INSEAの歴史と展望

仲瀬律久(聖徳大学教授 前筑波大学教授)
(アートエデュケーション Vol.2No.4,建帛社,1990)

はじめに
「井戸の中の蛙大海を知らず」という諺は日本人がよく好んで用いる表現である。島国に住む日本人にとってこの諺は、自他を戒め、常に広い視野をもとうとする気持を表わすものであり、裏返せば、ともすると我々が独り善がりの狭い範囲で物を見たり判断したりしがちであるということを示している。日本という島国に閉じ込められた思考方法や行動様式からどのようにしたら脱却できるかということが、日本人の長い間の課題となってきたことを我々は良く知つている。そして、特に第2次世界大戦後は、国際的な視野をもつことの必要性があらゆる分野でことあるごとに強調されてきた。さらに最近では「国際化」という標語が一つのはやり言葉のようにさえなっている。したがって、このような情勢の中にあって、美術教育分野でこれまでどのように国際的な取組みかなされてきたかを振り返つてみることは、時宜を得たことと思われるのである。
本稿は、世界で只一つの美術教育者の組織であるINSEAについて浮き彫りし、その展望を示すことで本号の特集課題「教育美術と国際理解・国際化」に答えようとするものである。

1.名称について
INSEA(インセア)はlnternationaI Society for Education through Artの略称である。その日本語訳としては、当初から、国際美術教育協会、あるいは国際美術教育学会の両者が雑誌や論文などで用いられてきている。しかし、日本における二つの加入団体である日本美術教育連合、日本美術教育協会では前者の国際美術教育協会の方をとっている。これは、INSEAの目的や性格あるいは内容に合わせて上記のSocietyを協会と解釈する人々と、学会と受け止めている人々が従来からいることを示している。[ちなみに、「広辞苑」(岩波書店)では、協会は「会員が協力して設立・維持する会」、学会は「学者相互の連絡、研究の促進、知識・情報の交換、学術の振興を計る協議などの事業を遂行するために組織する団体」と定義している。]どちらに解釈するか検討するためにもUNESCOの諮問団体であるINSEAの目的や性格が、その憲章によって厳格に定められているのでINSEAを知るためには我々はそれがどのようなものか調べてみる必要に迫られるのである。

2.憲章に示されている性格と目的
憲章ではまずその前文(PREAMBLE)の最初の5条で会の性格が次のように明らかにされている。
すなわち、1. 美術における創造的な活動はすべての人々に共通する基本的な要求である。すなわち、美術は人間の表現と伝達にとって至高の一形式である。
2. 美術による教育は個人の発達の全時期を通じて本然的な学習手段であり、社会に生きる人間の知的、情緒的、社会的発達にとって特に重要である諸価値や規律を育むものである。
3. 美術教育に関係する人々の世界的な提携は、互いに経験を分かち合つたり、実践や研究を高めたり、教育における美術の地位を強化するために必要である。
4. 教職および教育分野外の学問領域に関係する人々との協力は、共通の諸問題を解決することを目指すより緊密な協働的活動が保証されるということからして相互に利益となるものである。
5. 国際的な協力とそれぞれ国が異なる人々の間のより良い理解とが、美術による教育に関する信念と実践を普及するためのより完壁に調整された計画と恒久的機構によって促進されるである。このことによって、「自由に社会における文化的生活に参与し、芸術を享受する」人間の権利および環境と相互に関連しながら美を創造することが生きた現実になるであろう。
ここでは、国際的な団体として出発したINSEAの理想がうたわれている。INSEAの歴史と展望次いで、本文第1条では、名称について英文、仏文の規定があり、さらに1「INSEAの名称は、INSEAの理事会の同意なくして用いてはならない。理事会の同意が得られた場合には、"INSEAはUNESCOの諮問をうける美術教育の国際的な非政治的世界組織である"という言葉を用いなければならなし」としている。
第2条、目的では、「会の目的はすべての国々における美術、工芸(artandcra比s)を通じての創造的教育の促進と振興および国際理解の助長である。このような目的は、会報や機関誌の刊行、情報・人材・資料の交換、原作・複製・美術教育の方法の実例についての展覧会の開催、会議・会合・研究グループの主催、美術教育に関する研究の促進と協働、美術教育の国際的研究所の設立というような手段によって成し遂げられるであろう」と決めている。この内容を前述の「広辞苑」による定義づけに当てはめてみるならば、目的的にこの国際的美術団体は学会と呼ぶことができよう。
事実、INSEAの創立前後の事情に詳しい室晴(現教育美術振興会理事長)は、「国際美術教育会のちかごろ」と題する小論(教育美術誌1956.10月号)ほかの中でINSEAを国際美術教育学会として論を進めているし、故・森桂一(前千葉大学教授)なども『日本美術教育総鑑・戦後編』の中で学会としてINSEAを紹介している。
また、この会の性格について室靖は「(前略)INSEAは、新しい主義主張を力め)げてるまれた団体であるといえる。もっとはっきりいえば、それは他の国際団体の多くかそうであるような、ある専門分野についての各国の団体の連合体ではなくて、まだ広くはうけいれられていない新しい思想をおしすすめるための団体であるといってよいであろう」と述べているが、室がここでほのめかしている新しい主義主張とはハーバート・リードによる"芸術による教育"(EducationthroughArt)のことである。衆知のごと<,ハーバートリードは芸術を通して個々人はユニークな個性を実現することができると考えていた。芸術があって初めて人々は欲求不満を解消することができ、もしそれかなければ人々は、はけ口として攻撃的な傾向を帯びるかもしれない。そのような意味で芸術は社会に重要な貢献をしているし、同時に芸術は平和のための教育であるとしている。
INSEAは、まさにこのような理想実現を目指して出発した団体なのである。リードは、1959年にはINSEAの名誉会長にもなっている。

3.INSEAの発足まで
INSEAの実質的な誕生は、1951年にブリストルで開催されたユネスコ・セミナーに端を発している。これは、第2次世界大戦後初めての国際的な美術教育のセミナーであったが、この会議の出席者が中心になって美術教育の国際的な交流と協力を趣旨とする団体であるINSEAが生まれることになる。研究や実践の場にある美術教育者が、実際に一堂に会して互いに研究の交換をしたり、子どもたちの作品を持ち寄つて意見を交換したりすることの意義の大きなことはだれでもが認めるところである。したがってINSEA誕生前にも戦前すでにこのような趣旨を達成しようとする国際的な団体である国際美術教育連盟、略称FEA(仏名・Federation intemationale pour l'Education Artistique, 英名・The lntemationaI Federation for Art Education,Drawing and Art Applied to lndustries)があったのであった。この団体は1900年にパリで「第1回万国美術会議」が開催されたときに組織され、1904年にスイスのベルリンで設立総会を開いて以来、1908年(ロンドン),1912年(ドレスデソ),1925年(パリ),1928年(ブラーグ),1935年(ブラッセル),1937年(パリ)というように合計8回国際会議を開催してきたが,その後は、1955年にスウェーデンのルンドで第9回会議を開催するまでの18年間は第2次世界大戦をめぐっての国際的、政治的緊張あるいは戦後の混舌しなどから会議を開催することができないできていた。第9回のFEA会議は28か国約800名が出席したとされているが、日本からも手塚又四郎を初めとする4名の代表団が参加している。この間の事情については『日本美術教育総鑑・戦後編』(p.161)に糟谷実の報告があるがそれによれば、「(前略)中心議題は、第2次世界大戦のため1937年第8回のパリ会議を最後として、18年間中絶していた本会の再興に関する諸問題で、問題の第一点は、1954年パリで設立第1回の国際会議を開いたINSEAとの関係。第二点は自由主義国家群と共産主義国家群を融合し、真に世界の平和教育を目指すlntemationalな会へ発展させるための方策であった。このことに関しては、委員会をつくって慎重に協議し、3回にわたって総会へ報告し熱心な協議を重ね、ようやく次の結論に到達した。即ち歴史ある本会を復活して、本部をスイスに置き、常任委員をスイス、イギリス、フランスから出して、本部を構成し運営に当たる。参加各国はそれぞれ支部を組織して、協力体制を整える。(後略)」となっている。
一方、室晴によれば、「INSEAの設立者、つまりユネスコセミナーの参加者たちは、FEAという団体は自然に解消したものたという諒解で、唯一の国際団体のつもりで、INSEAをつくったわけです」ということでINSEAの設立にあたって当面した問題としてFEAとの関係をどのようにするかということがあった。さらに室靖は当時の模様について「さてINSEAができてみると、当然両団体の関係が生れてくる。はっきり言えば、一一ずい分うかつともいえるが一一INSEAをつくろうとした人々は、IFE(FEAのこと・筆者注)は戦争によって解消したものだという了解にたっていたわけである。なにしろ戦前最後の大会が開かれて以来15年以上も音沙汰がなかったことで、そう考えたとしてもあまり無理ではない。ところが最近になってIFEが存在しているということがはっきりしてみれば、何とか両団体の関係を調整せねばならないことになる。道は一つ、合併か共存以外にない。最初の動きはIFEから合併の可能性についての非公式な申出があったが、そのうち打ち切られた。聞くところによると、IFEはINSEAかたいへん金をもっているということを聞いて一一ユネスコからの補助金を大きくみつもりすぎて一一申し入れたところ、大して金もないと分かって興味がなくなったらしいとのことである。INSEAとしては理事会が開かれるまでは会長としても交渉の仕方かなかったので白紙の態度でいたようである。理事会では、この間題を真剣に討論したが、結論は合併について悲観的なものになった。これは第一に、両団体の性格が、今となると多少違つていることが明らかになったからである。一口にいうと、IFEの方は図画工作という一教科の中の問題を考えている傾向があるのに対して、INSEAはその前文にも表明されているよ外こ、美術という人間のいとなみを非常に重視し、それを突破口として全教育のやり方を変えようとい外まどの大それた考えをもっているという意見が強かった。(後略)」心ということで、両者ともどもに合併か共存かは当時大きな問題であった。
このような問題を互いに抱えながら、FEAの方は1958年にバーゼル(スイス)で第10回会議、1959年パリで各国代表者会議、1960年ベニスで各国代表者会議、1961年ミュンヘンでの各国代表者会議を経て1962年に第11回ベルリン大会を開催しながら合併への姿勢を整えそして、実際にはそれがFEAの最後の大会になった。一方、INSEAも、1957年・第2回総会をへーグ(オランダ),1960年・第3回総会をマニラ(フィリピン),1963年・第4回総会をモントリオール(カナダ)で開催しつつ次第に合併の態度を固め、最終的に1963年、INSEA・FEA合同のヨーロッパ委員会がもたれ合併の運びとなったのであった。これらの動きについて倉田三郎は、「(前略)私は1960年のマニラ第3回INSEA会議の席上、二者合同の即席提案を行つたが、この提案はその提案の方法も唐突かつ杜撰であったために、正式に採択されなかった。しかし、一一の関係者の『合同は極めて重要である』という声を耳にしたことによって、私の合同意見が必ずしも独断的なものでなかったことを知つた。(中略)その後INSEA側は第二副会長の室靖氏を折衝委員に委嘱し、室氏とFEA会長ミューラー氏との会談も行われ、とにかく両者の合同への具体的な動きが見られるようになった。なぜ私が両者の合同を望んだかというと、INSEAもFEAも国際会議と銘打つて、EA即ちEducation through Artの思想を裏付けており、両会議ともハーバート・リード卿を中心人物に据えようとしているからである。全く異なった系列の美術教育観を構成する立場にある会議ならば二つ存在しても三つ存在しても不自然なはずもない。ところがFEAとINSEAとはその教育観の基礎において何等異なるものを見出し難い。相違点はそれそれの会の歴史的経過と、人的組み立て方が異なるだけである。にもかかわらずINSEAのみが逸早くUNESCOの下部機関として認められてしまったところに両者の溝がいっそう明らかな姿として浮かび上がってしまったといえる。(後略)」と述べている。このように、倉田、室の提案や努力もあり遂にINSEAとFEAは第4回INSEAモントリオール会議において正式に完全合同の運びとなったのであった。
倉田はさらに、FEAの開会回数を合同後の新発足の新INSEAが包含することを強く提唱してもいる。その結果FEA第12回大会をINSEA第17回東京大会に名称変更ができるよりになったのである。しかし、今でもINSEAの公式のパンフレットなどには東京大会が開催されたことについての記載がどこにもないという不思議がある。1951年の創設、そして1954年の正式発足以来INSEAは憲章に従って3年おきに世界会議(総会)を開催してきているわけであるから、第4回、1963年モントリオール世界会議の次は憲章どおりにいけば1966年が世界会議の開催年である。したがって、1965年の東京大会はINSEAの憲章に従って開催されたものというよりは、「長い間願っていた合同が達成してうれしい、すでに2年前にFEA委員会は、1964年パリ、1965年東京の会議開催を決定しているが、たとえ合同が達成したとしても、これらの前約が破棄されるならば日本の全美術教育者は国際会議へ不信感を抱くだろう。すでに日本は1965年会議の準備に突入している。この間題をじゅうぶん考えていただき、もしFEAの規定線が守られるなら、1965年にはこぞって東京大会に参加してもらいたい」と、倉田三郎がモントリオール世界会議の全体会議の提案時間に述べ、その後この提案が全面的に受け入れられたとしていることから察しても、東京大会は、実質的にはINSEAとFEA合同の大会であったが、そのきっかけからして本質的にはFEAの大会という日本以外の当事者には受け止められていたと考えられないであろうか。事実それを裏書きするかのように東京大会の翌年にプラハでINSEAの世界会議が開催されているのである。これらのことを頭に入れながら次にINSEAへの入会案内に見られるINSEA世界会議の開催地について見てみよう。

4.INSEA世界会議の開催地とテーマ

1951年 ブリストル(イギリス)ユネスコ・セミナー/テーマ(普通教育に置ける美術による教育)
1954年 パリ(フランス)創立総会、正式に国際団体として発足
1957年 へーグ(オランダ)テーマ(思春期の美術教育)
1960年 マニラ(フィリピン)テーマ(人間と美術)
1963年 モントリオール(カナダ)テーマ(美術による国際理解)
1966年 プラハ(チェコスロバキア)テーマ(美術教育-未来の教育)
1969年 ニューヨーク(アメリカ)テーマ(科学技術時代のヒューマニズム)
1972年 ザグレブ(ニーゴスラビァ)テーマ(視覚芸術と個性の発達)
1975年 セーブル(フランス)テーマ(レジャー時代における創造性活用の美術教育)
1978年 アデレイド(オーストラリア)テーマ(多様な文化と芸術)
1981年 ロッテルダム(オランダ)テーマ(過程と成果)
1984年 リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)テーマ(21世紀において創造教育の探るべき方針)
1987年 ハンブルグ(ドイツ)テーマ(イメージの世界)
1990年 マニラ(フィリピン)テーマ(21世紀前夜の美術教育)政状不安定のため中止
1993年 モントリオール(カナダ)テーマ(美術教育のルーツ、現在、未来)
(1965年に開催された東京大会がINSEAの世界会議ということであれば、当然1963年と1966年の間に1965年東京・テーマ<科学と美術教育>が挿入されなければならない。しかし、東京大会は不思議なことに世界会議としても地域会議としても記載されていない。)
また、歴代の会長とINSEAの世界地域は、以下のようになっている。
<INSEAの歴代会長>
初代1954-60 エドウィン・ジーグフェルド(アメリカ)
2代1960-63 チャールス・ゲイッヶル(カナダ)
3代1963-66 J・A・ゾイヵ(ドイツ)
4代1966-69 倉田三郎(日本)
5代1969-73 エレノア・ヒップウェル(イギリス)
6代1973-76 エイミー・ハンバート(フランス)
7代1976-79 アル・ホーウィッツ(アメリカ)
8代1979-82 ジャック・コンダス(オーストラリア)
9代1982-85 ブライアソ・アリソソ(イギリス)
10代1985-88 フラソソヮーズ・シャバソヌ(フランス)
11代1988-90 エリオット・アイスナー(アメリカ)

<INSEAの世界地域>INSEAは6地域に分けられ、それぞれの地域から理事が選出されている。
1. アジア地域
2. 東南アジア・パシフィック地域
3. ラテン・アメリカ
4. ヨーロッパ
5. 中近東とアフリカ
6. 北アメリカ

5.INSEAの活動
INSEAは、3年に1回の世界会議における研究発表、情報交換・交流を通じて美術・工芸を通じての創造的教育の促進と振興を図つている。これらの活動状況はそのつどの研究誌(例えば、1987年8月、西ドイツ、ハソブルグ市で開催された世界大会についてまとめた大会誌が今、西ドイツで発行されている),あるいは、年3回(3月、7月、11月)発行されているINSEA NEWS(会誌)を通じて会員に諸情報が提供されている。例えば、最新のINSEANEWS(1990.VOLI)を見るとその内容は、主としてヨーロッパ地域(イタリー、西ドイツ、英国)からの状況報告、次いで他地域(ブラジル、ベネズェラ、メキシコ)の活動状況、文献出版情報、諸大会・会議情報などとなっており、会員になることで世界の美術教育の情報の獲得やコミュニケーションが図れるようになっている。このインセア・ニュースからもうかかえるように、3年毎の世界会議の間には各地城で精力的に地域会議が開催されていることがわかる。アジア地域においても現在までに9回の地区会議が開催されている。このニュースの巻頭言の会長挨拶の中で、現会長エリオット・アイスナーは、本年7月行われる予定であったフィリピン・マニラ市でのINSEA世界会議の当地の政治情勢不安定によるやむをえざる中止。1991年もこれからでは設定できないこと。1992年の設定はすでに予定されている1993年のモントリオール大会を最高のものにするためには好ましくないことなどについて説明している。さらにINSEAへの加入国や会員の増加(例えば、本年1月のエストニア、2月のルーマニアの加入)についても触れ、INSEAの発展に希望をもって言及している。平成元年11月、日本美術教育連合(JAPAN-INSEA)の年次総会で講演した折のアイスナーによれば、現在の会員数は92か国約1500人であり、日本人会員約40名が含まれている。

6.将来の展望
美術教育に関する世界的な団体が少なくとも一つは必要であるということを否定する人は少ないであろう。問題は、必要と知りながらも個々人がこれに積極的にどれほど加入できるかということである。INSEAがより一層発展し、大きく強力な組織体となり、国際的に様々な分野の人々に認識されるようになるためには、INSEAへの各国の美術教育団体の加入が将来ますます増加するとともに、個人会員数の増大がぜひとも必要である。会員となっての具体的な個人的メリットという点に関して述べることはなかなか難しいことであるが、それは一つには、INSEAの発展が直接、間接的に自国の美術、工芸教育の促進と振興に結びつきうるという認識を個々人がもつことができるかどうかに掛かっていることであるし、また一つには、自分は国際的な団体(学会)の一員であるという誇りと自覚が自己を高めうるかどうかということにも掛かっていることであると思われる。
この小論を書くにあたって諸文献に目を通してみて感じたことは、やはり1965(昭和40)年のINSEA東京大会の意味の大きさであった。この世界会議を成功に導くために中心的存在となってたいへんな努力を日夜払われた関係諸氏に今さらながら敬意を表したい恩いである。当時若輩たった筆者はそのような先輩諸氏に励まされてただ無我夢中で研究発表などさせてもらったに過ぎなかったが、このようなものを含めて、そこで費やされた膨大なエネルギーは文部省を始めとするあらゆる関係者を巻き込み、美術、工芸教育に対する認識を新たにさせるものとなったのであった。確かに、国際会議を開催することの異様な興奮と盛り上がりは他の何ものによっても実現不可能なものであり、それだけにアピールする効果も大きい。だが、今我々は再び日本においてINSEAの世界会議を開催するだけの意思の結集ができるであろうか。昭和40年当時の燃え上がりを期待できるであろうか。経済大国日本へ世界の熱い目が注がれている中で、国内的に我々はどの程度の財政的援助を国や民間から期待できそうであろうか。正直に言つてどの答えも今のところ悲観的である。しかし、展望としていずれは日本のためにもINSEAのためにも将来我が国で美術教育の国際会議を開催することが求められてこよ丸そのときには必然的に外国への窓口を一本化することが必要となってくる。以上は、日本の立場からINSEAの将来を展望してみたものである。
はじめの言葉にも書いたように、美術教育に関わる我々は、他のだれよりも島国的な思考方法や行動様式から脱却し、自己の視野を広げる必要がある。なぜならば、美術教育はりードが言うように平和のための教育だからである。