アメリカ・ウェスト6
福 本 謹 一

(2004年 春号)

 

 サンフランシスコからベイブリッジを通ってバークレーまではそれ程遠くないが、坂道が続くのでかなりの標高差があるように感じられた。カリフォルニア大学のバークレー校には、国立国語研究所から派遣されていたF君がいた。彼は大学院の同期で教育方法学の人文教育を専門にしていた。バークレー校の周りを車で流すとカリフォルニア大学のペナントやTシャツ、トレーナーなどのキャンパス・グッズを売る店がひしめいている。大学生相手のカフェやピザ屋も軒を連ねてはいるが洒落た感覚はない。どこか日本の学生街臭いところがあって懐かしさを覚えた。正門には深緑色の鉄の門があって紋章や唐草模様が威厳を強調している。正門を抜けると左手すぐに巨大なギフトショップがある。Hさんとボクの足は、シンクロナイズド・スイミングの選手も顔負けと言っていいほど揃ってギフトショップに向かった。ギフトショップといっても本来はブックストアなのだが、書籍や授業用のテキストもさることながら学生や観光客の目当てのギフトで溢れかえっているために、土産物屋の体なのだ。それも巨大な。商品の量も半端ではない。どうしてこれ程までにキャンパス・グッズが置いてあるのだろうか。アメリカの大学を訪れる度にこの疑問が反復される。大学のアメリカン・フットボール部やバスケットボール部の人気だけがグッズの売り上げを支えているのだろうか。ペンシルベニア州立大学、通称ペンステイトなどは、確かにフットボール場が9万人収容可能だから、そのグッズの売れ行きが半端でないことは予想できる。しかし、例えばウィスコンシン州のグリーンベイにある小さな大学だってことは同じなのだ。ちゃんと大学の印章の入ったトレーナーやマグカップがしっかり売れていくのである。名門であるかどうかはともかく、自分たちの大学にそれなりの愛着や誇りを感じているからこそなのではないだろうか。そのトークンとしての役割をグッズが担っているのだろう。
 F君にギフトショップにいることを電話で知らせて、カフェテリアで再会した。大学院の修了式以来なので、まだ2年程しか経っていない。背景だけが置き換わっただけだったが、その文脈の違いが黒縁の眼鏡の印象的なF君を違った人物にさせていた。彼は以前にも増して未来志向なのだ。仕事に対するアグレッシヴさを感じさせた。Hさんと共通する部分が多いようだ。第2外国語としての日本語の講師にやりがいを感じていると言う。後で訪れた彼の下宿先の妻帯者向けのアパートの中は、日本の学生の時と変わらない程の散らかりようであった。炊飯器と食べ差しのラーメン鍋が無造作に置いてある。読み差しの新聞もそこら中に散らばっていた。彼は恥じる様子もなく我々を迎え入れた。彼の講座を受講する学生たちには、バークレーという名前ほどの熱心さがあるわけではないと言う。ただ全米で日本企業の誘致が増えているため就職に有利だと判断してくるのではないかという読みだった。
 F君との話は尽きなかったが、夕方になってバークレー校を後にした。Hさんはヨセミテ国立公園に行きたそうな雰囲気だったが、バークレーから北東に進み、タホ湖経由でユタ州に向かうことにした。実はヨセミテはずっと以前の3月にUCロングビーチ校に留学していたK君に誘われてカリー・ヴィレッジで雪中キャンプをしたことがあったのである。彼は、人間性心理学やその後の認知心理学の発展に興味をもつとともに思索家でもあったが、ヨセミテではトレッキングの楽しさを教えてくれた。カリー・キャンプからハーフドームと呼ばれる場所へのトレッキングルートは、岩肌が露わになった光景の表情を幾重にも変化させる。雪解け水のほとばしる滝音や凍った水の下に残された秋色のオークの葉、すれ違うホースライディング・グループの馬の蹄の音、残雪のまばゆい光、それら全てが五感を刺激して記憶の襞に浸透している。アンセル・アダムスという写真家のことを知ったのもそのヨセミテである。銀塩写真の肌にまといつくような感覚はその時初めて味わったような気がする。その感覚は、彼の「ゾーンシステム」と呼ばれた手法によって中間トーンの味わいを損なわずにコントラストを強調し、フォトグラフィックなリアリティーに厚みを与えている。
 違った季節ならともかく、1月のヨセミテは、雪がかなり積もっているだろうし、景観も記憶のそれと余り違わなく思われた。Hさんには直接イヤとは言えなかったが、Hさんもそれ程こだわりがなかったのか、ボクの表情を見て取ってタホ湖に向かうことに同意してくれた。進むにつれて丘陵地帯の家並みの明りがうねりを繰り返しながら少しずつ減っていくのが実感できた。80号線からサクラメントで 50号線に乗り換えた近くのモーテルに宿をとった。翌朝6時に起きてタホ湖をめざした。かなり深い森の中の上り坂を進んでいく。モーテルから近い距離にあるとは知っていたが、タホ湖は、かなり標高の高い位置からふいに全貌を現した。全景が道路脇から見通せるのである。水深は500メートル近い。世界で三番目に深い湖である。周りの丘陵の標高差も考えるとかなり深い谷にあることがわかる。
 湖の側まで行くとようやく朝日が先ほど降りてきた山の斜面を緩やかに降りてきた。その朝の光を背に犬とジョガーのはく息が白い軌跡となって湖面のダークグレーをゆっくりと切り裂いていた。彼らの足音は聞こえない。あたりには彼らとボクたちしか見あたらなかった。ボク達も無言でその光景を眼の中で暖めていた。
 朝食をとった後、タホ湖を後にする。途中の森の中で若者たちが傾斜を利用してタイヤを使ってそり滑りをしていた。ボク達はなぜか車を止めてその情景をしばらく眺めていた。その原始的な遊びのもつ魅力に郷愁を覚えた。彼らの歓声の遠景にロッキーの白い頂が霞んでいる。
 それからしばらく行くと森が後方に遠ざかり、いつしか一直線に伸びる平原を走るようになっていた。飛行機雲と競争をするようにインターステイト80号線を東にとばした。途中リノを通った。リノはラスベガスと同様、ギャンブルの街として知られる。しかし、立ち寄ろうという気分にはもうならなかった。なだらかな丘陵をひたすら東へ進んだ。道路工事の車両が巨大なタイヤを見せつけるようにボク達を追い抜いていく。それ以外にはあまり車を見かけなかった。 
 ソルトレークシティー144マイルの標識が過ぎ去っていくと同時に遠方に白い地平が広がって見えた。雪が降っているのかもしれないと思ったが、あれが塩の砂漠かもしれないと思い返した。
 1時間ほど走った後、巨大なカウボーイの立体広告をもつガソリンスタンドが見えた。メジャーの石油会社のものではなかったが、スタンドが見あたらなかったのと、物珍しさも手伝って給油した。そのスタンドを出てすぐにシェブロンやエクソンのスタンドが見えた。もう少し走ればよかったと思ったが、メジャー系列でなくても走らなくなることもないだろうと思った。それ程安いわけでもなかった。
 午後から曇ってきてウィンドウ全体が白くなっていく。道沿いも白っぽく、雪なのか、塩のせいかわからなかった。しばらくしてソルトレークシティーのすぐ近くにあるグレート・ソルト・レイクに出た。その塩湖は、水中の塩分が5〜15%と普通の海水よりも多く、人間がまるでコルクのように浮いてしまうらしい。さすがにこの季節に塩湖に入ってみようという気にはならない。夏ならいいのにと思った。周りは製塩工場なのだろうか、多数の工場があって、蒸気や白い煙が立ち上っている。ソルトレークはどこも鈍い白色の世界だった。
 ソルトレークシティーのあるユタ州は、ブリガム・ヤングの率いる入植者によって開拓された場所で、ソルトレークシティーにはモルモン教会の神殿がある。モルモン教と言えば日本でも自転車で走るアメリカ人のペアが見かけられるが、彼らは大抵ブリガム・ヤング大学などの学生で、1年間海外へミッションに出る変わりに奨学金を受けとることができる。ロスの小学校で教えたキャロリンもモルモンだった。モーガンも。モーガンはクラスメートから「モルモン」と呼ばれていたのを思い出した。モルモン教はどこか異端の眼で見られているのかもしれなかった。
 モーテルに一泊して一応の見所を回ることにした。州議事堂は、ワシントンDCの国会議事堂を模して建てられている。開拓者記念博物館など、オクラホマシティーとどこか共通する印象をもった。ここからセントルイスまでは、それこそ開拓者のたどった足跡を逆送するのだ。
 ソルトレークシティーからワイオミング州に入った。道沿いのカフェに立ち寄ると、駐車場でロデオの絵のついたプレートの車が止まっているのに気づいた。西部開拓史の名残がこんなところにも現れている。ワイオミング州シャイアンのユニオンステーションも町自体が西部時代を彷彿させるような面影がある。郊外に出ると次第に薄茶色の色合いに緑が復活し始めた。丘陵を抜けるとララミーだった。ララミーは60年代に日本でも「ララミー牧場」のテレビシリーズが人気を博したことで知られる田舎町である。見たことはなかったが、子供心にそのテーマ曲を口ずさんだ覚えがある。牛の放牧が眼を休ませる。    
 70号線をひたすら東に走った。農家のサイロが規則的に通り過ぎる。あまりに正確に同じ時間間隔で繰り返されるので距離計を見続けた。サイロは1マイルごとに並んでいるのだ。単調なドライブでは、そうしたことさえある種の感慨に浸らせるものとなる。西日を浴びてボク達の車の陰が反対側の道路沿いにのびて、路肩の形状に応じてその相似形が変化する。広大な西部でドライブすると対象物がせいで、その車の影が旅の伴侶ともなっていたし、いつしかその影に自己を投影するようになる。
 「カンザスへようこそ」の立て看板を過ぎて、カンザスシティーが夕闇の中に見えた。カンザスシティーには一泊したが、単なる経由地にしかならなかった。
 翌日ミズーリ州セントルイスまで70号線を急いだ。ゲイトウェイアーチと呼ばれる高さ192メートルのモニュメントの下に車を止める。セントルイスは西部開拓への入り口となった都市で、ゲイトウェイアーチは、そのシンボルとして1965年に建てられた。半円状のアーチの中は、エレベーターで先端の展望室にまで行くことができる。エレベーターがその弓なりになったモニュメントの中をどう移動しているのかが理解できなかった。しかも頂上部から覗くセントルイスの光景は、当然のことながら空中都市にいるような錯覚を覚えさせる。街自体にそれ程の魅力があるわけではないが、開拓史を語る上で忘れてはならない場所であることを実感した。ビールのバドワイザーで有名なアンハイザー・ブッシュの本社もある。ダウンタウンを散策すると、リンドバーグの壁画が見えた。彼はセントルイス〜シカゴ間を往復する郵便飛行士で大西洋横断を成し遂げた「Spirit of St.Louis」とともにセントルイスが誇る著名人の一人である。
 セントルイスを離れれば、後はナッシュビルまで南下するばかりである。いよいよ旅も終わりに近づいてきた。ナッシュビルまで後400マイルの表示が見える頃、夕日が遠くの木立の中をゆっくりと移動しながら暗闇を引きずり降ろし始めていた。Hさんとボクは話を交わすこともなくそれぞれがこの2週間を振り返っていた。
 夜11時を回ろうとする頃、ナッシュビルの放送局のビルのネオンサインがぼんやりと我々を迎えてくれた。

(おわり)