく、銅版転写という大量生産に適した技法によって英国だけでなくヨーロッパ諸国へも伝播した。18世紀当初は限られた上流階級だけのものだったブルーウィロウが修理や保全などの過程で絵柄が複製されていくことによって英国独自のパターンを持つ文化として定着し、そして明治後期には日本の陶磁器メーカーに伝えられて人気商品のひとつとなったのである。
 このブルーウィローが英国のシノワズリーを反映しただけのものだったならアンティークとして一過性のデザインであったかもしれないが、その後多くのコレクターを得て生き続けた理由には、描かれた楼閣山水図に隠された物語が人々の心を捉えて離さないからに違いない。
このブルーウィローに秘められた物語は、チャンとクーン・セの物語と言われるものである。

舞台 古の中国           
登場人物 クーン・セ 高官の娘      
     チャン   高官の秘書     
     高官(税関史)クーン・セの父   
     ター・ジン 公爵        

昔々、時の皇帝に仕える税関史の長で、広大な敷地のある豪華な楼閣に住んでいる男がいた。(楼閣=絵柄の中央よりやや右にある建物)庭にはオレンジの樹木をはじめ、さまざまな木々が植えられておりその中には柳の木もあった。
この男は皇帝に従順に仕えながらも、陰ではずる賢く商人から賄賂を取ったりと悪事を働いてばかりいた。

男の秘書官にチャンという有能な若者がいて、彼は主人の悪事の後始末ばかりさせられていた。チャンとてこの主人と手を切りたい気持ちは山々であったが彼にはそれができない大きな理由があったのだった。それは彼が主人の一人娘、クーン・セに恋をしていたからだ。そしてクーン・セもまた彼のことを愛していた。
しかし二人の間にあるのは身分の違いという大きな壁だった。しかしチャンはそんな障害をも克服しようとする強い意志の持ち主だった。

ある時、男の妻が突然亡くなり、彼はそれを機に皇帝に退職を願い出る。建前は妻の死ということであったが、男は自分の悪事に足がつくことを恐れただけだった。そして 様々なことを知りすぎてしまったチャンは解雇を言い渡される。
楼閣を去る前の晩、チャンとクーン・セは密かに会い、変わることのない愛を誓った。 二人はそれからも人目をしのんで逢瀬を重ねるのだが、それにはクーン・セの侍女の
助けがあったからだった。

こうして春が過ぎ、夏が過ぎた頃、幸せな密会を楽しんでいた二人のことが父親に発覚してしまう。激怒した男はチャンを遠ざけ娘を自宅の敷地内にある館(絵柄の柳の右上にある小さな館)に閉じ込め、庭には高い塀をめぐらせてしまった。(絵柄 前方にある垣根。)
また父親は、二人の逢い引きに手を貸した侍女をも追い出してしまう。
実は父親には娘の結婚相手にと考えている人がいた。それは公爵であり軍人のター・ジンという男で、もちろんのこと政略結婚だった。

季節が過ぎ、また春がやってきたが、春に婚儀を決められていたクーン・セは悲しみにふけっていた。ところがある日、彼女がみつけた小さな小舟をたぐりよせてみると、そこにはなんとチャンからの詩文があったのだった。
チャンの悲嘆にくれる詩文と共に、いつかクーン・セがチャンに渡したビーズも入っていた。彼女は喜びに満ちあふれるのだが、結局その後はもう再びあの小舟を見つけることができなくなり、失意のままとうとう婚礼の日を迎えることになってしまった。
   
父親は上機嫌で宝石のつまった箱をクーン・セの所へもってきて結婚を祝う豪華な行列が屋敷に到着した。やがて華やかに宴席が展開し、皆酒を飲み酔っぱらってしまった。
実はこの宴席へチャンも紛れ込んでいた。そして皆が酔っぱらったことを見て、彼はクーンセの手を取って必死に逃亡する。
二人の逃亡に気付いた父親は酔っぱらいながらも、二人を追いかける。   
橋を渡る二人にそれを追う父親(絵柄の橋、一番左が宝石箱を持つチャン、真ん中が処女を示す糸巻き棒を持つクーン・セ。そして後ろから追いかけてくるのは怒りの鞭を持つ父親)
   
危機一発のところ逃亡はどうにか成功し、二人はしばらくかつてのクーン・セの侍女の家(絵柄の橋を渡ったところにある家)に匿われた後に船で(絵柄の水上に浮かぶ船)離れ小島へ向かう。
   
こうして島に逃れた二人は家を建て(絵柄の左上の小島にある家)農業に精をだすようになる。
チャンは農業書もしたため、島民達にも慕われる人物となってゆく。しかし、そんな彼の名声はやがて遠く離れたター・ジンにまで届いてしまう。なにしろ彼は当日に花嫁を奪われて大恥をかかされたことを大変根に持っていた。そしてチャンが、宴席から宝石箱を持ち去ったことも咎め、彼を指名手配していたのだ。チャンの居場所が分かったター・ジンは復讐に燃え、軍を率いて二人の住む小島へ向かう。

島民達の協力のもと、チャンは勇敢に戦った。しかし、圧倒的に軍の人数のほうが多く、なすすべはなかった。チャンをはじめ島民達は総崩れになり、クーン・セは絶望のあまり家に火をはなって自らの命を絶つ。

しかし、チャンとクーン・セの魂はその後、二羽の不死の小鳥に姿を変え、永遠の愛の象徴として天空を舞い続けたという。(絵柄中央に見える二羽の鳥)

 このブルーウィローに秘められた悲恋物語は、中国からのものではなく、英国人が作り出したものだという。そしてスタフォードシャーに伝わる下記の古い歌にもとづいて、この物語が作られたとの説もあるが、本当のところはわかっていない。

二羽の鳩が空高く舞い
中国の船は流れに棹さす
柳は泣いているように枝を落とし
橋上には四人ではなく三人の男達
中国の寺院が立ち
すべてを支配してみえる
  実をつけたリンゴの木
私の歌を終わらせる愛の囲い 

いずれにせよ、ブルーウィローが醸し出すどこかしら物悲しい雰囲気は、この物語に由来するのである。子ども心には特異な姿の柳の樹の陰にそうした物語が隠されていることを知るすべはなかった。物語は悲恋でも、深みのある高貴なデザインの魅力は、取っ手の不便さを差し引いても余りあるものであり、40年を経てもなお我が家では記憶を蘇らせる輝きを失ってはいない。



参考
全日空機内広報誌『翼の王国』360号 特集 ぼくのブルーウィロー(安西水丸氏)
http://www.foodhistory.com/foodnotes/leftovers/willow/01/
http://www.worldcollectorsnet.com/minton/willow.html