アメリカ・ウェスト5
福本謹一

(2003年冬号)

 

ハンティントンビーチの近くの港町では、地元のアーティストによるアートショウが開かれていた。12月だというのにノースリーブの女性も多く、サングラスをかけている人もいるくらいだ。作品にはイラストのようなアクリル絵画も多いが、クラフトも結構出品されていた。小さなヨットハーバー縁なのに30人くらいの作家が参加していただろうか。どうという特徴もない港町のショウにしては、目を見張るものが多かった。カリフォルニアの小学校は週2時間の図画工作の時間が保証されているところが多いが、日本の子どもたちの作品に比べると見栄えはそれほどでもない。その現象面だけで見れば、日本の小学校や中学校の美術教育はずいぶん優れているように見える。しかし、大人の作品となると少し事情は異なる。テネシー州のステートフェアでも感じたことだが、作家のワークショップに参加する人にしろ、「師匠」のプロ作家たちにしろ、発想が自由なのである。定型的なものはむしろ少数派だ。日本でならカルチャーセンターの陶芸教室の参加者の作品といえば決まってお師匠の作品の真似事のようなものが多い。しかし、アメリカに見られるのは、技術的にも結構質が高いだけでなく、ティーポットの取っ手が人魚の形をした奇妙奇天烈なものも含めて作品自体がクリエイティヴであることを自己主張していることである。そうした傾向をアメリカ的といって片付けることもできるが、何か精神的な自由さを感じた。何人かのアーティストと話をしてみると、日本の公募展にあたるような全米レベルのコンテスト的なものがないことが背景にあるように思われた。もっとも、その代わりにギャラリー主の眼にとまらなければ、アーティストとしてアメリカの競争社会を生き抜くことはできない。出品しているプロ作家も含めた自称アーティストたちは、午後の和らいだ光の中で白い歯が印象に残る笑顔を振りまいていた。彼らの実際の職種は様々である。プロとして独立してやっていけるのはメジャーなギャラリーと契約しているほんの一握りにしか過ぎないし、彼らとてそれで生活の保障につながるものではない。買い手に受け入れなければ契約は更新されないのだ。しかし、彼らの笑顔にはある種のわざとらしさもあるが、自然体でアートに向かう態度が感じられたのである。
 ともかく、彼らの作品群には、日本のような義務教育段階における「美術教育」の成果のようなものは反映していないかもしれないが、芸術に対する柔軟な姿勢や精神性があるように思われてしかたがなかった。日本とは高等教育における美術教育が異なるのかもしれないし、アートの生活における位置づけの違いかもしれなかった。
 Hさんが時間を気にし始めたのを感じて、サンディエゴに車を走らせることになった。太平洋岸は逆光のせいか薄灰色に広がっていた。サンディエゴには、H氏のホームステイ先がある。すでに夕方5時をまわっていた。5号線を南に向かう。陽が落ちると天気予報通り濃霧になって10ヤード先も見えなくなってきた。前の車のテールランプがかすかに見えるだけにもかかわらず、それでも50マイルは出していた。バックミラーに後続の車のヘッドライトがぼんやりと浮かんだまま消える様子もない。後続車も同じ速度で続いている。ボクたちは妙に興奮していた。オクラホマからアリゾナを経てようやくカリフォルニアへと荒涼とした平面を長時間移動し続けてきたせいか、この濃霧はそれほどエキサイティングな出来事だったし、久しぶりに海を見たことが快感を増幅させていたのである。1時間ほど走ったところで急に霧が晴れて思わず二人で声を上げた。テールランプが3車線を埋め尽くしていたのである。霧の中を50マイル近くで走っていながら、それほど多くの車がいたことに気づかなかった。事故を起こさなかったのが不思議なように思えた。
 サンディエゴは海軍基地のある街だ。基地の近くを通らなかったので、サンディエゴに来たという実感はないが、メキシコ系移民が多いことなどの予備知識が暗がりの中の単調な町並みに映画の字幕のようにオーバーラップする。
H氏をホームステイ先に送った後、ロサンゼルスで1週間後に合流するまで彼の車をそのまま借りていく約束であった。僕は別れの挨拶もそこそこにロサンゼルスに向かって同じ5号線を北上した。もう霧はなかったが、乾いた夜の沈黙を抜けてアナハイム近くのモーテルまで戻った。ウィティア近くの知り合いの家はアナハイムから近かったが2年続けてクリスマス休暇の邪魔をすることははばかられた。それに翌日は、韓国系アメリカ人の家庭で泊めてもらうことにしていた。
翌朝は、モーテルからロサンゼルスのダウンタウンに向かった。モーテルはアナハイム近く。ディズニーランドもすぐ近くにある。そこからダウンタウンまで渋滞がなければ5車線もあるハイウェイを使って40分ほどで行けるが、渋滞に巻き込まれれば1時間半は見ておく必要がある。ロサンゼルスの周辺部はグレーターロサンゼルスと呼ばれるほどかなり広大なのである。
昼は、イラン出身のミニューとミニューの妹二人とハリウッドのロデオドライブのレストランで落ち合うことにしていた。ロデオドライブはブランドの店も多く観光スポットのひとつでもあるが、ただミニューのアパートが近いという理由だけで決まった。レストランのロビーで受付の女の子に待ち合わせなのでと告げる間もなく、ミニューたちは突然のように現れて大声を上げた。ボクたちは思わず辺りを見回して「ウープス!」と声を押し込めたが、カクテルバーのバーテンダーは、さりげなく視線を向けただけで気に留める様子もなくグラスを拭いていた。
 ミニューはピーボディーの大学院を修了した後、南カリフォルニア大学の研究生でいた。妹二人とは初対面だったが彼女たちはカリフォルニア大学サンタバーバラ校に留学していた。シーフードプラターを食べながらボクたちは1年半ぶりの再会を喜び合った。ミニューの妹たちも乗りがよくすぐに仲良くなった。プラターに添えてでてきた食べ放題のビスケットが旨く、レストランを後にするまで口に運び続けていた。
 昼食後、ハリウッドからリトル東京へ一緒に行くことにした。リトル東京では、みやげ物屋が軒を連ね、「大売出し」の旗がはためく。店の中から時折日本語が飛び交うのを耳にするが懐かしさというよりも、雑踏の効果音のように距離感を感じていた。通りにはクリスマスの電飾が施されていたが、リトル東京にはどこかしら違和感がある。何しろ通りの新聞販売機にはロサンゼルスタイムズをはじめとした英字新聞が並んでいるのだから。日本のクリスマスもこんなものかもしれないなと思った。日本にはどこか不似合いなのだ。温かい今川焼きをほおばりながらミニューたちはうまいうまいを連発する。クリスマスが近いせいだろうが、彼女たちの歓声だけがこだまするほどリトル東京は静かだった。土産物屋の「一番」と勘亭流で大きくロゴの書かれたTシャツをミニューたちはえらく気に入って色違いのものを買い求めていた。夕食はうどんをジャパニーズ・ヌードルと称してディスプレー展示をしているうどん屋で済ませることにした。彼女たちも昼食のシーフードが結構もたれているようであった。箸の使い方もそれなりにうまい。カリフォルニアに住んでいるのだから寿司をはじめ日本食にはなじんでいるに違いなかった。ナッシュビルにもようやく日本食の店も出来はじめていたが、うどんを出す店はまだなかった。ミニューたちからはイランの様子をあまり聞くことはできなかった。両親もイランに一度帰国してからは、連絡が途絶えているという。ミニューもナッシュビルにいた時のような明るさはなかった。彼らの生活にはホメイニ体制が暗い影を落としていた。
 彼女たちと別れて夜遅く、キムさんという韓国系アメリカ人の家族の家にお世話になることになった。夜遅いにもかかわらず、キムさんの家族は歓迎してくれた。キムさん夫妻には、子どもが二人。長男のジムはUCLAで法律を専攻していた。長女のフェイは、近くのグローサリーで働いているという。ジムやフェイは、英語の発音からジェスチャーまでがアメリカ人のそれであった。東洋人の顔つきでアメリカ人が話しているかのような感覚はどこかしら奇妙であった。ベッドルームはフェイの部屋を使わせてくれた。ウォーターベッドだった。温かい。運転を続けた身体には、その寝心地がたまらなかった。
 翌日一人でダウンタウン近くを車で徘徊する。偶然、「国際劇場」と漢字で書かれた縦型の看板を目にして立ち寄ってみた。山田洋次監督の「男はつらいよ、寅次郎ハイビスカスの花」が上映されていた。リトル東京近くでもないのに日本映画の上映館が存在することは意外であった。それほどまでに受容があるのだろうか。リトル東京は、チャイナタウンのように密集して固有の文化アイデンティティーを誇示するものでもなく、ほんの一角が芝居の書き割りのようにあるにすぎない。淡泊な存在なのだ。
 映画館の窓口でチケットを買うのではなく、フィルムを借りる方法を聞いた。国際松竹という松竹映画会社のロサンゼルス支店に連絡すればいいとのことであった。クリスマス休暇であることも忘れて早速、電話を入れると、偶然社内のクリスマス・パーティー中で受付が応対してくれて、ヴァンダービルト大学の大学会館で上映するのに適した16ミリフィルムもあるということであった。このことは、収穫だった。ヴァンダービルト大学のサラット・ホールでは毎晩のように映画が上映されていたが、滞在中に上映された日本映画は皆無であった。日本人会としても日本映画をナッシュビルの学生たちにより広範な形で紹介する方途を模索していた時に国際松竹を知ったことでは、チャンスであった。しかし、ナッシュビルに帰ってからわかったことだが、サラットセンターでも国際松竹のことは知っており、それまでに黒沢明の「羅生門」や「七人の侍」、五社英雄の「三匹の侍」、小津安二郎の「東京物語」などを上映していたことがわかった。それでもその後Hさんのつてでニューオリンズの領事館から、津軽三味線を芸術的な域に高めた「高橋竹山の生涯」や、少年時代の殺意をテーマにした松本清張の「影の車」を借りると同時に、国際松竹からは「男はつらいよ、寅次郎ハイビスカスの花」などを借り受けることになった。当時の「テネシアン」紙に載せてもらった案内文では、寅さんの仕事をどう表現するかで頭を悩ませたが、次のように書いていた。

The Torasan's Shattered Romance, a most-loved film in Japan. The lovable Tora-san, an itinerant street vender, is a dreamer of love who falls into one-way romances. His too-good-naturedness stirs up troubles in his beloved sisterユs mind, who is anxious about Tora-san's unsettled life.

 寅さんのことをとりあえずストリート・ベンダー、すなわち露天商としたが、どうもしっくりこないのは今も変わらない。映画上映は、ファーマンホールで行われたが、上映前に数分、簡単な内容の紹介をHさんと交代で何度か行うことになり、300 人収容のホールは毎回満席に近い盛況であったが、アメリカ人の学部学生を多く集めることにつながらなかったことが悔やまれた。

 その日は丁度ボクの誕生日で、夕食で丁度キムさん宅に遊びに来ていた長女たちの友達と一緒に小さな誕生会をしてもらった。その後9時頃からナイトクラブにみんなでディスコに行って踊りまくった。翌日から30日にHさんと落ち合うまでの数日は、キムさん宅で西海岸のクリスマスを祝いながら静かに過ごした。それにキャスリーン・ダンロップ教授の教育心理学のレポートの宿題が出されていたので、20ページほどのレポートを少しでも書いておかなくてはならなかった。タイトルは自由だったが、心理学の授業内容をふまえて自分史的な内容をまとめるのが課題である。レポートのタイトルを先に決めた。再構築主義に影響されていたこともあって“Toward a Transformative Self”。(変革的自己をめざして)キザな題名だ。
30日にキムさんとお別れして、ダウンタウンでHさんと合流した。彼はギリシャ系のアメリカ人のところでお世話になっていたらしい。教会の関係で紹介してもらった人たちだという。午後は、UCLAのキャンパスへ出かけた。そのブックストアでUCLAのロゴのついたTシャツを買った。ミニューたちが「一番」のTシャツを買ったように。グレー地にブルーとイエローのUCLAのスクールカラーのVネックがニートな感覚であった。
 31日に、サンフランシスコを目指して一号線を北上した。ロスから2時間あまりのところにあるサンタバーバラに立ち寄る。1786年にスペイン人宣教師によって建てられたミッション・サンタバーバラ(伝習所)は観光の目玉の一つである。白壁にオレンジ色の瓦屋根が当時を偲ばせる。正面ファサードの前にある噴水池の水面に映る伝習所は200年を経て今なお美しい。ロスからサンフランシスコまでは、スパニッシュ・コロニアル風の町並みをもつ町が続く。独特の風合いを持つルートかもしれない。椰子の木も結構その趣を規定しているアイテムのひとつだ。
1号線は、薄茶けた山肌が露出した風景が続く。インターステイトと違って、車線も少ないが、カーブもそこそこあるせいかドライブに飽きることはない。夕闇が迫ってくる頃、海岸沿いに出た。カーメルを少し過ぎたあたりである。砂浜に車を寄せた。大晦日の夕日を二人でしばらく見つめていた。その視線の延長上に元旦の朝を迎えている日本があるに違いなかった。
 サンフランシスコまではあと二時間ほどの距離であった。サンフランシスコにはHさんの知り合いがスタンフォード大にいることもあって、クリスマス休暇で空いている学生寮に泊めてもらうことになった。サンフランシスコはボクの東京の大学院時代の友人もカリフォルニア大学のバークレー校で日本語の講師をしているので彼に会うことも楽しみの一つだった。
 翌日の元旦は、ロビーのテレビでロサンゼルスのパサデナのローズパレードを見ることにした。その年のローズパレードのクイーンが日系だというので、日本人たちの間では話題になっていたらしい。フロートの数もさることながらローズの花で埋め尽くされたフロートの形は多様で、ここでも発想の違いを感じさせた。トラック車などを改造しているのだろうが、徹底して車であることを意識させない作りになっている。米国の経済状況が悪化しているにもかかわらず、フロート一台に何千万円もの金がかけられていてパレードやショーに対する思い入れを感じさせる。こうしたアメリカのパレードを見ていると、見せる側、見る側の厳然たる区別を感じないわけにはいかない。これはスポーツでも演劇でも同じだ。アメリカのパレードは、日本の祭りのように参加者とのマージナルで参加型の部分が少ないのが特徴かもしれない。
 フロートにはカナダのカルダリー市のものもあった。高校のトランペット隊列も隊形を一糸乱さず進んでいく。普段はファ○○・ユーとか平気で口にしたり、いいかげんな態度を見せたりする連中も含まれているはずなのに、こうした公共的な部分に関わるとなるとなぜか秩序だった振る舞いに統一されることが不思議である。個人主義の国アメリカが、インフラストラクチャーの部分では徹底して画一化されていることと共通しているように感じた。
 夜には気付かなかったが、スタンフォード大学の構内は、広大な敷地にスパニッシュ・コロニアル風の学舎が立ち並び、椰子の木が、ホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」を彷彿させるように見事な遠近法を讃えるように直線状に並んで、訪れるものを見下ろしている。
2日は雨になった。Hさんと雨に煙るオークランド橋を越えてダウンタウンに向かった。ケーブルカーを追い越しながら坂道を上下する。スティーヴ・マックイーン主演の映画「ブリット」(1968)を彷彿させる瞬間だ。(古ぅー)ロシアン・ヒルにあるジグザグ道のロンバート・ストリートを下る。一方通行になっているので、下からは上れない。時速5マイルの表示があるが、道の両側に植え込みがある。ワイパーの往復と車のスピンが同期して何とも言えない感覚に陥った。雨のせいか、ボクたちのように観光で通り過ぎる車は少ないようだったが、春には花も咲いてきっと美しいに違いなかった。
 その後、フィッシャーマンズワーフのベイエリアの再開発地区へ向かった。真新しいモールがあって、海岸沿いには、帆船もある。ハイドストリートを走るケーブルカーの終点もあり、ケーブルカーを反転させる場所は、観光客とカモメであふれていた。海の方へ目をやると、アルカトラズの島が雨に煙っていた。
 フィッシャーマンズワーフ近くの入り江を少しばかり回った先の海岸は信じられないほどの遠浅で波紋をそのまま砂浜に残している。鈍く光った海岸を散歩する人たちの長い影が湿った空気と溶け合ってそのまま太平洋の彼方へ続いているかのようであった。その夜しばらくぶりに日本に電話を入れた。

 3日にサンフランシスコの西海岸に別れを告げて、ゴールデンゲイトを抜け、バークレーに向かった。何となくナッシュビルが恋しくなっていた。

(つづく)