サワー・マッシュ
福本謹一

 ケネス・モーガンがヴァンダービルト大の教育学部の大学院の修士課程に入学して一ヶ月が過ぎようとしていた。8月の終わりにようやく彼はチェスターロードにある小さなアパートに入ることができた。チェスターロードは、大学のあるウェストエンドから南に数ブロック先を西に入ったところにあった。色を染めかけたオークツリーの街路樹が柔らかい影を落とし、決して豊かとは言えない住宅街を印象派のような風景画に変えている。アパートは、大学のハウジング・オフィスで見つけた月120ドルの格安であったが、新学期直前の8月の終わりに探したのに空いていたのは不思議なくらいであった。大家の76歳になるメイベリー夫人が夫の死後に裏庭にある納屋を二軒分に間仕切って改造したもので、ケネスの隣にはマイク・デンプシーが最初から一人で住んでいた。彼は自動車整備工だが、物静かでシャイだった。チェック柄の綿シャツはいつも自動車オイルで汚れたままでプアーホワイトの代名詞のような体裁をしている。前歯が少しかけていることも彼をみすぼらしくさせている要因だった。所有している車は、20数年前のビューイックのフルサイズ、すでにペイントは剥がれ、あちこちがさび付いているし、エンジンもリタイヤした音をたてていた。エンジンの調子が悪いせいか、マイクはいつもボンネットを開けて煤けたラジエータやらと格闘していた。それでも彼はそのことを別段気にしているようでもなかった。ケネスの車は、コンパクトとはいっても3年前のシルバーのアキュラ(ホンダ)のハッチバック。まだ新車といってもいいくらいだ。アラバマのプレートが付いている。マイクは、ケネスが出がけに会う時はいつも「ハイ、ケン」と小さいが親しみを込めた挨拶をする。ケネスは車の車種にこだわったり、手間隙かけたりするような趣味はなかったが、洗車だけは欠かさずやっていた。日曜になると裏庭のアパートの前は、ワックスの匂いのするアキュラのコンパクトと老いたビューイックが昼近くまでまるで人格をもった風情で並び、会話を楽しんでいるかのようであった。

 10月を過ぎていたが、辺りに秋の気配はなかった。風はそれらしい匂いを伝えていたが、南部特有の湿り気が夏の余韻をまだ漂わせていた。しかし、朝夕になると気温が下がって季節の変わり目を実感させる。ある晩、図書館のサーキュレイションのアルバイトを終えて、ケネスはクローガーまで車を走らせてチーズのアソートメントとチェリーをしこたま買い込んだ。アパートに着くと、10時を回っていた。メイベリー夫人の母屋の勝手口の外にある郵便受けにL.L.ビーンの通販カタログが自宅から転送されてきていた。マイクの部屋の明かりが珍しくついていた。普段は消えている時間だ。いつものように母屋の二階からメイベリー婦人の視線を背中に感じながらワンルーム・アパートの入り口の網戸を空けてケネスはクローガーの袋を脇に抱えたまま白いペンキの剥がれかけたドアを肩で押して中に入った。生暖かな空気にひんやりとした空気が入り混じる。暗い部屋の中で、ベルサウス製の留守番電話が点滅していた。クローガーの袋をキングサイズのベッドの上に放り出して、再生ボタンをケネスは押した。学部の多元文化教育の授業で同じだったが、テニスコートでたまたま一緒になって知り合った学部4年のバーブラ・ラーセンからだった。「あーっと、バーブだけど、元気?覚えてる?携帯番号を聞かなかったからキャンパス・ディレクトリーで調べたの。今度、学部の新入生の遠足があるけど、一緒に行かない?ジャック・ダニエルの醸造所を訪ねるらしいの。あまり楽しそうな場所じゃないけど、ケイジュン料理というか、バーベキューつきなの。どう?気乗りしないならいいけど、もし行くなら私のモトローラ(携帯)にお願いね。番号は・・・・・、ツー、ツー、ツー」「ツー、ツー」

 「バーブか」とつぶやきながら、ケネスはお気に入りの色々な種類の貝殻が詰まった透明ガラス製のテーブルライトをつけて、留守電をもう一度聞き直した。ジャック・ダニエルと聞いたせいか、ビールのクアーズの代わりにフラスク型の360mlビンに入ったサザン・コンフォートをグラスについで冷蔵庫にあったミネラル・ウォーターを注いだ。サザン・コンフォートを水割りするやつなんているのかなとふと思いながら、ケネスは携帯の番号を押した。セルラーフォンの呼び出し音が静かな部屋でははっきりと聞き取れる。しばらくして、「ハロー」と疑うような調子の声が返ってきた。「バーブ? ケネスだけど。」ぎこちなさを消すのに一口サザン・コンフォートの水割りをすすったが、薄めすぎて、あの甘酸っぱいバーボンと糖蜜に桃の香りが混じった味は飛んでしまっていた。「ハイ、ケン、伝言聞いた?で、どうなの?来週末なんだけど。」「あー、もちろん行くよ。アラバマの家からも近いけど、行ったことはないんだ。どこに行けばいいんだい?」「サラットの裏、サラット大学会館の裏にチャーター・バスが来るのよ。でも申し込みがそれ程多くないみたい、4台らしいの。・・・明日は教育心理学の小テストがあって、今からテキストを64ページも読まなくっちゃならないのよ。最低だわ。じゃあ、今度またテニス付き合ってね。でも負けないわよ。この間モールでヘッドのラケットを買ったし。じゃあね。」「いいよ。あっ、それから携帯はもっているから教えておくけど、あまり持ち歩かないことが多いんだ。もし何かあったらハウス・フォンに電話してくれた方が無難かな。じゃあ、また。」

 ジャック・ダニエルの醸造所に行ったことはないというのは嘘だった。数年前に父親と訪ねたことがあった。といっても父親が心臓を患っていたので、ヴァンダービルトの大学病院へ連れて行った帰りに回り道をして寄っただけで、醸造所のあるリンチバーグという小さな町は2月だったせいか冬枯れの物寂しいただ住まいをしていた。父親も早く家に帰りたがったので、醸造所のツアーもそこそこに自宅へ帰ったのだ。だからケネスにとっては、リンチバーグはそれほど魅力的な場所ではなかった。しかし、高校時代から付き合っていたエイミー・シュレーターとの仲は冷えかけていたし、アラバマという場所に決別したい思いもあって、ケネスは誰かと知り合う必要があるのだと言い聞かせていた。バーブラは、ミシガン州の出身だった。彼女は大学寮のガーネット・ホールに住んでいた。彼女はスパークリングなほどではないものの、そこそこの容姿だったので彼氏に事欠くことはなかったが、メインマンがいるわけでもなかった。彼女も故郷のミシガンに執着する気は全然なかったし、最初から心理学の大学院に行くつもりでナッシュビルに来ていた。大学院のGRE試験を受ける準備も必要だったがそれにはまだ一年あった。

 ケネスは、ベッドに横になって、L.L.ビーンのカタログをめくった。スウィフト・リバー・セーター、ウッドランド・シャツなど秋色でページが埋め尽くされているが、買うまでもないと思った。まだTシャツで間に合う日も多かったし、寒ければ大学のロゴ入りのスウェットシャツでとりあえず十分だった。今度はサザン・コンフォートをオン・ザ・ロックにして、エイミーのことを思った。心理統計演習のテストが来週あることが気になりながらも、ちょっと前に5マイルほど南のグリーンヒルにあるショッピングモールのブックストアで買ったダン・ブラウンの「ディジタル・フォートレス」のペーパーバックに手を伸ばしてページをめくりかけた。「大学のことじゃない。また今度電話して説明するから。もう切らないと。人に呼ばれているんだ。また連絡するから、約束するよ・・・」という主人公の台詞がケネス自身の言葉と重なる。ついこの間のことだ。大学院に進むことを決めていたが、エイミーには直接言い出すことができなかった。5月に卒業して、最後に会ったときも湖の周りを一緒に回りながら言葉を交わすこともあまりできなかった。エイミーは、それからしばらくしてサンフランシスコの病院に就職し、そこからメールを送ってきた。「時間が癒してくれるのか、この距離が時間を癒してくれるのかわからないけど・・・」その言葉が頭から離れないでいた。ケネスの心はコンフォート(安らぎ)とは程遠かった。

 次の日、教育行政論の授業が終わった後、主に第二言語としての英語を教えるウィルコックス教授の研究室に立ち寄った。彼は日本の浮世絵のコレクターでもある。豊国とか言う作家の日本駄右衛門という役者絵で、日本の正月に用いられる玩具を背景のモチーフとして配したものを最近手に入れたものの、どうもオリジナルではなさそうだと嘆いていた。ケネスは浮世絵なるものが何かもよくわかっていなかったし、そのよさをどう判断していいのかも理解しなかった。その意味でウィルコックス教授はある種変わり者に映っていた。彼とはタイ料理の店で同席して以来の知り合いで、特に馬が合うというわけではなかったが、ある種のドリーマーで、そこが気に入っていた。9.11を話題にしている間に時間は過ぎて6時を回っていた。ウィルコックス教授は、よかったら夕食でもいっしょにしないかと言うことでケネスを誘ってくれた。クラッカーバレルと呼ばれるテネシー発のレストランを紹介してやるよと言ってくれたが、隣の州から来ているだけなのに何だかレッドネック(田舎者)のように思われている気がしないでもなかった。クラッカーバレルではウェイターが南部なまりを強調しながら、ミートローフとマッシュポテトが今日のスペシャルになっていると勧める。二人は、一応メニューに目を通したが、ウィルコックス教授もスペシャルでいいよということになった。お世辞にもうまいとは言えないミートローフとマッシュポテトをフォークでつつき回しながら、ウィルコックス教授にジャック・ダニエル醸造所のことを聞いてみた。彼は、「行ったことはないよ」とそっけない。「ジャック・ダニエルは、宣伝がうまいよ。たいした酒じゃないのにハリウッド映画には必ずと言っていいほどジャック・ダニエルが登場する。酒瓶を割るシーンでさえジャックなんだ。あれに金をかけるから17ドルもする高い酒になっているのさ」とそっけない。「そういえば、マーケット・シェアにすれば10%にも満たないアップル・コンピュータが映画やTVドラマでは必ずといっていいほど登場するのは、そういうことなのか」とケネスは思った。ともかく教授は、ジャック・ダニエルもそうだが、バーボン自体を評価していなかった。彼はノースカロライナの出身だしナッシュビルの生活は長いが、どこかしら南部に対する偏見も感じるところがあった。ケネスは、ジャック・ダニエルに思い入れがあるわけではなかったが、そうこうするうちに何となくジャック・ダニエルに味方したくなった。

 次の日の午後バーブからテニスの誘いがあって、授業がなかった日なので、ケネスは21stストリートのコート横まで車を走らせた。バーブは新調したヘッドのラケットを抱きしめて待っていた。「ハイ、ケン。今日はたっぷり懲らしめてあげるわ。」ケネスは、テニスをエクササイズとしてしか考えてなかったので、彼女の挑戦的な言葉に少し戸惑いを覚えた。「それよりこの前の心理学のクイズ(小テスト)はどうだった?」ケネスが聞くと、バーブは、「まあまあよ、毎度のことだし。さあ、やるわよ。」彼女が新品のボール缶のタブをつまんで引き上げるとプシュっと空気の勢いよく抜ける音がした。テニスをし始めると確かに彼女のストレートは厳しい。この前会ったときは、壁打ちをしていたためにそれほどシリアスなプレーヤーだとは思わなかった。試合になると、ケネスとは一進一退が続いたが、6−4、3−6、4−6と逆転負け。最後には彼女の勝ち誇った声が辺りにこだました。「これだから、ミシガンの・・・」という言葉を思わずケネスは口にしそうになった。「くやしいの?ケン」とバーブが追い討ちをかけてきた。「そんなことないさ。ところで、土曜日だろ。ジャック・ダニエルに行くの。ネットで調べたよ。結構楽しそうだ」と遠足の話題にそらせたのは、打ち負かされた気分をそれとなくごまかそうとする自分に向けたものであったことは確かだ。夜はクラスメートのジョンと統計学の中間テストに向けていっしょに勉強会を予定していたが、何となく気が進まなくなっていた。バーブが「夕方はどこかで食事する?」と汗で光った足をさすりながら聞いてきた。「そうだね。でも8時までには帰らなくちゃ。統計の試験準備もあるし。ジョージが来ることになっているんだ。」「ジョージ・フー(誰)?」「授業で一緒の奴さ。ジョージ・オキモトっていうブラジルからの留学生だ。頭のいい奴だ。一回目のテストで満点をとっていたんだ。それ以来教えてもらっているんだ」「そう、じゃあ洗濯物取りに帰るついでに部屋で軽く食事する?」「わかった。」

 ガーネット・ホールは女子寮だ。正面玄関を入ると、暗いロビーの中でテーブルランプのやさしい光が戸外から急に暗い場所に入ってブラックアウトする目を慣らす役割をしている。それにそれなりの雰囲気づくりにも貢献しているわけだ。バーブは「エレベーターもあるけど、3階だから歩いていい?」と階段に足を向けながら訊いたが、女の子たちが2,3人出てくるのを見て、突然、「マン・イン・ザ・ドーム」と大声を上げた。「決まりなのよ。男を連れ込むときは。気にしないでね。」バーブの部屋のある3階の廊下でも彼女は「マン・イン・ザ・ドーム」を繰り返した。シャワー室からタオルを巻いた黒髪の子が濡れた髪をなでながら裸足のまま「ハイ」と言って通り過ぎる。ケネスは、エイミーがアラバマの学部時代は自宅通いだったこともあって女子寮は初めてだった。ケネスは戸惑いと好奇心の入り交じった感覚を覚えた。部屋に入ると女の子が電話をしているところだった。「ルームメイトのデニース」だと言う。彼女は指で挨拶を返した。バーブの部屋は2ベッドルームになっていた。バーブが洗濯物を取ってくると地下室へ向かった間、ケネスはベッドに腰を下ろして部屋を見回した。本棚には教科書、デイパックと服の山が開けっ放しのクローゼットからのぞいていた。窓から中庭を見るとリスが暗くなった芝生の上でどちらに動こうかと思案げであった。すぐにバーブは洗濯物を白いシーツでくるんで戻ってきた。「今、何か冷蔵庫のものを出すわ。」彼女は、冷凍ピザを電磁調理器でラップで包んで暖め始めた。それが温まると、バーブはウェストエンドにできたばかりのスターバックス・コーヒー店のマグを出してきてジンジャーエールを入れた。「アルコールはないわよ。ダニエル爺さんには悪いけど。」ケネスは子供のころアラバマでボーイスカウトにいたことを話した。「だから何となくお坊ちゃんっていう感じなのね。」とバーブは悪気なく言ったが、ケネスはむっとした。8時からの勉強会があったことが幸いして、それ以上にその場の雰囲気が悪くなることはなかったが、食事が終わるとそこそこにバーブに「じゃ、週末に」と言い残して女子寮を後にした。試合といい、その後の食事といい、ケネスにとって後味はよくなかった。彼は街灯を背に自分の影が次第に長くなるのを見つめながら駐車場まで戻ったが、何となく足取りを重く感じていた。

 土曜日の朝、ミュージック・シティーUSAと横腹に大きく書いたバスが4台サラットセンター裏に来た。チャータードと前には記してある。バーブは少し遅れてきたが、花柄のワンピースを着ていた。化粧もしているようだ。ケネスはまだ心に何となくしこりを残していたが、そのことを表情に出さないように気をつけながら、「バーブ、何か違って見えるよ。」田舎町にいくだけなのにと思いながらお世辞を言った。バーブは、「ジーンズをはいてないというだけでしょ」と返したが、内心うれしそうだった。参加者は全部で120名ほどだった。バスに乗り込むと学部生のガイドが大まかな日程を説明をし始めたが、し終えないうちにバスは動き始めた。チャタヌガへ向かう24号線を通って1時間もあればリンチバーグには着く。気温は18度くらい。バスの後ろのほうの誰かが「ゴージャスな日だ」とつぶやいて、「ヤー」と返す声も聞こえた。南部の木立が風に揺れる乾いた空気の中をバスはひた走った。マーフリースボロを南下してマンチェスターを西に行くと、コーヒー郡、そしてムーア郡と続く。醸造所のあるリンチバーグはそのムーア郡にある人口わずか350人ほどの田舎町である。ムーア郡はいわゆる「ドライ・カウンティ」。今でも郡内での飲酒は禁じられているから、酒飲みにはつらい観光である。といってもバスの中はやっと18歳になった若い連中がほとんどで、飲酒は関係なかった。ケネスたちのような飛び入り参加の院生たちは、新入生からすれば、「オーバーザヒル」、すなわち、ピークを過ぎたおじん、おばん連中ということになる。しばらくすると、マンチェスターを過ぎたあたりから田舎道に入ったと思ってしばらくしてかなり広い駐車場についた。ケネスは父親と来たときと印象が違っているように感じた。

 バスから降りると、ガイド役の学部生がツアーはビジターセンターで10人ほどのグループに分かれて始まること、午後1時に集合して、その後バーベキュー・ヒルで昼食になるという指示をした。

 ビジターセンターで受付を済ませると、まずケネスたちは、リックヤード(炭焼き小屋)に案内された。そこでグループの案内役が紹介された。「やあ、みんな。俺の名前はウィル、ここで18年働いている」とひどい南部なまりで解説を始める。このなまりが観光客向けの演出であることは確かだ。第一アラバマでもこれほどまでなまる人間は、一昔前の世代までだ。「ここで自前の炭をサトウ楓を使って作ってろ過に使うんだ。この炭にもこだわっている。」次に案内されたのは、ジャックの銅像の立つ、湧き水の小さな洞窟。この湧き水を使用するという説明だが、本当に使っているとは思えないほど、水量は貧弱に感じられた。ジャックのオフィスでは、彼が商売を始めた経緯が説明される。「ジャック・ダニエルは、1866年に若干20歳で醸造所を創設したんだ。彼は、最初馬車でウィスキーを売り歩いていたというが、その地道なセールスが実を結び、1904年、54歳の時にはセントルイスで催されたワールドフェアで世界最高のウイスキーとして各国から出品された20種以上のウイスキーの中で、金賞を受賞したんだ。しかし、禁酒法が施行されたために蒸留はストップされた。禁酒法が撤廃されて以後は、経営権がブラウン・フォアマン社に委譲されて現在に至っているんだ。」

 次が、カッパー・スティル。マッシュ(つぶされたとうもろこし・もろみ)を純度の高い135度のアルコールに精製するところである。そして工程としては逆になるが、サワーマッシュと呼ばれる場所へ移動する。そこは、とうもろこし、麦芽などが鉄分のほとんど含まれない水と混ぜられいわゆるマッシュが造られる。かなり大きな槽の中でとうもろこしの発酵する独特の臭いが辺りを異空間に変えている。酸味が多いのでサワーマッシュと言われるゆえんである。またこの「サワーマッシュ」は、バーボンに共通する製法でもあるので、バーボンの代名詞にもなっている。そして次が、チャコールメローイング。「ジャックは、サトウカエデの木で作った木炭を積み重ねた3m程の巨大な濾過槽で、一滴一滴ゆっくりと濾過する工程を経て造る濾過方法を編み出し、それ以来130年もその製法を守っている。これが、ジャックダニエルが、バーボンではないゆえんさ。ジャック・ダニエルは、テネシー・・ ・ ・ ・ウィスキーなんだ。」そっとバーブがケネスの手を握ってきた。工程説明の間、誰一人として話をしないで、聞き入っているし、学部生たちもストップからストップへ移動する間でさえほとんど黙ったままであった。それもあってか、ケネスもバーブもほとんど言葉を交わしていなかったのだ。それまでの場所もだが、たる詰めやビン詰めの場所でも働き手の人間は不思議なほど少なかった。そうしたことも静謐な場所の感覚を強調して、言葉を交わすことさえ忘れさせる役目を果たすのかもしれなかった。ようやくその頃になってバーブが「おなかが減って死にそうなくらいよ。早くバーベキューにしてほしいわ。ケンはどうなの」と訊いた。「うん」と逡巡しながらケネスは答えた。

 ツアーが終わると、参加者は一様に疲れた表情であったが、もうすぐバーべキュー・パビリオンでバーベキューにありつけるとあって、次第に元気を取り戻していった。リンチバーグの町はそれといって見所はないものの、ジェネラル・ストアでは、みやげ物を手に入れることができる。ケネスは、そこでジャック・ダニエルのロゴ入りのゴルフ用アンブレラを見つけて父親への土産にしようと考えた。バーブは、土産物よりもバーベキューへ心が向いていたので、外で腕を組んで通りを見ていた。逆光のせいで彼女のブルネットの髪が金色に輝き、ワンピースが透けて彼女の肢体の輪郭が美しく見えた。ケネスは、彼女とのある種の距離感を感じながらもその一瞬のきらめきを目の中で楽しんだ。そのときバーブが振り返って、「バーベキューへ行く時間よ。バスに戻るわよ」と憮然とした表情をしてせかした。

 バーベキュー・ヒルは、少し離れたところにあるので、バスで移動した。着くと、すでに他の客たちがバーベキューを楽しんでおり、あたり一面に食欲をそそるにおいが充満していた。学部生たちはようやく食にありつけるという喜びからか妙にはしゃいでいた。バーブも先ほどの憮然とした表情とはうってかわって満面の笑みを浮かべていた。カントリー・ミュージックの演奏も始まった。すべてがカントリー一色だった。黒砂糖入りのバーベキューソースがたっぷりかけられたメンフィスバーベキューは、南部人の脳髄まで沁み込んでいる。そして、泥臭さを消すためにスパイスをかけた揚げナマズ。食文化は根源的な喜びを呼び起こす。ケネスは「南部か」とつぶやいた。バーブが「何か言った?もっと食べなさいよ。あなたには珍しくないかもしれないけど、ケイジュン料理も悪くないわね」と言った。

帰りのバスは、行きとは打って変わって和気あいあいとした雰囲気で大学に戻った。バーブが「寄るの寄らないの?それともダウンタウンでジャズでも聞きにいく?」と訊いた。ケネスはバーブがジャズと言ったのに一瞬とまどいを覚えた。ハンツビルにあるホテルのカクテルバーへエイミーとよく聞きに行っていたからである。そこはジャズ・ボーカルの演奏がテーブルチャージなしで楽しめたし、二人とも聞きながら静かな時間を過ごすのが好きだったからである。「ジャズ?ジャズが好きなの?」「別に。ソフトロックかジャズって感じじゃない、ケンは。」「今日は、君の部屋で話をするだけでいいよ。第一腹いっぱいだし」「そうね。」

 バーブの部屋にデニースはまだ戻っていなかった。デニースの部屋はこぎれいにしつらえてある。バーブとは少し性格が違うようだった。バーブは「洗濯物をしてきていい?コインを入れてくるだけだから」と言って地下に降りていった。バーブが出て行ってからしばらくバーブのベッドの上でボーっとしているうちにケネスは、図書館のバイトをキャンセルする連絡を入れるのを忘れていたことに気づいた。バッドラックにはバッドラックが重なる。ケネスは、自分の携帯を忘れてきていることにも気づいた。司書のアシュリーはペイル・ライトの黒人だったが、性格はやさしいものの仕事にはうるさかった。うるさいというよりも責任感が強いと言う方が正しいだろう。ケネスは、彼女がすでに何度も自分の携帯に連絡を入れていると机の上に投げ出されたバーブの携帯に眼をやりながら思った。バーブは、洗濯物を入れに行っただけなのにやけに遅かった。「早くしろよ」ケネスは舌打ちを繰り返した。ケネスの手がバーブの携帯に伸びて、何度かフリップ・アップ式の携帯を開いたり閉じたりしたが、ついに左手の親指が小さなダイヤルを押し始めた。電話がつながると、「アシュリーにつないで・・・」「アシュリー?、ごめん、キャンセルするのを忘れて・・・」ケネスが言い終わらないうちに「まだはじめたばかりなのに、これで二回目よ・・・」ととがめる口調の言葉がスピーカ部からやけに大きく聞こえてきたので、ケネスは思わず携帯を耳から離した。そこにバーブの足音がした。「どうなの、来るの、来ないの?」バーブはケネスの手にある携帯から女の声が聞こえるのを見て、突然ケネスの手から携帯を取り去るとベッドに放り投げた。「いったいどういうつもりなの、勝手に携帯を使った上に女と話すなんて。出て行って。」ケネスは図書館のバイトのことを説明しようとしたが、バーブの剣幕は収まらなかった。「とにかくすぐに出て行ってよ。信じられないわ」ケネスは、複雑な思いでガーネット・ホールを出た。振り返ってバーブの部屋を見上げたが彼女の影は見えなかった。「何て日だ。サワーマッシュが本当に酸っぱい味になってしまった」とつぶやきながらも、ケネスは駐車場に戻る自分の影にどこか安堵した姿を見ていた。

サンクスギビングが終わってもバーブからは電話がなかった。ケネスも自分でも不思議なくらいかたくなに電話をしようとはしないでいた。いつの間にか彼の部屋には通販カタログが何冊もたまっていた。

クリスマスが近づいたある日、メールが届いた。“I left my heart in Alabama.”サンフランシスコからだった。ケネスは、“Well, we'll see, Jack!”とつぶやいた。

                             サワーマッシュ 福本謹一(2005/10/04)

参考 ジャック・ダニエルホームページ http://www.jackdaniels.com/